1546年(天文15年)11月中旬、浅香山宿営地の後始末と感謝の宴
立花家は堺の会合衆と協定を結び、浅香山宿営地は更地にして返却する約束になっていました。
しかし、折角築かれた施設を破却するのは惜しいと考える人々が居るのは当然でした。
感謝の宴が始まります。
1546年(天文15年)11月中旬
浅香山宿営地で開かれた土産物市場は堺の町から珍しい品物が集まり、一般の兵士達も家族の為に都風の衣類や西洋風の衣装、宝飾品など気に入った物を購入しました。
土産物市場は11月15日、16日の2日間で盛況の内に終了、翌17日の正午から浅香山宿営地にて上洛を支援してくれた堺の町衆を招いて感謝の宴が行われました。
招待客は近衛家、九条家の商務奉行、堺の町を取り仕切る会合衆に浅香山宿営地建設に関わった職人や資材を調達した商人や護衛を務めてくれた本願寺、大徳寺、東福寺、石清水八幡宮の指揮官等80名程になりました。
立花義秀と猿渡盛胤は招待客の席を廻り、上洛の準備段階から世話になり、上洛が成功した事に感謝を述べました。明日から順次帰国する事を告げて別れを惜しみます。
同盟大名家の諸侯も二人に習い招待客に酒を注ぎ感謝を述べて廻りました。
宴席には海の幸が並び、タコ、真鯛、スズキ、鱧、海鮮天ぷら、山菜天ぷら、鹿肉の回鍋肉などが招待客の胃袋を満たし、清酒や焼酎が振る舞われました。
やがて酒が進み酔が回った一部の招待客がそれぞれ堺の町の進む道について議論が始めました。
焦点は浅香山宿営地の取り扱いについてですが、浅香山宿営地は立花家と堺の会合衆との約束で更地にして返却する事になっています。
堺の町衆や会合衆の中には浅香山宿営地を改装して要塞として利用したいと考える軍備増強派と、約束通りに更地にして返却してもらう穏健派と意見が対立しています。
そこに本願寺の司令官から会合衆筆頭、山城屋庄三郎に浅香山宿営地を本願寺に任せて欲しいと申請があり、3つの異なる対応について会合衆と関係者の間で意見が交わされました。
浅香山宿営地の扱いを間違えると予測不能の状況になる恐れがあります。
立花義秀は浅香山宿営地を更地にするつもりでしたが、事態は急変していました。
松千代が義秀に囁きます。
「お爺、宿営地の姿を見てしまったら使いたくなるのは仕方がないよ。更地するなんて勿体ないからね。
大和川沿いにあり、湧き水あり、風呂、監視塔、御殿に倉庫、宿泊出来る建物に軍馬の厩舎が揃い、見た目も良好だよね。
要塞として使うなら半分の規模に改修して本願寺、大徳寺、東福寺、石清水八幡宮と堺の町の兵士が共同管理するのが無難じゃないの?」
「五者の共同管理?…うむむ、そうだなぁ、それなら本願寺単独で管理するよりも良さそうだ!
会合衆の筆頭、山城屋に打診してみるぞ、近衛家と九条家の商務奉行にも話しを通しておくのもよいだろうな…」
義秀は席を離れて会合衆筆頭、山城屋庄三郎を別室に案内して打診してみました。
山城屋は共同管理の提案に驚き、検討する価値がある故、明日の昼までに回答すると返答しました。
堺の町に近い浅香山宿営地を更地にするか、要塞として使うのか、朝廷も注目する筈です。
義秀は浅香山宿営地の後始末について近衛家と九条家の商務奉行を別室に招いて状況を知らせました。
朝廷を支援している本願寺、大徳寺、東福寺、石清水八幡宮の軍事力と堺の傭兵が協力するなら良い事だと、共同管理に理解を示しました。
感謝の宴に政治の話題は相応しいものではありません。立花家の女性兵士達が着飾って招待客の席に付いて酒を呑ませて語り合い、和やかな雰囲気を盛り上げました。
夕刻、日没する頃には最後に立花義秀から感謝の挨拶
がありました。
「それでは皆様に申し上げます!
立花家、猿渡家、同盟大名家の諸侯は皆様の支援を賜り、無事に上洛致しました。
明日から我々は順次帰国いたしますが、皆様の支えのお陰で無事に帰国出来る事を感謝致します!
誠に有難う御座いました!」
立花義秀の挨拶で感謝の宴が終わり、招待客は安全の為に浅香山宿営地に宿泊する事になりました。
松千代が想定していた危惧が当たりました。
松千代の提案通り、宿営地を修築すれば要塞や城郭として使用可能になります。
果たして堺の会合衆の判断は?




