1546年(天文15年)10月下旬、立花家、同盟大名家の上洛始動!海路で堺湊へ!
品川湊の起源は大化の改新の645年に遡り、当時の大國魂神社の財力で造られました。
立花家は品川湊の共同管理に携わり、生き残る事が出来ました。
立花家、大國魂神社の大宮司、猿渡家、五摂家は全て起源は中臣鎌足、藤原一族の創始者の子孫でありました。
1546年(天文15年)10月下旬
立花家の上洛使節一行は大型商船5隻、中型商船5隻、合計10隻が護衛の軍船に守られて船団を組みました。
初日、二日目、3日目と10隻ずつに別れて出発しました。
海路、目的地の堺湊まで通常の商船なら天候に左右されて5日から10日掛かります。
停泊先の湊が収容出来る船が限られている為に船団を三つに分散しています。
確実に堺湊に向かう為、停泊地は下田湊、鳥羽湊、熊野湊、田辺湊、和歌山湊、堺湊の六ヶ所、順調なら六日目に堺湊に到着する日程を組みました。
更に安全確保の為に九鬼水軍、熊野水軍、雑賀水軍の護衛が各々の水域で護衛する手筈を整えました。
松千代と立花義秀は上洛第一陣の船団に乗船、横浜湊から15日の早朝に出発、下田湊、熊野湊、田辺湊、和歌山湊を経由して六日目の10月20日の早朝、堺湊に向けて出発しました。
立花水軍に加えて九鬼水軍、熊野水軍、雑賀水軍が5隻ずつ軍船を出して護衛に付きました。
和歌山湊は紀の川の河口にあり、出航するとすぐに目の前に淡路島が広がります。
淡路島を左に見ながら北東に進むと堺の湊の方角になります。
松千代と立花義秀は東側に広がる陸地を見ながら堺の湊へ近づく事にワクワクしていました。
「お爺、自分の知る前世の横浜の海より桁違いに綺麗な海が広がってたよ!
伊豆半島から下田の海は七色に輝いて、駿河湾の海は独特の宝石の様な緑色!鳥羽の海の辺りは風光明媚、田辺も和歌山も全部凄い海が綺麗!それから停泊地では歓迎の宴で、伊勢海老、アジ、イカ、真鯛、ヒラメ、ウニ、サザエに牡蠣等、海の幸が絶品で毎日満腹だったから絶対太ったよ!」
「ぶははは!毎日が宴会で海の幸が凄かったなぁ!焼酎樽と清酒樽を返礼に差し入れたら皆が大喜びであったぞ!
太古の昔から立花家と交易しているからな、鳥羽湊は九鬼水軍、熊野湊は熊野水軍、田辺湊、和歌山湊は雑賀水軍、各々立花家とは友好関係にあり、航路が安全なのだ!」
「わぁ!お爺、立花家は凄いね!
さらに瀨戸内海の航路から九州博多や薩摩、鹿児島の航路があるんでしょ?」
「松千代、航路を最初に開いたのは立花家じゃないぞ!太古の昔だが、大化の改新の頃の事、中臣鎌足や天智天皇が日本史に残る改革を成し遂げた頃の大化元年(645年)に品川湊を造ったのが大國魂神社なのだ!
伊勢神宮との交易や都への航路を切り開いたのは大國魂神社の先人達の皆様の努力の賜物なのだ!今は立花家が引き継いだに過ぎぬ!」
「えぇー?そぉなの?もしかして品川湊は大國魂神社の所有地なの?」
「そうだ、凡そ900年前に品川湊を造り上げた大國魂神社の所有地だぞ!
源義家公が立花家を創立した永保四年(1084年)から大國魂神社から共同管理を任され、四年前に安全を高める為、同盟大名家も管理の分担に参加させて頂いた!」
「でぇー!驚いた!大國魂神社が品川湊を900年前に造ったなんて凄い!」
「松千代、大化の改新の中臣鎌足が天智天皇から藤原姓を賜り、藤原家の繁栄が始まった。藤原一族が武蔵国の国司に何人も赴任して子孫が武蔵国に定着して藤原家から猿渡家が創立され、藤原一族の娘が源氏の棟梁、源義家公と出会い、子供が生まれて立花家の創立に繋がった!
立花家も猿渡家も中臣鎌足の子孫、朝廷の五摂家、近衛家、九条家、鷹司家、二条家、一条家も中臣鎌足の子孫なのだ!
その血筋が将来の道を開く!」
「わぁ!五摂家も立花家と遥かな歴史の流れで血が繋がっているなんて凄い!」
「凄いだろう?これも大國魂神社の大神様の導きだろう。それからなぁ、鎌倉幕府、初代将軍、源頼朝公から猿渡家と立花家に隠し子を託された事があってな、鬼嫁、北条政子から逃がす為、猿渡家と立花家から若者を護衛に付けて品川湊から薩摩に届けた。
しかし、現地では鎌倉幕府に楯突く勢力が有り、薩摩国内で各地を転戦して薩摩を制圧したそうだ。そしてその隠し子が薩摩守護職、島津忠久、島津家の初代当主になったのだ!」
「うわぁ、凄い!鬼嫁に見つかれば命が危ないかもね?薩摩まで遠い上に薩摩を平定するまで大変だったね!」
「ぶははは!それでな、知っておろうが、護衛の若者達はそのまま島津家の家臣になってなぁ、やがて後年、その時の返礼に島津から文武両道に優れた若武者が送られて参ったのだ!その子孫が伊集院忠久、新納忠義、東郷信久などの重臣になっているのだ!」
「有名な話だけど、お爺から語られると凄い歴史を感じる!」
やがて大阪湾の先に堺の湊が見えました。
立花家の船団は大型商船5隻、中型商船5隻、大型軍船2隻、中型軍船4隻に、九鬼水軍船5隻、熊野水軍船5隻、雑賀水軍船5隻の総勢31隻、立花家の菊の紋章の軍旗と九鬼水軍、熊野水軍、雑賀水軍の軍旗が風に靡いています。
堺湊には堺の豪商、幕府の役人、五摂家の関係者、先乗りした立花家の軍勢と堺の民衆達が31隻の勇壮な船団に驚きました。
「見ろ!九鬼水軍!熊野水軍!雑賀水軍が
護衛してるぞ!立花家は水軍を味方にしているぞ!」
水軍に詳しい者が声を上げました。
湊に立花家が用意した七台の太鼓が一斉に鳴らされ、府中囃子の太鼓の音が響き、横笛の笛の音色が出迎える民衆を盛り上げました。
立花家の船が次々に堺湊に入り、出迎えの人々から大いに歓迎されました。
「お爺、凄いよ!堺の湊は品川湊、横浜湊より大きい!でかーい!」
「ぶははは!俺も初めての上洛だ!
これほど大きいとは驚いた!
堺の湊は世界から商船が集まるからな、これからは品川湊、横浜湊や六浦湊をもっと大きくせねばならんぞ!」
松千代と立花義秀は遂に上洛の一歩、堺湊に到着しました。
数日後に都に上洛、室町幕府の新将軍、管領に拝謁して和解、更に武蔵守護職叙任の儀式が待っています。
松千代も立花義秀も胸の鼓動が高まりました。
大國魂神社は景行天皇が111年にご神託を受けて創建を命じたとされ、創建当時から鎌倉時代以前の大宮司は不明、史実では鎌倉時代初期に藤原兼延の子孫が猿渡家を創設して大國魂神社大宮司に就任しています。頼朝の隠し子に関与した褒美に大宮司になったのかもしれません。
しかし、作品の都合で、立花家創設時に猿渡家が大國魂神社の大宮司として登場しております。
作品の柱になる部分なので、立花家と大國魂神社、大宮司、猿渡家の深い繋がりを示す為に史実と異なることをを緩くお許しください。
源頼朝の隠し子の島津忠久は頼朝公の死後に鎌倉の頼朝公墓所に家臣を派遣して代々墓守りを続けました。頼朝の墓は執権北条家の方針で意図的に質素に造られました。
島津家は明治の時代まで守り続けて現代に至りますが、島津家が墓守りしていなければ墓の存在が知られて無かったかもしれません。
島津家のご落胤の事は真偽が諸説あり、薩摩には赴任せず、都に居住していたとか、忠久の子孫が薩摩に渡った等の諸説があります。
更に島津家が墓守りをしたのも諸説あり、鎌倉時代からだとか、江戸時代になってからだとかの説もあります。
作者としては都合の良い解釈で話を進めて参りますので緩くお許し願います。




