1546年(天文15年)7月上旬~下旬、高槻の戦い!将軍足利義晴派、管領、細川晴元軍に勝利!
関白太政大臣、一条房通は幕府の再生と立花義秀の武蔵守護職叙任を目指して働きます。
苦難の道を進む房通に立花義秀が贈った親書から打開策が明示されていました。
1546年(天文15年)7月上旬~下旬
昨年の7月、一条房通は朝廷の最高位、関白太政大臣に就任しています。
関白太政大臣に就任出来るのは五摂家と称される家門に限られています。
過去には866年(貞観8年)4代関白、藤原良房から1158年(保元3年)20代関白、藤原忠通までの凡そ300年間も藤原家が朝廷の最高権力を独占した暗黒の時代が続きました。
その時の反省から特定の一族が権力を独占しる事を避ける為に五摂家が定められました。
近衛家、九条家、鷹司家、二条家、一条家が五摂家と呼ばれ、筆頭は近衛家、一条家は家門の序列順位が五番目になります。
関白太政大臣は序列順位筆頭の近衛家、次席の九条家から就任した人数が圧倒的に多いのではないかと思われます。
一条房通は最近になり、興味本位で自分を含めた歴代関白太政大臣を調べてみました。
側近数名を手伝わせて書庫から記録を引き出して調べた結果、最近の150年間、40名の関白に近衛家7名、九条家5名、鷹司家4名、二条家14名、一条家9名と判明しました。
「驚いた!…この150年で序列四位の二条家と五位の一条家が半数を超えて就任しているぞ!なぜだ?近衛家、九条家が文句を言わずに?…」
「関白殿下、近衛家、九条家は立花家から年貢や献金を得ており、更には堺の湊の取引にて財政的に余裕がございます。伝統文化や工芸美術の継承、発展に尽くされ、最高権力を積極的に求めている様子がございません」
「昨年亡くなられた先代関白の鷹司忠冬様が、言うていたな…五摂家は帝を支え、国の民を想い、欲に囚われず、勤めを果たす事!決してかつての藤原一族の如く権力を独占してはならぬと…
近衛家、九条家が模範を示して五摂家同士の権力争いを避けているのだな…敢えて権力に固執せず、五摂家が力を合わせて来た歴史があったのだ!」
「昨年亡くなられた先の関白、鷹司忠冬様が殿下を推薦なされ、近衛家、九条家も忠冬様の意見を尊重なされて殿下が関白太政大臣に就任なされました。一条家からは久々の関白就任でございました」
「そうだなぁ…先代の忠冬様は最近の関白を遡り、10代前に就任して以来、長きに渡り一条家から関白が就任出来なかった事を気になされていた。五摂家が協力するには時にそんな不満を取り除く配慮が必要であったのだ。
その忠冬様はお亡くなりになる前に立花家を育てよ!と申された。
それで立花家に武蔵守護職の他に…更に何か与えたいが…立花義秀の官位は従四位、左近衛中将だったな?」
「はい、左様にございますが、立花義秀に更なる上級官位を考慮なさいますか?」
「あぁそうだ、古代より、皇室や近衛家、九条家の荘園はほぼ全て横領された。
唯一、立花家が管理する武蔵国の荘園だけが律儀に守られ、年貢や献上品や献金を届けて数百年も朝廷の財政を支えた事は称賛に値する!従三位、左近衛大将の官位を考えているのだが…当然幕府側の反発があるだろう」
「立花家に守護職を与えるだけでも大きな反発がありましょう。
管領の細川晴元は確実に怒るでしょう。
鍵になるのは将軍、足利義晴と将軍支持派の細川氏綱、畠山政国、六角定頼の反応になります」
「取り敢えず、立花義秀の武蔵守護職を与えるのが先決、次に足利義晴の嫡男を元服させて新たに将軍に就任させるには細川晴元を黙らせる必要がある!」
「殿下!立花義秀殿から預かった親書に秘策がございます!
将軍様が後継者に将軍職の継承を望んだ時、幕府の管領と対立する勢力に官位を与えて懐柔し、細川晴元の管領職を解任、新たな管領を任命すると幕府体制を根底から革新出来ると進言がございました!」
「それだ!その手があった!
官位をちらつかせ、管領細川晴元の横暴に反対する勢力を結集するぞ!
細川晴元の軍勢を打ち砕き、新将軍を就任させる!新管領に幕府の再生を託し!付き従う諸将に高位の官位を与えれば、立花義秀の武蔵守護職、官位昇格も目立つ事はあるまい!」
一条房通は閣議を開く前に五摂家の当主を訪問、考えを打ち明けて各々内諾を取り付けました。
五摂家の意思統一が成立した事により、閣議にて足利義晴から隠居申請と10歳の嫡男を元服させて家督継承する事、将軍職を継承する事が発表されました。
この事実を知った幕府管領、細川晴元は激怒して播磨の戦場から10000の軍勢を率いて都へ移動しました。
それに対して足利義晴派の細川氏綱、畠山政国、六角定頼の軍勢を結集、大和国、和泉国、河内国、摂津国から味方を募り、摂津国の高槻に総勢20000の軍勢を集めて都へ進撃する細川晴元の軍勢を待ち構えました。
7月22日、細川晴元は高槻に足利義晴派の軍勢が展開していると知り、決戦を覚悟しました。細川晴元の軍勢は足利義晴の軍勢には常勝を続けていたため、周到な偵察もせずに戦いを始めました。
戦いが始まると互角に戦うも、足利義晴派の軍勢は次第に押され北に向かって後退を始めました。
細川晴元の軍勢は今回の戦いも勝てると信じて追撃を開始した処に東から迂回した足利義晴派の別動隊5000に回り込まれ、背後から痛撃され敗走、軍勢は茨木、吹田方面に下がって粘りましたが、さらに厳しく追撃されて晴元は命からがら播磨方面に退却しました。
細川晴元の軍勢は壊滅的打撃を被り、兵力回復には相当な時間を要する事態に追い込まれ、足利義晴派の軍勢の勝利は都の朝廷や京の民には朗報となりました。
幕府の主流派、管領細川晴元の主力軍壊滅の報せは近江坂本に逼塞していた足利義晴を歓喜に包みました。
高槻の戦いの勝利に関白太政大臣、一条房通が側近達と手を叩いて喜びました。
「やったぞ!これで幕府の再生と立花義秀の叙任の障害物を退けたぞ!」
「関白殿下、直ぐに五摂家と日程の調整に取り組みましょう!」
管領、細川晴元の勢力が削がれた今、新たな将軍就任の道が開かれ、立花義秀の武蔵守護職叙任へ邪魔する者が排除されました。
史実では管領細川晴元に対立する足利義晴派の攻勢は9月に始まりますが、立花家が歴史に介入した事で2ヶ月早まりました。




