1546年(天文15年)6月上旬~下旬、立花家使節、武蔵守護職請願へ上洛!
武蔵守護職請願へ立花家の使節一行が上洛します。立花家一門、藤原家長、日奉宗政、猿渡盛春の三名は古代から朝廷との繋がりある家門に生まれた因縁があります。
朝廷は使節一行を優遇する状況にありました。
1546年(天文15年)6月上旬~下旬
6月10日に出発した藤原家長、日奉宗政、猿渡盛春の請願使節一行は17日に堺の湊に到着しました。事前に知らせていた事もあり、湊には近衛家、九条家の商務奉行が使節一行を出迎え、堺の湊では立花家の商館に滞在しました。
請願使節一行は近衛家、九条家の奉行に導かれて6月24日に上洛、都は戦乱の為に治安が悪く、内裏周辺には安易に近づく事が出来ません。
その為、内裏から8キロ、近衛家の東福寺別邸に滞在する事になりました。
東福寺は藤原忠平が924年に創建、九条家の菩提寺にしており、何度も戦災で由緒ある建物が消失しました。
近衛家と九条家はその度々に皇室や時の権力者を動かして再建に携わり、最大の支援者になっています。
この為、近衛家と九条家は東福寺の広大な敷地内に別邸を所有しており、東福寺の僧兵が警備を担います。
立花家は皇室、近衛家、九条家の財政を支えています。立花家は間接的に東福寺を支える後援者の立場にあり、それを承知している東福寺側から最大級の配慮がなされました。
やがて 6月27日、お忍びで訪れた関白太政大臣、一条房通との対面が実現しました。
朝廷の役職の最高位は五摂家の近衛家、九条家、鷹司家、二条家、一条家から選ばれます。立花家は皇室、近衛家、九条家の荘園から毎年の年貢や献上品を届けています。
同時に近衛家、九条家を通じて鷹司家、二条家、一条家にも献上品の名目で五摂家の対面を支える資金を提供しています。
皇室、近衛家、九条家の富の源は立花家が握り、五摂家の鷹司家、二条家、一条家はその縁に繋がり支えられています、
近衛家、九条家の仲介で立花家からの請願があれば出来る限りの支援をしなければならない立場にありました。
─東福寺、近衛家別邸─
─関白太政大臣、一条房通、藤原家長─
「藤原家長殿、請願の事は随分前から近衛家、九条家から内々に聞かされて聞かされておりました。
元来、国司、守護、守護代等は朝廷が任命する物であり、幕府に任命権を貸していたに過ぎません。今や幕府は権力争いに明け暮れ、将軍は管領の細川晴元に追い出され、近江の坂本に逼塞して無力の存在になりました。
幕府の権力を握った細川晴元は摂津国、丹波国、播磨国を転戦しており、幕府の実態は崩壊しています。
関東の事は毎年立花家から朝廷に報告書が届いており、古河公方家の侵略行為は関東の広い範囲に及び、憂慮しております」
「謹んで朝廷の皆様の御配慮に感謝致します。古河公方家は関東最大の領地と松山上杉家、前橋上杉家、越後上杉家等と連携して度々立花家と戦いに及びました。
我らは同盟大名家の支援を取り付けて、なんとか撃退している状況にございます」
「朝廷としては立花家が倒れては困る。
正直に申せば朝廷の財源は立花家以外に無し!朝廷や皇室に関わるほとんどの荘園は横領されて、立花家が管理する荘園の年貢と献上品が命である!
立花家は遂に武蔵国の大半を領有するに至り、武蔵国の守護を託すに足りると判断する!立花義秀の武蔵守護職の請願については最善を尽くして認可を取り付ける!」
「ははっ!恐悦至極に御座います!
この度は五摂家(近衛家、九条家、鷹司家、二条家、一条家)の皆様にお手数をお掛けいたしますが宜しく御願い申し上げます!」
「それでは幕府側に悟られては面倒な事になるからな、墓参りをして戻る故、吉報を待たれよ!」
関白太政大臣、一条房通と立花家の請願使節一行の対面は僅かな時間で済ませました。
万が一を考えて幕府側には秘密にして行動しています。一条房通は墓参りの名目で東福寺を訪問しています。
立花義秀からの請願書、近衛家、九条家からの 推薦書を受け取り、親族の墓参りを済ませると、東福寺の僧兵が護衛を勤め、行列を率いて立ち去りました。
一条房通の動きは府側にも情報が伝わりました。幕府も朝廷に内通者を雇っており、数日後には幕府の管領、細川晴元に知らされて晴元が激怒します。
晴元は播磨国の戦場から5000の軍勢を率いて駆け付けて上洛すると近衛家、九条家の屋敷に迫りました。
しかし、近衛家や九条家の屋敷には東福寺の僧兵、対立する畠山政国勢、総勢5000が周辺を警備しており、細川晴元の軍勢は進撃を停止する事になりました。
近衛家、九条家には細川晴元と対立する畠山政国、六角定頼を操る術がありました。
帝の内意と称して管領、細川晴元を隠居させて畠山家又は斯波家から次期管領を任せる事をちらつかせ、軍勢を提供させて細川晴元を制御する事に成功しました。
更に朝廷は関白太政大臣、一条房通から細川晴元に対して乱暴狼藉を働くならば朝敵と見なすと通告、細川晴元は諦めて京を離れ、播磨の戦場に戻る意思を固めました。
播磨の戦場には5ヶ国の太守、尼子氏に支援された浦上家が播磨統一を目指して赤松家を圧迫しており、晴元は戦場に戻る事を優先しました。
細川晴元の軍勢が去り、都が戦場になるのは避けられました。
数日後、朝廷に近江坂本の将軍、足利義晴から嫡男の元服と烏帽子親の世話の依頼、足利義晴の隠居申請に加えて嫡男の将軍就任申請があり、幕府の管領、細川晴元への仲介を泣きついて来ました。
細川晴元に都から追放され、武力も財力も無い貧乏将軍には朝廷に縋るしかありません。
朝廷は足利義晴の依頼を全て受け入れる代わりに、幕府に与えていた守護、守護代、地頭の任命に朝廷の認可を必要とする一定の条件と朝廷も任命権を持つ事を足利義晴に認めさせました。
朝廷は関白太政大臣、一条房通の指導力に導かれ、立花義秀の武蔵守護職認可と新将軍擁立の準備に取り掛かりました。
朝廷の思惑通りに進めば、朝廷主導の幕府体制に移行する可能性がありました。
全てを成就するには幕府の管領、細川晴元の軍勢に勝利して晴元を隠居させるか、戦って討ち取るしかありません。
朝廷は細川晴元に反発する勢力の結集を急ぎました。
立花家の年貢奉納と献上品、献上金は朝廷を支え、朝廷の財政は安定しています。
財政が逼迫して崩壊している幕府は分裂状態にありました。
管領細川晴元と反発する勢力が戦い、将軍が近江坂本へ追放されたまま、窮乏している状態にありました。




