1546年(天文15年)5月10日、小金城の攻防戦!
小金城を守る畠山忠國から苦戦を知らせる使者が派遣されました。
小金城を無事に守り切れるでしょうか?
1546年(天文15年)5月10日
小金城を守る立花家、畠山忠國は軍勢を三つに分けました。
小金城の西南側を加賀美利久(立花義秀の三男)に任せて5000の兵力を預けました。
畠山忠國自身は5000を率いて小金城の東南側に布陣しました。
小金城内に高城義明の2000を配置、城兵1000と合わせて3000軍勢で城内を強化しました。
小金城を頭に西南に5000、東南に5000が陣取る事で三角形の陣形になります。
小金城は守りながら城内から出撃して古河公方軍を攻撃可能になります。
攻める側に消耗を強いる戦い方になります。
畠山忠國は加賀美利久の武将としての器量に期待していました。
古河公方家領と高城家領の領境を守る為、下総国鎌ヶ谷城周辺に駐留軍の武将として2年間、本多広孝の下で鍛えられて成長しています。思いきって兵力の半分を任せて存分に働いてくれる事を期待しました。
小金城を攻める古河公方軍は23000、午前8時頃より攻撃が始まり、瀬能勢5000が小金城を攻撃、曹洞宗勢8000が加賀美勢を攻撃、宇都宮尚綱率いる僧兵10000が畠山勢を攻撃しました。
守りを固める立花家の軍勢は徹底的に弓矢の連射で古河公方軍側に安易な接近を許さず、
騎馬隊の弓矢の連射が古河公方軍側を苦しめます。
古河公方軍側は多数の盾を前に並べて慎重に前進します。
立花家の軍勢は上空に多数の弓矢を放ち、対抗します。古河公方軍が溜まらず乱れた隊列に立花家の長槍隊が攻撃します。
一旦後退する古河公方は兵力の差を生かして新手の軍勢に交替して前進を開始します。
一進一退の攻防が続きました。
立花家の軍勢も疲れた部隊を交替しますが、古河公方軍は兵力に余裕があり、頻繁に交替する余裕がありました。
正午を過ぎると流石に立花家の軍勢に疲れが見えて来ました。
畠山忠國はこのままでは危険と判断します。
鎌ヶ谷城の立花義國へ使者を派遣して救援を乞いました。
しかし、使者は安全を考慮して東松戸城付近を経由した為、行き違いになり、義國が佐津間城周辺に向かっていました。
使者は佐津間城付近で義國の陣営に飛び込み、やっと救援を乞う事が叶いました。
午後15時半頃、漸く小金城付近に本多広家の軍勢5000が到着しました。
広家は畠山忠國が周囲に配置した案内人に導かれ、小金城の東西に別れて奮戦する味方へ道案内を受けました。
広家は軍勢の半分、2500を叔父、本多信孝に託して西側から加賀美勢の救援を任せました。
広家が率いる2500は東側の畠山勢の救援に向かいました。
加賀美勢も畠山勢も、押し込まれて危険な状況に現れた本多勢に救われました。
援軍に現れた本多勢は古河公方軍の最前線に到着すると弓矢の連射をしながら弓隊が接近します。20メートルの至近距離まで接近して連射すると後方から長槍隊が槍先を揃えて古河公方軍部隊を突き崩しました。
本多勢に圧倒された古河公方軍は無理せずに後退、撤収を始めました。
古河公方軍も疲れていました。
兵力で優勢でしたが、立花家の軍勢と戦うには弓矢の連射との戦いが主流となり、死傷者が続出する消耗戦になります。
宇都宮尚綱が率いて来た僧兵の大軍に経験を積ませる事が出来て、成果は充分です。
これ以上の戦いは無益と判断して引き上げる事になりました。
本多勢は無理をせず、早々に追撃を切り上げてこの日の戦いが終了しました。
「エイ!エイ!おぉー!
エイ!エイ!おぉー!
エイ!エイ!おぉー!
エイ!エイ!おぉー!」
古河公方軍を撃退した周囲の将兵が勝利の勝鬨を挙げました。
しかし、本多勢の将兵が泣き出しました。
本多勢の多くの兵士達が泣いています。
小金城の将兵は救援に来た本多勢の兵士から
本多広孝の訃報を聞かされて驚きました。
本多広家は父が亡くなったばかりなのに、小金城の救援を志願して救援に来たと兵士から聞かされました。
畠山忠國は本多勢の心の強さに感謝して彼らを迎えました。
忠國は本多広家と対面すると彼の手を握り、本多広孝を失った御悔やみの言葉を掛けました。畠山忠国は、この地にて1ヶ月に渡り一緒にに戦い、本多広孝から多くの事を学んだ事を語り、涙を流しました。
この日、小金城の立花家の軍勢は古河公方軍の攻撃を凌ぎ、撃退しましたが、勝利の喜びは無く、次席宿老、本多広孝の死を悼みました。
小金城は本多勢の救援が間に合い、古河公方軍の攻撃を撃退しました。
しかし、戦局は古河公方軍の優勢な状況が続きます。




