1546年(天文15年)4月30日、鉢形城包囲開始!
鉢形城周辺の城は全て陥落しました。
秩父藤田家、立花家、三田家、大石家の軍勢が鉢形城を包囲する事になりました。
1546年(天文15年)4月30日
鉢形城攻略部隊主将、立花義弘は鉢形城の南東4キロの吉野城を28日に攻略、29日は兵士達の疲れを考慮して休息させました。
鉢形城の全容を見る為、鉢形城の南1キロの車山に登り、山頂陣地にに作られた展望台から鉢形城の姿を確認しました。
─秩父藤田家、車山陣地─
─立花義弘、福島正義─
「正義、鉢形城は随分と大きな城だな?
川越城よりも立派じゃないか?」
「はい、昔、長尾景春が名将太田道灌に対抗する為に作られたのが鉢形城の起源にございます。昨年12月、秩父遠征の帰路に立花軍が包囲した時に比べると改修されて防御力が高まったと聞いております。」
「城全体が水堀に囲まれてるのか?」
「全てではありませんが、大半が荒川と深見川より引き入れた水でを水堀で囲んでいます。
さらに空堀を組み合わせて侮れぬ防御力と思われます。」
そこに秩父藤田家宿老、薗田清正が説明に現れました。
二人の目の前に鉢形城の絵図を広げました。
「ご覧ください。鉢形城の北側に荒川が流れ、絶壁になっています。城内に深沢川から水を引き入れて東側と南側の大半を水堀で囲んでいます。
空掘りの防御だけだった西側の守りは今年から改修して水堀を巡らせた事により、防御力が高まりました。」
「鉢形城は本丸、二ノ丸、三ノ丸、笹曲輪、御殿下曲輪、秩父曲輪、諏訪曲輪、逸見曲輪、大光曲輪、外曲輪、連雀曲輪、等11ヶ所の防御施設がありますが、さらに増築して防御力を高めています。
鉢形城の周囲は凡そ2里(8キロ)の難攻不落と言われております。」
「薗田殿、鉢形城の兵力は?」
「はい、凡そ3500と見ております。」
「そうか、川越城よりは一回り小さいが、侮れぬ城であるな……外堀、内堀に水が満たされて簡単には落ちそうに無いな……
それで城内に内通する者は?」
立花義弘は主将として緊張しながら状況を確認します。
「はい、内通者は数名おりますが、敵も警戒して頻繁に配置を変えて対策しており、最近は連絡が難しくなりました。」
「それなら矢文にて投降や、内通を呼び掛けて城内を疑心暗鬼にしてやるぞ!
まず、車山に武将達を集めて軍議をせねばならん。正義、手配を頼む!」
福島正義から諸将達に車山に集合の通達が手配され、車山に諸将が集まりました。
軍議の前に立花義弘は諏訪頼宗から紹介されて青龍寺住職の浄心と対面しました。
花園城から始まり、花園御嶽城、虎ヶ岡城、仲山城の4つを攻略する鍵となった事を直接説明しました。
さらに浄心が秩父藤田家前当主、藤田重綱の庶腹の兄の立場と知り、立花義弘は喜んで現当主、藤田康邦との対面をさせました。
藤田家が鉢形藤田家と秩父藤田家に別れて以来、鉢形城の荒川対岸2キロの至近距離に所在する青龍寺との交流が遮断されていました。現当主、藤田康邦は久々の叔父との対面を喜びました。
叔父、浄心から猪俣一族が秩父藤田家に帰服する報告と取り交わした約束の書状を渡されました。
猪俣一族の領地、美里郡の安堵、仲山城を攻略した功績を評価して仲山城を与える事、猪俣信綱を宿老として迎える事が記されていました。
微笑みながら藤田康邦は承認するに1つだけ条件を出しました。
青龍寺住職、浄心が藤田康邦の相談役に就任する事でした。
相談役の就任を快諾した浄心は猪俣信綱を呼び出して藤田康邦と君臣久々の対面をさせました。両者笑顔の再会となり、軍議に集まった諸将にも猪俣信綱が紹介され、和やかな雰囲気で軍議が始まりました。
福島正義が司会を務め、総大将に立花義弘が選出され、副将は立花義弘の推薦で秩父藤田家当主、藤田康邦が選ばれました。
─鉢形城攻撃配置─
─東側、外曲輪、連雀曲輪攻撃部隊─
立花義弘5000
福島正義4000
合計9000
─南側、大光寺曲輪、逸見曲輪攻撃部隊─
藤田康邦1000
薗田清正1000
富岡久光1000
三田家、木住野泰知1000
大石家、田野倉英明1000
合計5000
─西側、諏訪曲輪、三ノ丸、攻撃部隊─
伊集院忠久4000
岡本政國2000
合計6000
─北側、笹曲輪、秩父曲輪、本丸攻撃部隊─
三田綱秀4000
諏訪頼宗3000
猪俣信綱1000
合計8000
軍議にて配置が決まりました。
矢文にて内通や投降を勧める事、まずは正攻法で無理攻めはせずに東、南、西から攻撃する事、北は暫く攻撃を控えて断崖からの攻め口を探し、機を見てから攻撃する事が決まりました。
青龍寺住職、浄心の活躍で猪俣一族が正式に秩父藤田家に復帰しました。
鉢形城は完全に孤立しました。
難攻不落と言われていますが、どんな戦いになるのでしょうか?