1546年(天文15年)4月27日、花園城攻防戦!
花園城攻略の鍵は青龍寺の住職の協力を取り付ける事でした。
小前田諏訪神社の縁が実を結び、青龍寺住職の協力得る事が出来ました。
諏訪勢と三田勢の連携が上手く出来るのか?
花園城の戦いが始まります。
1546年(天文15年)4月27日
諏訪頼宗の側近は諏訪神社の案内人の仲介で
青龍寺の住職と対面しました。
花園城攻略には道に詳しい案内人と花園城の地形を知る為の絵図が必要になります。
青龍寺住職は秩父藤田家に深い縁がありました。喜んで要請を快諾、案内人2名を用意した上に、絵図を1枚を書き上げました。
青龍寺は高根山一帯を寺領に持ち、山の中の湧水を麓の青龍寺まで導水しています。
高根山に棚田と畑を持っています。
山中に道を切り開き、高根山から山伝いに花園城へ通じる道がありました。
花園城は西から本丸、二ノ丸、三ノ丸、東曲輪の4つの構造と判明しました。
青龍寺の案内人は日頃の山菜採りや農作業、水路の管理業務、山中の道路管理で高根山から花園城の地理に精通しています。
案内人は花園城の東曲輪を攻撃する事
、さらに北から二ノ丸を攻撃する事を提案しました。2人の案内人は鉢形藤田家が藤田本家を相続した事に反発している藤田家一族出身の若者でした。
青龍寺住職の協力を取り付けた諏訪頼宗は囮となるべく花園城の南側から西へ向かう偽装行軍を開始しました。
諏訪勢3000は花園城の南側、末野に差し掛かりました。
既に先行させた威力偵察部隊が各所で小規模な襲撃に出会いました。
諏訪頼宗は威力偵察部隊に応援の軍勢500を繰り出して支援します。
敵の軍勢は前橋上杉家の沼田昭光の軍勢と判明しました。
沼田勢は花園城の南西に布陣して待ち構えて居ました。
花園城の山の南側に末野諏訪神社があり、
斜面に3つの通路がありました。
末野諏訪神社前を通過する諏訪勢を3つの通路から出撃した城兵が襲いかかりました。
─鉢形藤田家、花園城─
沼田昭光勢1000
城主、藤田氏晴勢500
諏訪勢3000は花園城の南西で沼田勢と戦う先鋒部隊が1000、花園城から出撃した城兵300と戦う中軍が1000、後方に1000が控えています。戦闘範囲は周囲1キロに及びます。
諏訪勢は戦いに疲れた部隊と後方から元気な部隊を交代させながら時間を掛けて戦います。沼田勢と一進一退の戦いを演じ、中軍は沼田勢と花園城の城兵との戦いに苦戦を演じて囮の役目に専念しました。
諏訪勢の後方では三田勢4000が花園城から2キロ離れた青龍寺の裏手から高根山に入り、花園城の東曲輪の攻撃部隊2000は音を立てぬ様に静かに移動しました。
やがて東曲輪に到着しました。
東曲輪の前には深い竪堀が二重に掘られて簡単に接近出来ない構造になっています。
諏訪勢は多数の鉤縄梯子を使い、塀に鉤を引っ掻けて侵入に成功しました。東曲輪の守備には僅か20名しか居らず、忽ち降伏して東曲輪は陥落しました。
花園城は南側の諏訪勢との戦いに城兵500の中から300が出撃しています。
城内の守備が手薄になっていました。
東曲輪を攻略した軍勢は次に三ノ丸攻略に進みました。
二ノ丸攻撃部隊2000は高根山から花園城の北を通る裏道に出ると二ノ丸前の北門付近に進出しました。
北門付近の塀に鉤縄梯子を使い侵入した部隊が北門を制圧すると一気に城内に侵入に成功しました。二ノ丸へ殺到した三田勢は
二重の、竪堀に苦戦しますが二ノ丸の兵力は50名ほどです。
2000の軍勢が鉤縄梯子と兵士同士が手を繋ぎ高い塀を乗り越えて侵入すると一気に制圧しました。
二ノ丸を制圧した三田勢が本丸へ向かいます。二ノ丸の異変に気が付いた城主、藤田氏晴の手勢は100ほどしかありません。
囮役の諏訪勢3000を包囲する事に夢中になり、後方から現れた三田勢に気付いた時には既に遅く、本丸の周囲は三田勢に囲まれました。しかし、本丸は二重の竪堀が深く、高所から弓を放たれると三田勢は簡単に近付けません。
本丸の塀の高さは鉤縄梯子を掛けるのも困難な高さになっていました。
三田綱秀は本丸の周囲を包囲させると本丸の塀に多数の火矢を撃たせました。
下から塀に当てて刺さる矢は少なく、威力が無い矢は刺さりません。
塀に刺さる矢は少なく、火が付いた矢は直ぐに消化されてしまいます。
次に本丸の建物を狙い火矢を放ちました。
建物に火が移らぬ様に城兵たちは火消しに忙しくなりました。
「もう、良いだろう。本丸の正門に鉤縄を掛けろ!」
三田綱秀の命令に兵士達が動きます。
本丸の正門に多数の鉤縄と鉤縄梯子を引っ掻けて門を引き倒し、一気に侵入しました。
周囲を囲み、火矢を放ったのは正門の防備を薄くさせる為でした。
「降れ(くだれ)!降れー!
勝負は付いた!秩父藤田家に降れー!」
侵入した三田勢は極力血を流す事を避けて降伏を促します。
各所で降伏を勧めると元は秩父藤田家の兵士と農民達です。
下士官や雑兵達は次々に降伏します、
やがて城主、藤田氏晴も降伏勧告に従い降伏しました。
三田綱秀の指示で、本丸の最上部から三田家、立花家の軍旗が掲げられました。
本丸の陥落を知らせる勝鬨が揚がりました。
「エイ!エイ!おぉー!
エイ!エイ!おぉー!
エイ!エイ!おぉー!
エイ!エイ!おぉー!」
「見ろ!花園城が落ちたぞー!」
「三田家と立花家の軍旗だ!」
「やったぞー!」
本丸からの勝鬨と軍旗を見た城下の戦場に歓声が上がりました。諏訪勢が本気で攻撃を開始します。
「押し出せー!」
諏訪頼宗が攻勢に転ずる命令を出しました。
沼田勢は本気の諏訪勢に押し込まれ、崩れて退却を始めました。
しかし、その背後には花園城から背後に先回りした三田勢に塞がれていました。
無数の弓矢の雨が注ぎ、逃げ廻ると長槍部隊に突つかれ、頭を叩かれて次々に潰されます。四方を囲まれて沼田昭光は討たれ、軍勢は壊滅しました。
花園城南側に残った城兵 300は諏訪勢と城を落とした三田勢に囲まれて降伏しました。
諏訪勢と三田勢が合流すると勝鬨があがります。
「エイ!エイ!おぉー!
エイ!エイ!おぉー!
エイ!エイ!おぉー!
エイ!エイ!おぉー!」
─諏訪頼宗、三田綱秀─
「綱秀様、花園城の攻略は見事なお手並みでございました。勝利出来たのは三田勢の働きのお陰にございます。」
「諏訪殿、貴方こそ、諏訪神社に戦勝祈願を成された事から諏訪の神様のお導きを引き出しなされました。
青龍寺のご住職の協力を取り付けて頂きました功績は大きく、困難を克服出来ました。
それにしても、花園城は想像したより優れた防御力がありました。まともに攻めていたら犠牲者だらけで敗北は免れぬ堅城でした。
諏訪勢が囮になり、大半の城兵を引き込んだお陰で攻略出来ました。
我が軍勢は4000ながら手勢は1000に過ぎず、3000は立花義秀様からの借りた軍勢です。
彼らこそが懸命に戦ってくれました。
彼らに勝利の要因がございます。」
三田綱秀は謙虚に勝因は諏訪頼宗と貸してもらった立花家の兵士達と主張しますが、三田綱秀の指揮官としての優れた判断力が勝利の要因になりました。
諏訪頼宗は花園城の北西の花園御嶽城に降伏勧告する事を提案しました。
花園城の戦いに敗れた沼田勢の一部は北西に逃亡しています。
既に敗北を知り、城主の気持ちは籠城か?降伏か?揺れているはずです。
降伏勧告の使者に花園城主だった藤田氏晴に任せる事を提案しました。
藤田氏晴が説得に成功すれば彼の功績になり、秩父藤田家に逆らった事を補う事になり、彼自身の行く末を切り開く事になります。藤田氏晴に打診すると使者になる事を承知しました。
正使に藤田氏晴、副使に諏訪頼宗の側近が交渉に向かいました。
夕刻、花園御嶽城から使者が戻りました。
花園御嶽城は降伏、開城に同意に至り、明日の28日、正午に城の受け渡しが決まりました。
諏訪頼宗、三田綱秀の連携が上手く填まりました。囮の諏訪勢に引寄せられた城方は守りが手薄になり、防御力を強化した事を生かせぬまま、花園城が陥落しました。