1546年(天文15年)4月17日、秩父に前橋上杉軍が侵攻?
三峯神社の神様が松千代を通じて秩父の危機を知らせました。
松千代に指名された伊集院忠久が秩父に向かいます。
1546年(天文15年)4月17日
4月上旬の事でした。
立花義秀と鹿島政家が政務中に松千代が現れました。秩父の三峯神社の神様から夢のお告げがあったと知らせます。
「お爺、三峯神社のイザナギ、イザナミの神様が北から前橋の上杉家が秩父に攻めて来るって教えてくれたょ!」
「なにぃー!!前橋上杉家が?」
鹿島政家が秩父周辺の大地図を出してきました。
「殿、前橋から南に下り本庄から真っ直ぐ南に秩父に至る街道が通っております。
秩父には藤田勢と近衛中将府の駐留軍を合わせて4000しかおりません。
早急に対処せねば危ないと思われます。」
「お爺、伊集院のおじ様なら秩父をまかせてだいじょーぶだょ。
それからねぇ、神様がぁ秩父を守ってくれたらご褒美に金山と銀山とか砂金とか見つかるから、民の幸せの為に使いなさいだって!」
「ぶはははは!松千代、わかった!お前の指名とあらば神様の保証付きだな?
政家、伊集院忠久に5000の軍勢を与えて秩父に派遣する!手配を頼むぞ!
ぶはははは!秩父を守ったらご褒美が見つかるんじゃな?」
先日はそんな事があり、松千代に指名された伊集院忠久に白羽の矢が刺さりました。
4月14日、伊集院忠久の軍勢5000が秩父に出陣しました。
初日は青梅に宿泊、その先、山中の行軍は疲労を考慮して3日の行程を組み、4月16日日14時過ぎに秩父に入りました。
秩父の街に入ると領民が手を振り、秩父囃子の笛太鼓の歓迎を受けました。
昨年12月、秩父藤田家を前橋上杉家から守った事で立花家の軍勢は秩父では英雄扱いになります。
伊集院忠久は秩父近衛中将府、駐留軍主将、岡本政國と秩父藤田家当主、藤田康邦、後見人の先代当主、藤田重綱と合流、周辺の状況を確認しながら軍議が始まりました。
冒頭、伊集院忠久は立花義秀から総大将は秩父藤田家当主、藤田康邦、副将の伊集院忠久が実際の総指揮を取る事を命じられた事を表明します。
これは秩父の領主のプライドを守る配慮です。
まず、敵方、前橋上杉家の情報が知らされます。前橋城近くの前橋八幡宮から秩父神社大宮司に連絡があり、前橋上杉家の軍勢が15日、川越方面と秩父方面に向かった事が判明しています。
前橋上杉家は武門の神様、前橋八幡宮にお参りして出陣するのが慣例になっています。
前橋八幡宮は関東の八幡神社全てを統括する府中、大國魂神社の系列の神社です。
昨年12月に立花家が秩父藤田家を支援して以来、大國魂神社の四ノ宮、秩父神社と繋がる情報ルートが出来上がりました。
さらに軍議中に大國魂神社の五ノ宮、金鑚神社(児玉郡神川町)から前橋上杉軍2000が御嶽山城に入ったとの知らせが入りました。
金鑚神社も大國魂神社の系列の神社です。情報は秩父神社に届き、秩父神社敷地内の近衛中将府に知らされる事になっています。
昨年12月、前橋上杉軍は立花軍に対抗して鉢形城に5000の援軍を本庄から美里経由で派遣しています。
今回は異なる進路から来る気配です。
南下して来ると北側の国境の出牛城が前橋上杉軍と鉢形藤田家の軍勢に挟み撃ちにされて維持するのは困難です。
先代秩父藤田家当主、藤田重綱からの申し出があり、出牛城は破棄、将兵は撤退、領民は周辺の寺院に退避させる事が決まりました。
前橋上杉軍が出牛城から南下すると日野沢城、国神城、大渕城、小柱城、が2キロ間隔に並び簡単に突破出来ない防御力を発揮します。
敵対する鉢形藤田家の兵力は、藤田友綱の軍勢1000と前橋上杉家駐留部隊2000の合計3000。
前橋上杉軍の侵攻部隊が仮に10000と想定して防御体制を考えます。
東から鉢形藤田軍が侵攻して来た場合、国境の皆野城、龍ケ谷城、いずれか突破されると厳しい戦いになります。さらに東秩父方面の山岳地帯から侵攻してくる可能性も十分に考えられます。東秩父方面は城の配置をしていない地域です。
秩父藤田家に協力を申し出た寺院を城塞仕様に改築して対応してきましたが十分ではありません。
近衛中将府、駐留軍主将、岡本政國は秩父藤田家親子と協力して対策を準備していました。
秩父藤田家支援をしている秩父一帯の寺院は約200院、その内僧兵を持つ寺院は160院、曹洞宗、真言宗、臨済宗の三大宗派と諸派の宗派の代表と協議した結果、敵の侵略を受けた場合、兵力を提供する事に合意しました。
さらに各寺院の地元の檀家の一族から志願兵を募り、秩父防衛隊として採用、僧兵部隊の訓練は各宗派と秩父藤田家、近衛中将府の協力で行いました。
通常は農民や商人、職人として働き、定期的に弓、槍、薙刀、投石の基礎訓練、集団行動訓練を行いました。肉体的訓練以外に文字の読み書きを教え、近衛中将府の意義や、立花家の思想の講義や帝から綸旨を戴いた事、朝廷から宣旨を下された話や、ここ数年の合戦の話題など飽きさせない工夫を重ねました。
訓練に参加すると昼食を支給します。
訓練が終わると給金に米と野菜が支給されて好評でした。1院につき20名の志願兵を育成、これにより集めた秩父防衛隊は3000になりました。緊急時に出陣する予備軍として戦いに望みます。発足して4ヶ月、主に短弓、投石訓練を中心に練度を高めました。
─鉢形藤田家兵力─
藤田友綱1000
前橋上杉家駐留部隊2000
前橋上杉軍本隊推定10000
推定合計13000
─秩父藤田家兵力─
藤田重綱、康邦1000
近衛中将府駐留部隊3000
伊集院忠久5000
秩父防衛隊3000
合計12000
総大将、藤田康邦
副将、伊集院忠久
実際の総指揮権は伊集院忠久が握ります。
─東秩父方面、万善寺─
鉢形城方面から南下する敵に備えます。
秩父防衛隊、薗田清正1000
─西部方面、小暮城─
敵が西廻りに侵攻した場合に備えます。
秩父防衛隊、中山秀征1000
─北部方面、大渕城─
御嶽山城から南下する敵に備えます。
岡本政國3000
─長瀞方面、皆野城─
長瀞の国境、激戦必至の戦場です。
伊集院忠久5000
─聖山城─
皆野城の南2キロ、大渕城まで3キロ、支援部隊として待機します。
秩父防衛隊、富岡久満1000
─秩父神社、本陣─
秩父藤田家の存在と権威を領民に示す為、秩父の中心地に本陣を構えます。
藤田重綱、康邦1000
軍勢の配置が決まりました。
秩父防衛隊は1000名ずつ秩父藤田家の指揮官に委ねました。
秩父藤田は昨年12月に立花家の支援を受けてから、地元の神社、寺院から絶大な支援を受けました。
そこで、秩父の大地主、秩父神社の大宮司一族から筆頭宿老に薗田清正、次席宿老に三峯神社の大宮司一族から中山秀征、秩父今宮神社の大宮司一族から富岡久満を序列三位の宿老に迎えました。
─4月17日─
─早朝、秩父神社─
武将達が秩父神社大宮司の出陣の儀式を受けて出陣します。
早朝から秩父の街は出陣する将兵を見送る領民で溢れました。
薗田清正勢1000が東秩父方面に向かいます。中山秀征勢1000が西部方面に向かいます。
岡本政國勢3000が北部方面に向かいます。伊集院忠久勢5000が長瀞方面に向かいます。富岡久満勢1000が支援兵力として聖山城に向かいます。
太鼓が鳴り響き、歓声が上がります。
各部隊を送る声援が掛かります。
ダダダン!そのだ!
ダダダン!そのだ!
ダダダン!なかやま!
ダダダン!なかやま!
ダダダン!おかもと!
ダダダン!おかもと!
ダダダン!いじゅういん!
ダダダン!いじゅういん!
ダダダン!とみおか!
ダダダン!とみおか!
各々の軍勢が通る度に声援と拍手が沸き上がり、将兵達に気合いが入りました。
秩父藤田を巡る戦いが間も無く始まります。
前橋上杉軍が秩父に進軍中です。
前橋上杉軍を取り仕切る筆頭宿老、長尾憲長の思惑は?
秩父にどれだけの軍勢を向かわせるのでしょうか?




