1546年(天文15年)4月17日、立花義秀、宮寺城に到着、川越上杉家攻略へ!
宮寺城は目の前を東西南北に街道が交差する交通の要衝です。丘陵地帯にあり、本丸最上部からは広大な田畑と茶畑、入間川の河川敷の眺めが見渡せます。川越城まで15キロ、川越の町の姿を目視出来る距離にあります。
1546年(天文15年)4月17日
─入間小谷田、新座大和田方面─
4月1日から入間小谷田、新座大和田陣地構築が始まりました。
500の工兵部隊と支援する近隣の城から派遣された兵士500、護衛部隊1000が警備しています。
入間小谷田、新座大和田陣地は川越上杉家との国境の交通の要衝です。
主要な街道筋の交差する地点にあり、川越城まで道が繋がり、5時間以内に到達する距離にありました。
武器、兵糧の中継基地として最適な場所です。プレハブ式倉庫型の武器蔵、兵糧蔵が作られています。前世に土建会社に勤めた立花義秀が考案、現地で組み立てる事で作業の効率が上りました。周囲に板壁を張り、柵を建て、数ヵ所に二階建ての出入りの門を作り、上部から弓を射撃します。さらに数ヵ所に監視塔を作り周囲の警戒と高所から弓を使った防御力の高い陣地を作りました。
立花義秀は4月17日早朝、府中から15000の軍勢を率いて午後13時過ぎに宮寺城(入間市)に到着しました。
宮寺城には数々の戦況の報告が集まっていました。
上総公方家、里見家の救援に向かった立花将広の軍勢が一色直頼率いる古河公方軍14000を破り、主将一色直頼、結城政勝、原胤清の3名を討ち取り粉砕、佐竹勢を味方に引き入れ西に転進、下総公方家の軍勢11000を破り、小弓城まで撤退させた事が知らされました。
情報伝達には日時が掛かる為、立花将広の軍勢がすでに上総国南部に転進した事までは伝わっていません。
下総国、柏、流山方面の戦いは一進一退の攻防が続き、鳩ヶ谷方面に向かった嫡男、義國の軍勢が4つの城を確保、岩槻太田家当主、太田資正の軍勢は浦和城を全焼させて大宮城に撤退した事が判明しました。
宮寺城の本丸の最上部から目の前に広がる入間小谷田陣地を眺めました。
着工から17日目、ほぼ出来上がっています。
─宮寺城、本丸最上部─
─立花義秀、鹿島政家─
「政家、陣地の先に小高い山があるが、あそこに砦が作れないか?
川越城から上杉勢を誘き寄せる餌になりそだがなぁ。」
陣地の先4キロに小高い稲荷山がありました。国境の川越上杉領側にあり、敵方の柏原城から近く、砦を作り始めたら攻撃を受ける可能性があります。
「殿、あの辺りは稲荷山です!
川越上杉領ですが、入間川沿いに5000以上の軍勢を展開すれば大丈夫でしょう。」
「政家?稲荷山に砦が作られるとなれば、川越上杉家が黙っているか?」
誘いに乗って川越城から出て来たら上杉朝定の軍勢を叩いて粉砕する!
さらに追撃して川越城まで攻め込むのはどうだ?」
「殿、川越城を攻め落とすならば鳩ヶ谷方面に向かった義國様の軍勢を川越周辺に呼び寄せる必要があります。
弟君の義弘様の軍勢と合わせて15000の軍勢で新座大和田陣地に移り、待機して頂きます。こちらから新座大和田陣地まで街道が通り、伝馬で半刻(1時間)の距離です。
敵軍が動いて稲荷山に攻め寄せたら伝馬の使いを出します。
伝馬が知らせたら川越城に向かって頂く算段です。」
「わかった、政家、息子達を新座大和田陣地まで移動の指示を頼む!」
「はい、手配致します。
殿、間者の知らせによると川越城に新たに4つの砦が築かれており、守備力が強化されています。急がず慌てず、攻めきれぬ時には撤退する事が肝要です。」
「そうだな。焦りは禁物だな。」
稲荷山に砦を作る役目は宮寺城主、諏訪頼宗に命じました。
護衛の軍勢は近隣の城主に命じます。山口城主、花澤家政、八国山城主、髙梨義成、拝島城主、福島政成に各々2000を与えて入間川沿いに6000の軍勢が布陣しました。
立花義秀は残りの9000の手勢を率いて入間小谷田陣地に入りました。
立花義秀は川越上杉家攻略の為に入間小谷田陣地に到着しました。
川越城は4つの砦を構えて守備力を強化しています。
果たして、川越城を目指す戦いの行方は?




