1546年(天文15年)4月17日、下総国、柏方面の攻防戦。
3月下旬から4月上旬は古河公方軍が優勢でしたが、立花軍が次第に挽回を開始しました。
1546年(天文15年)4月17日
─下総国、柏城─
─古河公方軍、足利晴氏、梁田高助─
数日前、茂原城攻略を目指した一色直頼が率いる古河公方軍が本納城の戦い、永田城の戦いに敗れ、東金城に退却しています。
原胤清、一色直頼、結城政勝の3名の武将が戦死する程の大敗になりました。
さらに、市原城周辺の戦いで下総公方軍が大敗、市原城を失い、小弓城に退却した事が知らされました。
「高助?圧倒的優勢だったのに、何が原因なのだ?市原城には下総公方軍の14000が進出して、茂原城攻略を目指した一色直頼の率いる軍勢は14000、大敗するなんてどーなってるんだ?
上総公方家は7万石の小さな大名に過ぎないだろう?
2年前の立花家は房総半島に3000の援軍しか送れず、我が古河公方軍が圧勝したじゃないか?」
「公方様、2年前に我が古河公方軍は小弓城を攻略して小弓公方家に圧勝しました。
彼らは南市原周辺に退避して上総公方家に名称変更すると立花家の支援が拡大しました。
上総公方家の本拠地周辺に立花家駐留軍5000を常駐しており、緊急時には我らの想定外の大軍を派遣した様です。
さらに大軍の指揮を取るのは立花将広、戦上手の厄介な武将です。」
梁田高助は立花家が上総公方家の支援強化をしている事は把握していました。
立花家の序列四位の宿老、奥住利政に駐留軍主将を任せた事で立花家は守備に徹する支援に限定していると判断していました。
ところが、緊急時には立花軍は駐留軍を倍増しただけで無く、立花将広が大軍を率いて援軍に現れ、上総北部の戦いは大敗、立花将広の軍勢は南に向っています。
立花軍の影響力が手薄な房総半島を制圧する作戦が崩れました。
しかし、房総半島南部ではまだ、戦いが続いています。総勢40000を動かした梁田高助の策は挫かれましたが、房総半島南部の戦場は里見家の反乱軍と常陸国の新規に臣従した豪族の連合軍です。
立花家の大軍を引き付けて消耗させていると考えれば、まだ、別の戦場で結果を出せば良いと切り替えました。
古河公方軍、足利晴氏、梁田高助の軍勢は立花家の同盟大名、高城家領内に4月10日に侵攻して以来、野田弘朝の5000が深井城、花輪城を攻略しました。足利晴氏、梁田高助の本隊20000は松ケ崎城、戸張城、大井城、柏城、幸谷城を1000名の死傷者を出しながら力攻めで攻略しました。
立花家次席宿老、本多広孝の立花家駐留軍が高城義春の軍勢と合流、13000の軍勢が小金城と高柳城を起点に対峙しています。
古河公方軍、野田勢5000がさらに南下、流山城を攻撃すると畠山勢13000が救援に到着、流山城を救いました。
撃退された野田勢は花輪城に退避しますが、畠山勢は追撃せず、流山城の対岸、江戸川を渡り、三郷城を攻略、さらに北に3キロの道庭城を攻略、江戸川を渡り、野田勢5000が守る花輪城を攻撃して足利晴氏、梁田高助の本隊19000が野田勢を救う為に花輪城の救援に向かう様に誘いを掛けました。
救援に向う古河公方軍本隊は西に向かう形になり、南から本多広孝と高城義春の軍勢に腹背を襲われる地理的状況にありました。
しかし、梁田高助が立花軍側の誘いを見抜いて動かず、野田勢は救援を得られず、松ケ崎城に退却しました。
畠山勢は花輪城を奪回しました。
三郷城、道庭城、花輪城に留守番の兵力を割いて古河公方軍の根拠地、柏城の手前4キロの位置に12000の軍勢を布陣しました。
小金城から高柳城付近には本多広孝が率いる軍勢が柏城から4キロ程の位置に13000の軍勢を布陣しています。
─古河公方軍24000─
─立花、高城連合軍25000─
兵力は互角、古河公方軍は小高い山に広い敷地の柏城に籠る限り守りに有利な地形です。
「高助?どーする?」
不安になった足利晴氏が尋ねます。
「立花軍が岩槻太田領に侵攻するでしょう。深入りしてくれたら川越の上杉朝定も腹を括り、立花軍と本気の戦いに参加するでしょう。前橋上杉家には秩父攻めを命じました。
入間の小谷田、新座大和田、美女木に陣地を作り立花軍はそちらに集中しています。
秩父を取られそうになり、慌てるかもしれません。立花軍も広範囲に遠征しています。
弱い部分がどこかに有るはずです。」
「わかった。高助、我慢比べだな?
任せるから頼んだぞ!」
古河公方、足利晴氏の良い処は、自分には無い高い能力を持つ梁田高助を全面的に信頼して任せている事でした。
梁田高助が前橋上杉軍に秩父を攻撃させる様です。成功するのでしょうか?




