狼の想い
「くぁ———…」
「何だもう飽きたのか」
欠伸と共に変な声が出たのを聞きつけて親父が眉をひそめた。
「…こういうのは向いてないんだよ」
昔からなんだから、知ってるだろうに。
書類を一枚手に取ってため息をつく。
羅列された文字を見てると眠くなるんだよ。
「まったくお前は。子供の頃からいつも…」
「説教は後にしてくれ」
余計に眠くなる。
「ルプス、お前は———」
ドアがノックする音が響いた。
「失礼します、ディルク様」
現れたのはトロワだった。
「王がお呼びです」
「分かった。代わりにこいつを見張っていてくれ」
そう言い残して親父は部屋から出て行った。
「まだ掛かるのか?」
「あと半分くらい」
「ご苦労な事だ」
「見てるなら手伝え」
「お前への罰だろう」
トロワは親父が座っていた椅子に腰を下ろした。
「私が手伝ったら意味がない」
ちっ。
俺は再び手を動かし出した。
「王と何の話をしていたんだ」
書類を分けながらトロワに尋ねた。
「ベルハルトの事を聞かれた。普段の様子や、エミーリア様の相手として相応しいかと」
「…何と答えたんだ」
「人間である事以外は問題ないと」
トロワを見ると、奴は口角を上げた。
「まだ青い所はあるがそれはこれから鍛えればいい。何よりエミーリア様に一途だ、損得なしでな」
「一途というか…執着だな、あれは」
若い恋という以上に、彼は…そして姫様も、互いを必要としている。
光と闇が切り離せないように…あの二人を引き離すのは王であっても難しいだろう。
「ベルハルトは引き続きこっちで預かる事になった。監視と教育を兼ねてな」
「そうか」
「剣の方はこれまで通りお前が教えろと。ベルハルトが我々魔族に決して楯突く事のないようにとの命だ」
「分かってる」
引き離せないのなら———ベルハルトをこちら側に引き入れておかないとならない。
「奴が姫様にベタ惚れしている限りその心配はないだろうが、問題はむしろ姫様だ。心は魔族よりも人間に近いからな、人間の国に戻りたいと言い出したらベルハルトもそれに従う」
「…お前もか?」
「———そうだな、姫様の望みには逆らえない」
たとえ魔族や俺にとって不利な事でも、姫様が望む限りそれに従わなければならない。
それが血の契約だ。
「なあ、エミーリア様の血ってどんな味がするんだ?」
トロワが瞳の奥に怪しい光を輝かせた。
「……甘くて…今まで味わった中で一番美味い味だよ」
身体に痺れが走るような。
あれは美味くて———そして背徳的な味だ。
「そうか…」
「お前は契約するなよ」
うっとりとした表情を浮かべたトロワにクギを刺す。
「今は無理だな。王命を受けたし」
「王命?」
「ベルハルトの光魔法はとても強力だ。万が一その力が我々魔族に害をなすような時は…例えエミーリア様を悲しませても、彼を殺さなければならない。契約などしてしまったら遂行できないからな」
「ベルハルトを?…できるのか?」
「私は一度受けた任務は必ず遂行する」
———そうだ、こいつはそういう奴だ。
普段はエミーナ様に纏わりつくような不埒者ながらも、君主である王の〝命令〟には絶対服従する。
だからこそ…表に出せないような任務を引き受ける事も多い。
それに薬師は、命を救う事と同じくらいに、その命を奪うのもまた得意とする。
———いつでもベルハルトの命を奪えるように、彼らにその身を預けるのだろう。
そしておそらく…姫様に対しても、この国に残らせる人質としてベルハルトを使うつもりなのだ。
姫様を手元に置くためにベルハルトに力を与え、魔族化させる事も厭わない代わりに、その力次第では命を奪う事も躊躇わない。
———あれだけ溺愛していたエミーナ様を見切ったように、姫様とこの国…どちらかを選ばなければならないとしたら国を取る。
国王として当然なのだろうが……たとえ血の契約をしていなくとも、俺には出来そうにないな。
「しかし、本当に良かったのか」
「何がだ」
「エミーリア様と契約をした事だ。弊害も多いだろう」
「———この二十年、ずっと考えて決めていた事だ」
「エミーリア様はエミーナ様ではない」
「分かってる。だがエミーナ様の分までその忘れ形見である姫様を護るのは当然だ」
「お前の執着も相当だな」
ふっとトロワは息を吐いた。
「こんな子供騙しの処罰で済んだから良かったものの…場合によっては契約を解くために殺されても仕方なかったぞ」
「…そうだな」
確かに…王が禁じたものを破ったのだ。
重い処罰もありえたが———俺の存在も姫様を手元に置くために使えると考えたか。
「———王がどう判断しようとも、俺は自分で決めた事をするだけだ」
己にとって一番大切なものを護る。
それが俺の生きる道だ。
しばらく真面目に書類を整理していると、控えめにドアをノックする音が聞こえた。
「まだお仕事中?」
後ろにベルハルトを連れた姫様が顔を覗かせた。
「…もう少し」
「疲れたでしょう?おやつ食べる?」
目の前に差し出された皿には砂糖菓子が乗せられていた。
「———頂きます」
甘いものは好きではないが…慣れない事をして疲れた身体にはその甘みは心地良かった。
「トロワも食べる?」
「ありがとうございます!」
「ベルハルトは?」
「…貰おうかな」
「これは何の書類なの?」
菓子を配り終えると姫様は俺の手元を覗き込んだ。
———また魔力を乱したな。
疲れと…それに、涙の匂いがする。
元から匂いや気には敏感な方だが、契約をしたせいで特に姫様のは伝わりやすい。
「姫様、大丈夫?」
「え…?」
その顔を覗き込むと大きな瞳を瞬かせた。
「魔力を乱したでしょ。王に何か言われた?」
「…いいえ」
「無理しなくていいんだよ。少しゆっくり休みな」
あの王が側にいたら難しいだろうけど。
頭をくしゃりと撫でると、ふいに愛らしい顔が歪んだ。
そして…俺の首に手を伸ばすと抱きついてきた。
「エミーリア?!」
悲鳴のようなベルハルトの声に構わず、腕に力を込めると肩へと顔を埋めてくる。
姫様の様々な感情が流れ込んできた。
———旅に出てから離れる事のなかったベルハルトと数日間会わなかった事で、これまでの疲れや不安が一気に出てきたか。
「姫様」
抱きしめ返したい衝動に駆られるが…ベルハルトを刺激しないように、そっと背中に手を添えた。
「この城では遠慮しなくていいし、我儘も言っていいんだよ、姫様なんだから」
「…うん」
小さく頷いた頭を撫でる。
まだ十六年しか生きていない小さな身体には…この一年以上の旅は負担が大きかったか。
「ほら姫様も食べな」
身体を離した姫様の口に残っていた菓子を放り込む。
むぐむぐと口を動かして飲み込むと、気が緩んだような笑顔を見せた。
「エミーリア…何してるの」
低い声でそう言うとベルハルトが姫様を抱き寄せた。
「…お兄様がね」
「え?」
「お兄様が生きていたら…ルプスみたいだったのかなあって思って」
ほんのりと頬を染めてそう言うと、姫様は照れたような笑みを浮かべた。
「ちょっと甘えてみたくなったの」
———それはおそらく…血の契約をした事で互いの感情が共鳴しやすくなり…他人ではないような感覚になるせいだろう。
そう説明しようと思ったが…これ以上ベルハルトを嫉妬させるのも得策ではないか。
「…それは光栄だ」
ただの主従とは違う…特別な関係。
命が続く限り切れる事のないこの契約を一方的に結んだのは、俺の我欲だが。
———少しは俺の存在が彼女の役に立っているだろうか。
「いつでも甘えていいんだよ」
「…ありがとう」
一度は失ったこの笑顔と希望に再び出会う事が出来たのだ。
俺はもう二度と、見失わない。




