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〈悪魔憑き〉の女1

 初めて参加したサロンでは質問責め。終わっても質問責め。普段はあまり接しない多くの女性と話したため、戻りが遅いとアレスタ神父が迎えに来た。それでもなかなか抜け出せないでいたところ、見かねたホルテンシュタイン夫人が快く送り出していなかったらどうなっていたことか。

 最後の方には、笑顔がそのまま彫像のように彼の顔に刻みつけられていたように見えたことだろう。

「今のうちに君に見せておきたかったものがあったから、悪いと思ったが、迎えに来たのだがね。思った以上に首尾が上々のようで安心したよ」

 アレスタ神父が後ろ手に組みながら、アレクセイの隣を歩いている。猫のように目がきゅっと細められた。

「ご婦人の相手は疲れるかね?」

「正直に言ってしまえば。慣れないですからね」

 アレクセイが素直に答える。視界に入るのは、彼の住まいと比べるべくもない豪奢な廊下であった。

 彼のいる修道院は研究や修行のための施設であり、外界から遮断された閉鎖的な空間でもあった。男性ばかりの中にいたアレクセイにとっては、花園のように色彩豊かなドレス姿を数え切れないほど見てしまい、目がちかちかしてくるというものだ。

「でも、君には慣れてもらわないと。我が修道会の中でこの役職にふさわしい者は君以外見つからないのだよ。君の輝かしい未来をここに閉じ込めてしまうのは申し訳ないとは思っているよ」

「いえ」

 アレスタ神父が例の思索的な瞳で、青年の心の奥底まで見通さんばかりに凝視した。

「アレクセイ君。君は思いも寄らないかもしれないがね、私は己の魂を磨き上げるのに王宮以上のところはないと思っているのだよ」

 青年は言葉の真意を取り損ね、問うような視線を返す。アレスタ神父はずれた眼鏡をひょいとかけ直した。

「王宮以上にあらゆる人間が集まって、多くの感情が行き交う場所は他にないからだ。願いがあれば、失望もある。善もあるし、悪もある。退廃もあれば、清廉もある。生もあれば、死もある。野望も、祈りも。国王がいるということはそういうことなのだよ。その御方にすべてが収束するように、幸福も不幸も強く惹きつけられる。苦痛も快楽もあるのだ。その中に在る、それ自体が人間の生き方の模索にもなりうる。修道院にいたときとは違った、神との対話ができるだろう」

 二人はいつの間にか、広大な庭を散策するように歩いている。

「しかし、世俗の誘惑というものがあるのではありませんか。アレスタ神父はどうやって克服されたのでしょう?」

 アレクセイは思い切って尋ねると、アレスタ神父は紙切れのように白い顔を歪ませている。

「克服などできようはずもない。ここに来てからもう数十年経とうとも、誘惑は絶えず私には魅力的に手を伸ばしてくる。きっと、君も私の年になればわかるだろう。〈これ〉は我々が人間である限り振り払えられるものではないのだ。神に祈りたまえ、アレクセイ君。神への信仰こそが、私たちを正道へと保たせてくださるのだ。そして、王宮の聖職者が求められるべき第一の条件こそが、強い心を持つことなのだよ」

「何にも揺るがない強い心、ですか」

「そうとも。悪がはびこる中で聖が生きることはとてつもない苦行にもなる。強くあれ、と願うのだよ。それと、今日は男爵令嬢のために祈り給え。君が知っているかいまいかわからないが、しばらく行方不明になっていたそのご令嬢が、大変痛ましい姿で発見されたそうでね。知人が今日、警察長官として陛下にご報告したと先ほど聞いたものだから。男爵もお気の毒に」

 アレクセイは絶句する。「それはまた大変な事件ですね。初耳でした」

 立ち止まって、相手の仕草に合わせて手を組み、目を閉じて祈る。

 気の毒な令嬢の眠りが、少しでも安らかでありますように、と。

 再び歩き始めた二人だが、アレクセイはようやくしばらくずっと気になっていたことを問う。

「アレスタ神父、どこへ参られるのです?」

 初めは礼拝堂に向かうものだと思われていたのだが、どうにも方向が違っていたのだ。

 アレスタ神父はすっと正面を向いた。視線の先には、崩れかけたレンガ積みの小さな建物がある。困惑するアレクセイを手招きして、内部にするりと入り込む。

 中には埃の積もった木の棚がいくつも並んでおり、殺風景と言っていいほど、何もない。むき出しの床には蜘蛛の死骸がところどころで潰れている。

 息を吸えば、塵が入って咳き込んでしまった。

「大丈夫かい、アレクセイ君。老い先短い私より先に死んでしまうなんてことはないだろうね」

 神父はアレクセイの背中をさする。

「ご、ご迷惑をおかけします」

 彼が丸めていた背中を伸ばすころ、彼に差し出されたのは体をすっぽり覆うほどの黒いローブである。

「これから行くところの決まりでね。フードまでかぶるように」

 アレスタ神父はすでにそれを身につけていた。そうしてしまえば、暗がりにいると、顔も判別できない。アレクセイも彼に倣った。

 二つの黒い影が出来上がる。

 神父は空間の奥まで進んで、そこにあった、黒い掛けがねのついた床板を力一杯持ち上げた。

 不穏な音がして、床板が持ち上がる。

「ここは地下にある古い倉庫への入口だ。今では使われないがね。もっぱら、彼らの巣窟を化しているのだよ」

「恐れ多くも、王宮の地下にですか?」

「王宮の地下だからこそ、だよ、アレクセイ君。重厚な歴史の上に築かれた王宮だ。むしろ、説得力があるのではないかね」

 言いながら、神父は埃のついた両手を叩いて払っている。

 板が外れて、ぽっかりと床に穴が開く。中には灯りがついているらしく、ぼんやりと穴にかけられた梯子と、剥き出しの土の壁が浮かび上がっている。

 彼はアレスタ神父のあとに続いて地下へ降りた。

 穴は横へ広がっており、二人並んで歩いても何ら支障がないほどである。

 二人は降り立ったところから、順々と壁からの灯りを辿っていく。

 前を行くアレスタ神父が足を止める。振り返らないで低い声で言う。

「アレクセイ君、今日は私の連れということにして、中に入ることになる。君は何があろうとも、決して何も言ってはならない。素性がばれてしまうような行動は慎みたまえ」

「はい。神父がそうおっしゃるならば」

「そうしてくれたまえ」

 アレスタ神父は神妙にそう告げる。

「あるいは、君もいずれは私に代わって、この仕事を継がなくてはならないかもしれない。もちろん、私も出来うる限りは長生きをしたいと思ってはいるのだがね。今日のところは私のしていることをただ見ていればいい」

「はい」

 アレクセイは物分りのいい返事をしたものの、アレスタ神父の要領の得ない返事に、にわかに不安を覚えた。地下に潜る、という行動自体が彼の安心感を奪いさっているのかもしれないし、暗い中で響く言葉の底知れない重みが彼にのしかかっているからかもしれない。

「アレスタ神父」

 耐え切れずに、彼は口を開いた。

「さしつかえなければ、何をなされるおつもりなのか伺ってもよろしいでしょうか」

 神父がアレクセイの方を顧みるが、フードの影に隠れた表情は知れない。

「行けばわかることだよ、アレクセイ君。なに、君をとって食いやしない。我々のすることはただの傍観だよ。古代の知恵に魅了された集団が独自に打ち立てようとする〈学問〉の行方を見守るだけだ。そして、教会が独占してきた知識と教養と何が違うのか。初めは無謀に挑戦するだけの馬鹿馬鹿しい集団だと思っていたんだがね。近頃は彼らの行っていることはどこか真実味を帯びてきているが、あくまで愚かな馬鹿騒ぎに徹するのか、学問的集団として過去の遺産へと繋がる道を再発見するのか、さもなくば、狂信的集団に成り下がるのか。いまだに茫洋としているのだよ。君が王宮に詰めるようになる頃には見極めがつくだろう」

アレスタ神父は前かがみになって、美しい水鏡を覗き込んでいるのだ。アレクセイは、食堂で〈魔法〉について語った時の様子を思い起こす。

新しいものに強烈に惹かれる一方で、古きもの、いわゆるノスタルジックへ傾倒してしまう〈揺り戻し〉。教会で日々信仰に生き、数百年前とほとんど変わらぬ暮らしをするアレクセイら聖職者はまず間違いなく、古きものである。たとえ列車にも乗るような新しい習慣に馴染もうとも、古きものに惹かれる素養はあった。

今、アレスタ神父は水鏡を覗き込んでいる。水面に揺れる輝きを掬い取ろうと、またはもっと見たいと欲している。だが、それは背中に触れれば、水中に落ち込んでしまうほどの危うい均衡である。落ちてしまえば、誰かが引き上げぬ限りは岸には上がれない。しかし、その助けに来た誰かをも水中に引きずりこむ。水に入れば、彼もまた水に住まう者になってしまうからだ。

アレクセイは、まさに自分が今、岐路に立たされていることを自覚した。

たとえアレスタ神父でなくとも、彼を水中に落とす者もきっと王宮にはいるのだ。これから幾度となく続く。終わりなき誘惑に、身を浸し、その中で己の信仰を守る。それは、なんと難しいことなのだろう。

「何にも揺るがぬ強い心を持ちたいものです。若輩者ではありますが、その心で客観的に見極めたいように思いますよ、アレスタ神父。我々は、教会への報告をする義務がある。そういうことなのでしょう」

「思ったよりも早く察してくれて助かるね、アレクセイ君。君はやはり、優秀な子だ」

 教え子に対するような口調で返され、アレクセイは閉口する。彼はアレスタ神父を尊敬こそすれ、教え子ではない。同じ聖職者、研究者としての同志なのだ。複雑な気分ではあるが、付き合いがそれなりにある分、彼の物言いが年下の友人に対するようなものだという理解もできている。年上だからこそ、色々と言いたくなるのだ。

「そう、我々は〈魔術クラブ〉の会合へ行く」

 アレスタ神父が宣言する。

「〈魔術クラブ〉は基本、会員制だ。会合の知らせは各人に白い封筒で届けられる。出席自由だ。加入するときは、誰かすでに入会した者に伴われて、会合に出席すればいい。自動的に名簿に追加される。こうしてフードで顔を隠しても、必ず届く。おそらく主催者がそういったことにひどく長けた人物らしい。ただし、会合には匿名で参加し、会員お互いの本名を推測したりするのは厳禁なので、名簿は主催者一人がすべてを把握しているのだよ」

 これは妙な話だ、とアレクセイは思った。会員たちはおそらく暇にあかした貴族たちばかりなのだろうが、その場にはじめてきた者の身元を把握することはおよそ困難なことのはずなのだ。

「誰が主催者なのです?」

 アレスタ神父は黙って首を横に振る。

「探って見ても、誰も知る様子はなかった。おそらく一般会員には知らされていないだろう。だが、便宜上、彼を呼ぶときの呼称は定着していてね、これはあだ名なのだが。〈クラウン〉、と。君も会合で使うときは、そう呼ぶといい。上手く場に溶け込める」

 神父は今度こそ、足を止めなかった。角を曲がって、進んでいく。ねっとりとした地下の空気が服の隙間から忍んでくるような気がして、アレクセイはふっと息を留めた。

 おおー、おおーん、おおおおう。

 野生の狼のごとき荒々しい鳴き声が、通路中に響き渡り、ぞくっと肌が泡立った。

「な、なんです、今の声は」

「い、いや、これはわからない。今までは〈魔法〉関連の古文書を引っ張り出してくるだけだったのだがね」

 さしものアレスタ神父も戸惑うような声を上げた。

 おおーう。

 また、恐ろしい声が聞こえてくる。

「これは我々も覚悟して方がよいようだよ、アレクセイ君。今回は趣向が違うらしい」

「そうですね」

 通路も終わりに差し掛かったところに、古びた木の扉があった。二人を慄かせる声もここから聞こえたものだと思われる。

 アレスタ神父の老いた手が扉についた鉄の輪を掴み、ノックを二回する。

 扉が隙間ほど空いた。光が漏れてくる。しかし、内部は見えなかった。

「我らは失われた物を探す者」

 中から男の声が問いかけた。どういうことだ、と思っているうちに、アレスタ神父の落ち着き払った声がした。

「世界の秘密を暴く者にして探求者」

 これが〈魔術クラブ〉の合言葉らしい。二人のやり取りに耳を澄ませる。

「されば、〈魔法〉とは?」

「学ぶべき学問にして、古代人の知恵。我らは求む、〈魔法〉の解明を」

 アレスタ神父が再び答え、扉が大きく開かれた。

「では、開こう、大いなる賢者への導きの道を。ようこそ、〈魔術クラブ〉へ」


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