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〈悪魔憑き〉の女2

 扉が開け放たれた途端に、二人は喧騒の中に取り込まれる。

 かつての倉庫らしく、そこは大きな空間が広がっていた。黒いローブの人々が立ちながら、あるいは簡易な椅子に座って談笑している。この規模であると、三十人ほどだろうか。それだけの人数でも、密に集まっているという印象はなかった。

「君、今日の会合のテーマは何かね?」

 アレスタ神父が扉の近くで頭を下げている男に声をかけている。位置からするに、合言葉を求めたのはこの男のようだ。

「はい」

 男が笑うような気配がした。春のひだまりのように朗らかであり、場違いのように思える。

 ううー、おおーお。

 またも、声がする。人々は一瞬声を途切れさせたが、すぐに再開する。

 アレクセイは声の方向に頭を巡らせた。

 すると、男もそちらへ足を向けている。

「では、こちらに」

 男は蛇のように人を避けていく。その後ろを、アレスタ神父、アレクセイと続いた。

「今回のテーマは、〈悪魔憑き〉となっております。『会員の皆様がますます〈魔術クラブ〉が取り扱う怪異や伝承、〈魔法〉といったこの世の謎への興味をかきたてられ、いつか解き明かしてくださることを願っている』。これが〈クラウン〉さまから皆様への伝言でございます。そして、こちらが〈クラウン〉からの〈贈り物〉でございます」

 男が目的のものに手を添える形式ばった仕草は、貴族を思わせる。アレクセイは自分と同じ、貴族の血を感じた。

 やがて、視線が〈贈り物〉に止まって、喉が嚥下する。

 人の背丈ほどの鉄の檻があった。檻に閉じ込められた女が啼いている。

「おおーう、おおう」

 おそらく装えば美人になるのだろう。赤みがかった金髪に白い肌を持つ女だった。修道女の着るような、体の線を出さない踝まで裾のある白いチュニックのようなものを身に付け、ぺたりと座り込んでいる。

 しかし、その表情と言ったら、まるで獣である。櫛も通っていないようなボサボサの髪から覗く、元来透き通るような緑の目は、見開きすぎているために血走っていて、威嚇するように釣り上げられている。手の爪は剥がれ落ち、血が滴っている。顔と言ったら、歯茎を血だらけにしながら、犬歯まで剥き出しにしている。舌ははあはあ、と犬のように垂らしていた。そして、その唾液は顎を伝って、下に小さな水たまりを作っている。

「これは我々が探し出した〈悪魔憑き〉。古の都ヴルフィンの外れに住む憐れな修道女、ヴィルヘルミーネ。生まれつきの〈悪魔憑き〉として教会の情けにすがっていたのを、このたび借り受けてまいりました」

「ほほう。それは珍しい」

 アレスタ神父は相槌を打ちつつ、女を見下ろしている。「しかし、よくも教会が許したものですよ」

 表向きはとても穏やかに尋ねているようだが、アレクセイはこれとよく似た声音を発するときの神父を知っていた。討論をする際に、理論武装をしている相手方に臨戦態勢で迎え撃つとき、または、相手の理論があまりにも破綻的で、苛立たしげに相手を糾弾するときである。

「彼女も了承したことです。今の状態は〈悪魔憑き〉の発作のようなもの。普段は実に敬虔な修道女として、他の者からも慕われているのですよ。今回は、貧しい信者たちを救うために、〈クラウン〉からの申し出をお受けになられました」

「なるほど」

 ためた仕草で頷く。あまり納得していない、と示すようであった。

 アレクセイはアレスタ神父とその男の世間話にも似たよくわからぬ話に意識を半分割きながら、もう半分は女の方に向けている。

 女は鉄の格子をがちゃがちゃと鳴らして、顔を檻にこすりつけながら、今にも食わんばかりにこちらを威嚇している。不用意に指を伸ばせば、噛みちぎられてしまうのが目に見えていた。

 アレクセイは跪いて、女の視線に合わせる。

 女の傷つききった四肢を眺め、彼女の目を見た。

 彼女はここまでしても、獣の唸り声を上げることもなかった。ただ、じっと静かにアレクセイを見つめ返すのである。ふと湖面が揺れるように、女の目に邪悪な何かではない、別のものが映った。かといって、彼女自身の意志というにはあまりにも希薄なものだ。何か剥き出しのものに薄いベールをかけた、曖昧なものだった。しかし、それは圧倒的で敬意を示したくなるほどに、偉大なのだ。

 女の口が閉じていく。女の獣じみた表情が色を移っていくように変化した。

 悪魔が抜け落ちた顔に、アレクセイは神々しさを感じたのはなぜなのか。アレクセイは思わず十字を切っていた。

 女がぱちりぱちりと瞬きをする。その様は普通の女と変わらなかった。いや、事実、〈悪魔憑き〉の発作とやらが終わったのだろう。それにしても、その移り変わりの中で垣間見た別の顔が焼きついて離れない。アレクセイに十字を切らせたもの、人と獣の中のあわいにあったものだ。

「おや、静まってしまいましたか」

 男は面白くなさそうに呟く。「仕方ありませんね」

「ええ、仕方ありませんとも」

 アレスタ神父が男の言葉を拾い上げる。

「話は変わりますが、特別会員の間では、このようなことをいつも? 実践的なことを行われると聞いていたのだけれどね」

「さて、どうでしょう」

 男は白々しくも、首をかしげてみせる。

「では、私は他の皆様のお世話もございますので」

 慇懃な礼をして、行ってしまった。

 二人は、すぐに壁際に寄った。と、いうのも、先程から、皆が檻の方で大人しくなった女をしきりに気にしている様子が伺えたからである。

 人々の視線から逃れてから、アレクセイは神父に囁きかけた。

「アレスタ神父。特別会員とは?」

 神父もかすれた声でささやき返す。

「私も詳しく実態は知らないのだよ。特別会員、という呼称も正しいのかどうか。地位や財産、名誉によって選ばれるものではないと噂で耳にした程度なのだよ。そして入会を許された者には、とある儀式の参加者になれる、と」

「ひどく怪しい話ですね」

「そもそもこの〈魔術クラブ〉も怪しいのだよ。王宮で集いが行い、会費も取る様子がない。どうやって運営がなっているのか、誰がバックについているかもわからない。雲を掴むような話なのだ。こんなに現実にも活動をしておきながら、すぐに消えてしまってもおかしくない危うささえ感じる」

「よほどの大物がついているのでしょうね。王族や大貴族のような。でも、それにしたって、おっしゃる通り、ここはとても希薄な感じがしますよ。夢のようにあとかたもなくなってしまっても僕はとても自然なことのように思います」

 王宮の中で、〈魔法〉という秘密を保持している〈魔術クラブ〉という存在そのものが、まるでおとぎ話のよう。

 はっとアレクセイが顔を上げた。

「そうですよ。おとぎ話どころか、子供の遊びのようです。〈魔法〉、〈クラブ〉、〈悪魔〉、〈秘密〉、〈合言葉〉。子どもが遊ぶときに目一杯、空想を詰め込んだ」

「あぁ」

 神父は実に納得がいった声を発した。「君の言っていることはあながち間違っていないかもしれない。きっと〈魔術クラブ〉はお遊びも半分くらいは入っている。何も知らない我々一般会員はお遊びを楽しめばいい」

 声は段々と沈み込んでいく。一人謎を解いた気がしたアレクセイだったのに、神父の様子に釣られて、にわかに不安げな心持ちになった。

「特別会員のことは私にも知りようがないがね。我々がいるのは所詮末端に過ぎない」

 神父の言葉に、アレクセイは深くフードをかぶり直す。

「わかっております。深入りせずに情報を上げることにいたします。アレスタ神父がなさっているように」

「君らしい結論だよ。おや、あちらがざわついてきた」

 気づけば、無秩序にばらけていた黒い人影に流れができている。

「これは、まあ」

「大丈夫ですの、こんな近くまで」

「さきほどの様子とは比べ物にならない」

「〈悪魔憑き〉というのは本当らしい」

「いやいや、演技という可能性もあるかもしれぬ」

 二人の目の前を大きな集団が横切っていき、思い思いに口を開いている。

 一面の黒の塊の中に、一つだけ白い色彩が鮮明に映った。

 衣装の白と、彼女の髪覆いの白である。

 人の隙間から、その横顔がつい先ほどまで恐ろしげな吠え声を立てていた女のものだと知った。

「わたくしにはこれが〈悪魔憑き〉というものなのかわかりません。ただ、わたくしの発作を調べにいらした偉い方々は〈悪魔憑き〉と診断していきます。この身の内に悪魔がいる、と」

 女の瞳に穏やかな知性の光が宿っている。繊細な線を描く顔には、長年続く発作のせいか、疲れたような影が落ちている。実際の年よりは三つや四つほど老けているのではなかろうか。

「発作のときは、わたくしの中にいる化け物がわたくしの身体を食い散らかしていきます。何かがわたくしの口を借り、手足を縛り、血を流させるのです。その間中も、意識を失うことはできません。永遠のような責め苦が続いていくのです。しかし、これは神がわたくしのあたえた格別の恩寵なのだと、院長さまはおっしゃっておいででした。わたくしも、そう信じています。〈神書〉の記述にもあるように〈神はもっとも甘美な試練を我々に与えたもうた。神は人を愛するがために〉、と」

 女は陶然としている。その足元が夢の中での歩みのようにおぼつかない。

 じっとその様を凝視したアレクセイは、被ったフードの奥にある薄い唇を小さく開いた。

「アレスタ神父、あれは本物なのでしょうか」

「はてさて。どうであろうか」

 アレクセイ自身もそうであるが、宗教に傾倒する人間には独特の雰囲気が存在する。纏う空気そのものが動かぬ石像のように重い、と表現するべきであろうか。修道院にいるときは気にならないのだが、外界に出ればとにかく際立つ。誰もが敬虔を胸に、禁欲的に生きていられるわけではない。

 なるほど、女からもアレクセイらと同じ匂いがする。信仰の深さが伺える。ああは言っていたが、本人も信じているのだろう。どこから来たかわからぬ〈悪魔〉が彼女に苦しみを与えているのだと。

 教会内でも時折〈悪魔憑き〉が取り沙汰され、議論が交わされる。同じ派閥でも、個人によって見解は大きく異なっている。精神性の病気であるとも、〈魔女〉への誘いであるのだとも、〈聖女〉であるがために〈悪魔〉がとりついて、その偉大な行いを妨げようとするのだとも様々である。教皇の公式認定の案件には含まれないが、〈悪魔憑き〉の存在は〈悪魔〉の存在の有無をはかるのに、通り過ぎることができないことだった。

 いずれにせよ、薄気味悪いことだった。

 群衆がぞろぞろと出て行くのを見送っていたアレスタ神父がアレクセイを顧みた。

「この様子だと、今日はこれ以上何もないようだよ。これからどうするかね、君」

「今日は……もう退出させていただきますよ」

 少し考えた後に、アレクセイは呟くように答えた。今日という日は無性に気疲れがする。

「そう。君も少し考えることがあるのだろう。では行こうか」

 神父は静かに言い、連れだって〈魔術クラブ〉を後にしたのだった。




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