09. 冒険者一行「灰鷹」と地図にない道
ダリオの荷馬車がエルデンを訪れてから数日後、町には朝から柔らかな日差しが降り注いでいた。冬を越した家々の屋根では職人が傷んだ板を取り替え、通りの端には外された古い木材が積み上げられている。長く閉ざされていた家にも新しい扉や窓が入り、冬の初めには空いていた建物から洗濯物が下がっている。
昼前、アリスはマルタとハンスが営むパン屋から家へ戻るところだった。先日ダリオから買った乾燥果実を少し持っていったところ、マルタは酸っぱさに顔をしかめながらも気に入ったらしく、ハンスと一緒に生地へ混ぜる方法を考えてみると言っていた。帰りには焼きたての小さなパンを一つ持たされ、アリスは紙袋から漂う香ばしい匂いを感じながら市場の外れを歩いていた。
クレイン家の宿屋が見えてきたところで、アリスは入口の前に繋がれた四頭の馬に気づいた。先日、道に迷ったリナを助けてくれたバルド・クレイン一家が営む宿で、商人や旅人が泊まっていること自体は珍しくない。それでも今日の馬は鞍の両側に大きな荷物を括りつけ、脚の高いところまで乾いた泥に汚れており、近隣からやってきた者とは様子が違っていた。
馬の近くには四人の男女がいた。先頭にいる三十代半ばほどの男は腰に長剣を下げ、宿の主人であるバルドと馬を預ける場所について話している。長旅を終えたばかりなら自分たちの部屋を先に決めてもよさそうなものだが、男は飼葉の量や馬屋に屋根があるかまで確かめていた。
「四頭とも頼む。今日はもう歩かせない。水は多めにやってほしいが、飼葉は普段と同じでいい。腹を空かせているからって一度に食わせると、こいつらは後で困るからな。部屋はそのあとで構わない」
バルドから料金を聞くと、男は余計な値切りをせずに頷いた。必要なものには金を払う一方で、何にいくら必要なのかは先に把握しておきたいらしい。馬の様子を一頭ずつ見てから、ようやく仲間が運んでいる荷物へ目を向けた。
少し離れたところでは、四人の中でもひときわ体格のいい男が、大きな革袋を二つまとめて抱えていた。背中には幅広の剣があり、厚い腕には古い傷も見える。ところが宿の厨房から料理の匂いが流れてくると、荷物を持ったまま鼻を動かし、急に嬉しそうな顔で入口を振り返った。
「こいつはいい匂いだなあ。豆と肉を煮てるのは分かるんだが、ハーブも入ってるだろう?肉もそのまま鍋へ放り込んだんじゃなくて、一度焼いてから煮てる気がする。昼飯にまだ残ってるなら、俺はぜひそれを頼みたいな」
声をかけられたバルドの妻、アンナ・クレインが厨房から顔を出した。香りだけでそこまで分かるのかと笑われると、男は旅の途中でも料理はするから自然と覚えたのだと答える。知らない土地へ行ったら名所より市場を見たいとまで言い始め、アンナから「それならあとで味も当ててみなさい」と言われると、上機嫌で荷物を宿へ運び込んでいった。
その背後から、二十代後半ほどの女性が革張りの箱を抱えて歩いてきた。中には薬瓶や包帯が仕切りごとに並び、いくつかの場所は空になっている。彼女は大男が荷物を持ち上げるところを黙って見ていたが、右腕の動かし方を確かめると、逃がさないとでもいうようにその進路へ立った。
「ボリス。食事のことで頭がいっぱいになる前に、右腕を診せてください。朝から庇っているのは分かっていますし、『動くから平気』も今日は聞きませんよ。昨日あれだけ派手に転んでおいて、自分の判断だけで済ませようとするのは禁止です」
「いやあ、そこまで言われると俺が重傷みたいじゃないか。飯の皿なら右手でも持てるぞ?」
「皿を持てるかどうかで怪我の程度を決める人の意見は採用しません。診察が終わったら好きなだけ食べてください」
ボリスと呼ばれた大男は、煮込みが冷めるかもしれないと最後の抵抗を試みたものの、女性は取り合わなかった。彼も本気で逆らう気はないらしく、困ったように笑って荷物を置く。女性はすぐに右腕を確かめ始め、その間にも空になった薬瓶を数え、あとで補充するものを小さな紙へ書き留めていた。
四人目の男だけは、宿へ入る様子を見せなかった。二十代後半ほどで、背中には弓を負っているが、本人が熱心に見ているのは足元に広げた大きな紙だった。周囲の道を見ては紙へ目を戻し、ときおり数歩移動して角度を変えている。地図の上には元から描かれていた線に加え、異なる濃さの文字や記号がびっしりと書き込まれていた。
アリスは四人を横目に見ながら、そのまま家へ戻ろうとした。ところが宿の前を通り過ぎたところで、地図を見ていた男が顔を上げる。しばらく迷った様子を見せたあと、紙を持ったままアリスの方へ歩いてきた。
「すみません。この町の方ですよね?もし昔からエルデンに住んでいるなら、少しだけ道のことを教えていただけませんか。北東から来たんですが、途中から地図と実際の道が全然合わなくなってしまって。こういうの、気になり始めると放っておけないんです」
生まれた頃からエルデンに住んでいると答えると、男の表情が目に見えて明るくなった。見やすいように地図を広げ直し、エルデンから北東へ向かって伸びる一本の線を指で辿っていく。
「僕はノエル・クラウスです。仲間と『灰鷹』という名前で仕事をしていて、斥候をしています。地図を直すのも僕の担当なんですが……ほら、ここです。僕たちはこの北側の道を通ってきました。でも、途中で草に埋もれた石畳を見つけたんですよ。あれが旧道なら、昔は別の場所を通っていたはずなんです」
アリスは地図へ顔を近づけた。ノエルが示している道は、彼女の記憶にある街道よりかなり北へ寄っている。川の位置とエルデンの方角を確かめたあと、何も描かれていない南側へ指を移した。
「昔の街道なら、こちらだったと思います。この辺りから北東へ向かって、川の近くまで続いていました。今描かれている道は、私が子どもの頃にはなかったはずです」
「やっぱり!それなら途中にあった石畳も説明できますね。ちょっと待ってください、ここから南へ入ったとして……道幅は覚えていますか? 荷馬車は二台通れました?途中に井戸か宿駅があったなら、その場所も――」
「ノエル。質問は一つずつにしろ。十年前の道を全部覚えている人間なんていない」
背後から止めたのは、先ほどバルドと話していた男だった。ノエルは口を開いたまま一度固まり、それから自分が一息に尋ねていたことへ気づいたらしく、少し恥ずかしそうに地図を下げた。
「すみません。地図の話になると、知りたいことが次々に出てきてしまって。まず一つだけ。荷馬車が通れるくらいの道だったか、それだけ覚えていますか?」
「ええ。荷馬車は普通に通っていました。町に近いところは石畳で、途中には宿駅と井戸もあったと思います」
「ありがとうございます。それなら十分です。宿駅があったなら、建物がなくなっていても井戸や基礎が残っているかもしれません」
ノエルは嬉しそうに書き込みを始めた。止めに入った男はその様子を見て小さく息を吐き、それからアリスへ向き直った。
「ガレス・ヴァンだ。この四人をまとめている。こいつは普段ならもう少し人の話を聞くんだが、道と地図が絡むとこうなる。答えたくないことまで付き合う必要はないからな」
「私はアリスです。昔のことなら、分かる範囲でお話しできます。今の道については、皆さんの方が詳しそうですけれど」
「それで十分だ、助かる。俺たちは今日初めてエルデンへ来た。昔のことは地図に残っているものしか知らない」
ガレスはそれ以上アリスの素性を尋ねなかった。必要な情報が得られれば余計なところへ踏み込まない性格らしく、ノエルが地図へ書き込む間に、残る二人についても簡単に教えてくれた。
大柄な男はボリス・ヘルマンといい、以前は傭兵として各地を渡り歩いていた。灰鷹では前衛を務め、危険な場所では真っ先に仲間の前へ出る一方、野営では料理を担当することも多いという。薬箱を持つ女性はミレイユ・カルナで、旅の途中で怪我人や病人が出た際の治療を担っていた。
「紹介だけ聞けば立派なんだがなあ。今は右腕を使うなって怒られたばかりだ。まあ、ミレイユに逆らって治療が長引くと、あとで俺が困る。今日は飯を食って大人しくしておくさ」
いつの間にか戻ってきたボリスの右腕には、薄い包帯が巻かれていた。本人はまるで気にしていない様子だが、その隣に立つミレイユは彼が無意識に右手を使おうとするたびに目を向けている。
「大人しくすると言った人が、さっき荷物を右手で持とうとしていましたけどね。次にやったら、明日までではなく明後日まで禁止にしますから覚えておいてください」
「そいつは困るなあ。じゃあ本当にやめておこう。明日の飯まで左手で食う羽目になるのは御免だ」
「結局、基準は食事なんですね。分かりやすくて助かります」
ミレイユは呆れながら薬箱を閉じ、ボリスは気にした様子もなく笑っている。ガレスもノエルも止めに入らないところを見ると、こうしたやり取りは珍しくないらしい。
灰鷹がエルデンへやってきた理由を尋ねると、ガレスは今回受けた依頼について話してくれた。依頼主は旧帝国領で商いを広げようとしている商人で、北東に点在する集落からエルデンまで荷馬車を通せる道があるか調べてほしいと頼まれたという。
「道幅、水場、橋、野営できる場所を見てきた。盗賊や魔物が出そうな場所も確認してある。荷馬車一台を通すだけなら何とかなるが、商売で何度も往復するとなれば話は別だ。雨が降るたび立ち往生する道を、使える街道とは言えないからな」
ガレスの説明には飾ったところがなく、必要なことだけが順番に並んでいた。アリスが冒険者にもそうした仕事があるのかと尋ねると、彼は遺跡や魔物に関わる依頼だけで暮らせる者の方が少ないと教えてくれた。
「護衛もやるし、行方不明者も探す。危険な土地の確認や薬草採取も仕事になる。俺は依頼を受けるとき、危険だからという理由だけで報酬が高い仕事はなるべく選ばない。無事に帰って金を受け取れなければ、働いたことにならないからな」
「ガレスはこういう人なんです。面白そうな遺跡を見つけても、依頼と関係がなければ素通りしますよ。僕としては地図に位置くらい残したいので、少しだけ近づきたいんですけど」
「位置だけ書け。中へ入るな。それで十分だ」
ノエルは不満そうというより、予想通りの返事をされた顔で地図へ視線を戻した。四人で長く仕事を続けるうちに、誰が何を言い出すかまで互いに分かっているのだろう。
ノエルが今回使った道を見せてくれた。エルデンへ近づくにつれて荷馬車の轍が増え、地面の草もなくなっていたため、現在はこちらがよく使われていると判断したという。誰かが正式に街道として整備した形跡はなく、人々が同じ場所を通り続けるうちに道として定着したようだった。
「こういう道、僕は結構好きなんですよ。最初に誰が通ったのか分からないのに、何十人、何百人と同じ場所を選んだ結果だけが地面に残っているでしょう。森を避けたかったのか、水場へ寄りたかったのか、歩いてみると理由が分かることもあります」
「お前は道に好き嫌いがあるのか」
「ありますよ。ガレスにはないんですか?」
「歩きやすければ何でもいい」
即座に返されたノエルは少し残念そうだったが、すぐに地図へ新しい線を加え始めた。アリスは二人の会話を聞きながら、帝国時代に使っていた街道を思い返していた。
当時の街道は、町と町を最短距離で結ぶためだけに造られていたわけではない。道沿いには宿駅や役所が置かれ、場所によっては関所や軍の施設もあった。旅人や商人は馬を休ませ、ときには荷物を検められながら、国が定めた道を通って別の土地へ向かっていた。
役所も関所もなくなれば、そこを経由する理由は薄れていく。宿駅が閉じ、傷んだ石畳を直す者がいなくなっても、人々の移動まで止まるわけではない。農民が近い道を選び、その轍を商人が利用し、さらに別の旅人が同じ跡を辿るうちに、新しい道が土の上へ形を持っていく。
「道は国が造るものだと思っていました。昔は新しい街道を造るとなれば、役所が測量をして、人を集めて工事を始めていましたから」
「その方が立派な道になりますよ。排水も考えられるし、橋も造れる。でも、人が同じところを歩けば、それも道です。地図に載るのが後になっただけで、使っている人にとってはこっちが今の街道なんでしょうね」
ノエルはそう言って、現在使われている線を指で辿った。途中までは順調だったらしいが、川のところで指が止まる。灰鷹が今回の調査で最も問題だと考えた場所だった。
「ここだけは困りました。今なら浅いところを選べば馬でも渡れますけど、雨が何日か続けば無理でしょうね。僕ら四人なら迂回できますが、荷物を積んだ馬車となると厳しい。昔の街道が南を通っていたなら、別の橋があったんじゃないかと思うんですが……覚えていませんか?」
川の形を見ているうちに、アリスは幼い頃の光景を思い出した。父と領内を馬車で移動した際、この辺りで大きな石橋を渡ったことがある。川を見ようと窓へ寄りすぎて注意され、座り直したあとには欄干に刻まれた帝国の鷲を眺めていた。
「もう少し南に、石造りの橋があったと思います。かなり幅があって、馬車同士がすれ違うこともできました。欄干に帝国の紋章があったことはよく覚えています」
「石橋ですか? ちょっと待ってください、それは面白いですね。場所はこの辺りで間違いありませんか? 橋脚はいくつくらいで、両岸は石で固めてありました? 橋までの坂は急でしたか?」
「ノエル」
「ああ……またですね。すみません」
ガレスが名前を呼んだだけで、ノエルは自分から口を閉じた。アリスも橋脚までは覚えていないと答えると、彼は無理に聞き出そうとはせず、示された場所へ小さな印を付けた。
「じゃあ『石橋・未確認』にしておきます。十年前の橋が今も渡れるとは限りませんからね。でも場所の見当がついただけでも大きいです。次に北東へ向かう機会があれば、僕が見てきます」
「橋を見るためだけに危険な場所へ入るなよ」
「分かってますって。安全に行けるときだけです。そこまで信用ないですか、僕」
「地図を持っているときのお前は、普段より二割くらい信用できない」
「二割で済んでいるなら上出来ですね」
ガレスは返事をせず、ノエルも楽しそうに地図へ書き込みを続けていた。アリスはその横で、先日ダリオから聞いた壊れた橋の話を思い出していた。橋が一つ使えなくなったことで商人は遠回りを強いられ、運ばれてくる紙の値段まで上がっているという。
人が歩けば新しい道はできる。けれど深い川へ橋を架けるには、石材や木材だけでなく、それを扱う職人と大勢の人手が必要になる。帝国時代なら役所が工事を決め、周辺から人と資材を集めていただろうが、今は同じ方法を取ることができなかった。
ガレスから北東方面でほかに覚えている場所はないかと尋ねられ、アリスはいくつかの地名を挙げた。その中には街道沿いにあった小さな村もあり、川の流れを利用した製粉所と、旅人が馬を休ませるための場所があったことを覚えていた。
「その村なら三日前に通った。井戸と家の跡は残っていたが、人はいなかったな。川沿いに崩れた石組みがあったから、今聞いた製粉所の跡かもしれない。屋根まで残っている家はほとんどなかった」
「そうですか。春になると街道の近くに白い花がたくさん咲く村でした。最後に訪れたのは昔なので、その後どうなったのかは知りませんでした」
「代わりに、その北には新しい集落がありましたよ。十軒か、もう少し多いくらいかな。僕の持っていた古い地図だと森なんですが、今は畑まであります。あそこは書き直すところが多くて、見ていて飽きませんでした」
ノエルが指した場所を見ても、アリスには人家の記憶がなかった。彼女が知っている頃には森と小川しかなかった土地で、今は別の土地から来た人々が木を伐り、家を建て、畑を耕しているという。
エルデンでは空き家に新しい住人が入り、閉じていた店に灯りが戻っている。町の外でも同じ十年間が流れ、昔あった村が消えた一方で、アリスが知らない集落が生まれていた。自分が覚えている故郷と現在の土地は重なる部分を残しながら、少しずつ別の形へ変わっていた。
話が一段落したところで、ミレイユが薬箱を抱えてアリスの方へやってきた。包帯や薬を補充できる場所を探しているらしく、この町に医者か薬師がいるなら教えてほしいと頼まれる。
「北へ進んで二本目の道を入ったところに診療所があります。ドミニク・ロウェン先生という、この町で長く診療所を営んでいる方です。娘のリーゼさんも助手として働いていますから、必要な薬について相談できると思います」
「それは助かります。包帯が残り少ないんですよ。治療の魔法があるから何でも治せると思われることがありますけど、泥の入った傷を洗わなくていいわけでも、折れた骨を固定しなくていいわけでもありませんから。補充できる町では、きちんと揃えておきたいんです」
ミレイユは道順をもう一度確かめると、明日の朝に診療所へ行くと決めた。治療を担当する者らしく、話している間にも薬箱の中身を思い浮かべているようで、消毒に使う薬と新しい布も必要だと小さく数えている。
その頃には厨房から漂う匂いがさらに濃くなり、ボリスがとうとう入口の方へ身体を向けていた。アンナが鍋の蓋を開けたらしく、煮込んだ豆と肉に香草の匂いが混ざっている。
「なあ、もう仕事の話は終わったか? 俺はさっきから、あの肉を最初に焼いたのかどうか確かめたくて仕方がないんだ。もし当たっていたら、今度野営で真似してみたい」
「ボリス、あなたは食べるために旅をしているんですか?」
「それは違うぞ、ミレイユ。旅をしてるから、せっかくなら美味いものを食いたいんだ。似てるようで全然違う」
「その違いを真剣な顔で説明できるところは、少し尊敬しますよ」
「そうだろう。飯は大事だからなあ」
ボリスは褒められたと受け取ったらしく満足そうに頷き、ミレイユは訂正するのを諦めた様子で薬箱を抱え直した。ガレスはすでにバルドから近くの鍛冶屋について聞いており、滞在中に武器と留め具を見てもらうつもりらしい。ノエルは相変わらず地図から離れず、四人が同じ宿へ泊まるとは思えないほど、それぞれ違うことへ関心を向けていた。
アリスが帰ろうとした頃には、灰鷹の荷物もすべて宿へ運び込まれていた。次の依頼が決まるまで数日はエルデンに滞在する予定だとガレスから聞き、アリスも必要なら町の場所くらいは教えられると伝えて宿を出ようとした。
食堂の端を通ったところで、アリスはノエルが机いっぱいに地図を広げているのを見つけた。紙の上にはエルデンから北東へ伸びる二本の線があり、一方は灰鷹が実際に歩いてきた現在の道、もう一方はアリスの記憶をもとに書き加えられた旧帝国街道だった。
「昔の道も消さずに残しておくんですね。今は使われていないなら、新しい道だけでも困らないように思えますけれど」
「僕なら消しませんね。古い道沿いには井戸や橋が残っているかもしれないし、今の道が雨で使えなくなったときに役立つ場所もあるでしょう。それに、昔の線が残っていた方が面白いじゃないですか。人がどこを通らなくなって、代わりにどこを歩くようになったのか、一枚で見られるんですよ」
最後の部分はいかにもノエルらしく、実用性だけではなく地図そのものを楽しんでいることが分かった。彼は二本の線を見比べながら、川の近くに記した石橋の印を指先で軽く示した。
「この橋も、見つけたら書き足します。崩れていたら崩れていたで、そのまま記録しますよ。十年前の記憶が間違っているかもしれないし、橋の方がなくなっているかもしれない。だから僕が自分の目で見て、今どうなっているのか確かめたいんです」
「見つかったら、私にも教えてください。昔見た橋が今どうなっているのか、少し気になります」
「もちろん。次に会ったときは、今日よりいい地図にしておきます」
アリスは灰鷹の四人と別れ、クレイン家の宿を出た。昼を過ぎた通りには市場から戻る荷車が行き交い、乾いた地面にいくつもの車輪の跡を残している。古い石造りの家の間には新しい家が増え、その家々へ向かうために踏み固められた細い道も、以前よりはっきり見えるようになっていた。
紙袋の中には、マルタからもらったパンの温かさがまだわずかに残っている。アリスはそれを抱え直して家へ向かい、途中で足元に重なる轍へ目を落とした。




