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婚約を失った元伯爵令嬢の、幸せな暮らしのすゝめ  作者: 入多麗夜


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10/22

10. エマの仕事探し

 朝のエルデンには、薄い雲を透かした白い光が広がっていた。夜の冷え込みを残した石畳はところどころ湿り、家々の屋根から落ちた雫が軒先の土を濃く染めている。冬のあいだ葉を落としていた庭木には小さな芽が膨らみ、風が通りを抜けるたび、乾ききっていない土と薪を燃やす煙の匂いが混ざって流れてきた。


 アリスは裏庭の軒下に最後の洗濯物を掛けると、冷えた指先を軽く擦り合わせながら家の中へ戻った。雲の切れ間には明るい空も見えているが、春先の天気は変わりやすい。庭へ出してしまうより、このまま軒下へ置いておいた方が安心だろう。台所の棚を確かめ、残り少なくなった卵と野菜を頭の中で数えてから、買い物籠を腕に掛けて表へ出た。


 扉を閉めたところで、三軒ほど離れた家から蝶番の軋む音が聞こえた。古びた扉の向こうから現れたのはエマ・ローデで、普段より少しきちんとした濃灰色の服を着ている。襟元まで丁寧に整え、栗色の髪も後ろでまとめていたが、腕に抱えているのは買い物籠ではなく、生成りの布で包んだ細長い荷物だった。


「おはようございます、アリスさん。今日は市場へ行かれるんですか?」

「おはようございます。ええ、卵と野菜を少し買おうと思って。エマさんもお出かけですか?」


 アリスが布包みへ目を向けると、エマは少し照れたようにそれを抱え直した。いつもと変わらない表情をしているつもりなのだろうが、包みを持つ指にはわずかに力が入っている。


「ゲルダさんのお店へ行こうと思っているんです。昨日、もう一度中を見てきましたし、いつまでも外から眺めているわけにもいきませんから。仕事がないか、自分で聞いてみようと思って」

「いよいよですね」

「断られたら、そのときは別のところを探します。何もしないまま考えているよりは、その方がいいでしょう?」


 ゲルダ・ハルトは、市場へ続く通りで仕立屋を営んでいる五十四歳の女性だった。帝国が存在していた頃からエルデンで針仕事を続けており、新しい服を仕立てるだけでなく、袖や裾の直し、破れた服の修繕も引き受けている。エマが縫い物の仕事を探していると知ったとき、アリスが名前を挙げた店でもあった。


 それでもエマは、教えられた翌日に仕事を頼みに行ったわけではなかった。市場へ出るついでに何度か店の前を通り、どのような客が出入りしているのかを見て、昨日になって初めて客として中へ入ったという。糸を一巻き買いながら店内の様子を見て、ようやく訪ねてみようと決めたらしい。


「その包みは、ゲルダさんに見せるものですか?」

「ええ。以前に縫ったものをいくつか持ってきました。何年やっていましたと言うより、実際に見てもらった方が分かりやすいと思って。綺麗にできたものばかりではないんですけれどね」


 布包みの中には刺繍を施した布のほかに、リナが幼い頃に着ていた上着も入っていた。成長するたびに袖へ布を足し、擦り切れた場所には当て布をして、何度も手を加えながら着せたものだという。最初の頃に縫った場所には失敗も残っているらしく、エマはそれも含めて見てもらうつもりだった。


 二人の話が聞こえていたのか、エマの家の扉が再び少しだけ開いた。隙間から十二歳のリナが顔を出し、まだ寝癖の残る髪を手で押さえながら母親を見ている。本人は一緒についていきたかったらしいが、仕事を頼みに行くのだから今日は家で待つよう言われていた。


「アリスさん、お母さん、本当に縫うのが上手なんですよ。前の町でも近所の人の服を直していたし、私の服なんて、小さくなるたびに大きくしてくれました」

「リナ。まだ働けるって決まったわけじゃないのよ。私が上手かどうかを決めるのは、あなたじゃなくてゲルダさんでしょう?」

「でも、上手なのは本当だもの。お母さんが帰ってくるまでちゃんと待ってるから、頑張ってきてね」

「ええ。お昼までには戻るつもりだから、知らない人が来ても扉を開けないこと。それから、火は使わないでね」


 リナは何度も頷き、最後にもう一度「頑張ってね」と言って扉を閉めた。木の扉の向こうから閂を掛ける音が聞こえ、エマはそれを確かめてからようやく歩き始めた。


 アリスも市場へ向かうところだったため、二人は途中まで並んで歩いた。朝の通りにはすでに生活が動き始めている。家の前で箒を動かす女性の横を、空の木箱を積んだ荷車がゆっくり通り過ぎ、その車輪が湿った石畳の窪みに溜まった水を小さく跳ね上げた。


 少し先では、長く空き家になっていた建物の雨戸が取り外されていた。最近移り住んできたらしい男が梯子に乗り、腐った木材を一本ずつ外している。その隣では幼い子どもが釘を入れた小箱を抱えて待ち、向かいの家の老婆が作業の様子を眺めながら何か話しかけていた。


 帝国がなくなった直後には、人の姿より閉じた雨戸の方が目についた通りだった。十年という時間の中で残った者もいれば去った者もいたが、この春は空いた場所へ新しい人が入ってくる光景を以前より頻繁に見かける。


「最初は、着いたらすぐに仕事を探さないといけないと思っていたんです。でも、町によって仕事のやり方も違うでしょう? どんな店なのかも知らないうちに雇ってくださいと言うのは、少し怖くて」

「昨日、中へ入ってみてどうでした?」

「思っていたより直し物が多かったです。新しい服ばかり作るお店なら、私には難しかったかもしれません。前にいた町では、子どもの服を大きくしたり、仕事着の破れを直したりする方が多かったので」


 エマは歩きながら布包みの位置を直した。言葉は落ち着いていたが、仕立屋のある通りが近づくにつれて、その回数が少しずつ増えている。緊張していないわけではないのだろう。


 通りの角を曲がると、遠くに市場の屋根が見えてきた。低い石造りの建物の間から人の声が重なって聞こえ、荷車を引く馬の蹄が石畳を叩いている。そこへ向かう道から一本外れた先に、ゲルダの仕立屋があった。


 二人が別れる場所まで来ると、エマは足を止めた。仕立屋の方角へ目を向け、一度だけ小さく息を吐く。


「それでは、行ってきます。ここからは一人で大丈夫です」

「ええ。頑張ってください」

「ありがとうございます、アリスさん。お店を教えてもらえただけで十分助かりました。あとは私の仕事ですから」


 エマは布包みを抱え直すと、一人で通りを進んでいった。アリスはその背中が角の向こうへ消えるまで見送ることはせず、自分も市場へ向かって歩き出した。結果が気にならないわけではなかったが、今日ゲルダと話すのはエマであり、そこで自分ができることはもうなかった。


 市場の入口へ近づくにつれ、空気にさまざまな匂いが混ざり始めた。積み上げられた根菜から漂う湿った土の匂い、焼いた腸詰めの脂、樽から量り売りされる酢、近くの店で挽かれている穀物の粉。屋根の下では店主たちの呼び声が行き交い、籠を下げた住民が品物を覗き込みながら通路を行き来している。


 冬のあいだ市場の色合いは茶や灰色に偏っていたが、今朝は柔らかな緑が増えていた。近郊の畑から運ばれてきた若い葉物が籠いっぱいに盛られ、その隣には泥のついた細い根菜が束ねられている。アリスは葉先が萎れていないものを選び、卵と一緒に籠へ収めた。


 豆を売る店の前では、見覚えのない若い男が店主と話していた。傍らには大きな背負い袋が置かれ、靴には乾いた泥が厚く付着している。エルデンへ着いてまだ間もないらしく、荷運びの仕事を探すならどこへ行けばいいのかと尋ねていた。


 店主は市場の西側に荷車を扱う商人がいると教えていたが、仕事があるかまでは分からないと念を押していた。若い男は礼を言い、重そうな背負い袋を再び肩へ担いで人混みの中へ消えていった。


 人が町へ来れば、空いている家を一つ見つければ終わるわけではない。食べるためには金が必要で、そのためには働かなければならない。農地を求めて来る者もいれば、店を開こうとする者、職人の手伝いを探す者、荷運びのような日雇い仕事から始める者もいる。エマもまた、そうした人々の一人だった。


 必要な買い物を終えたアリスは、市場を出てマルタとハンスのパン屋へ向かった。店へ近づくと、通りまで焼き上がったパンの香りが流れている。扉を開ければ小さな鈴が鳴り、棚には丸いパンと細長いパンが並べられていた。


 マルタは先客へ釣り銭を渡しているところだった。客が出ていくのを待ってからアリスがいつものパンを頼むと、マルタは紙に包みながら、今日は少し焼き上がりが早かったのだと話した。


「そういえば、エマさんが今日、ゲルダさんのお店へ行きました」

「まあ、ついに行ったのね。前にここへ来たときも気にしていたもの。うちのエプロンの縫い方まで見ていたから、本当に縫い物が好きなんだなって思ってたのよ」

「何度かお店を見てから決めたそうです」

「慎重なのね。でも、働くところならそのくらい見た方がいいのかもしれないわ。毎日顔を合わせる相手なんだから、仕事ができるだけじゃ続かないでしょう?」


 マルタはそう言いながら、パンの包みをアリスへ渡した。自分も見知らぬ土地で店を始めたばかりだからこそ、働く場所を選ぶ難しさには思うところがあるのかもしれない。


 パン屋を出た頃には、朝の雲が少し薄くなっていた。屋根の向こうから淡い青空が覗き、石畳に落ちる影も先ほどより濃くなっている。アリスは籠を持ち直し、市場から家へ戻る道を一本変えて、ゲルダの仕立屋がある通りへ入った。


 仕立屋は、石造りの一階に木の二階を載せた古い建物だった。窓枠には何度も塗り直された深い傷が残り、入口の脇には糸巻きと針を描いた小さな木製看板が吊られている。窓辺には派手な衣装ではなく、布地の見本や修繕を終えた子ども用の上着が並べられていた。


 窓越しに店内を覗くと、奥の大きな裁断台の前にゲルダとエマがいた。ゲルダは灰色がかった髪を後ろできっちりまとめ、細い眼鏡を鼻の上へ掛けている。エマが持ってきたらしい衣服を広げると、表側を眺めるより先に裏返し、縫い目へ指先を滑らせていた。


 何かを尋ねられたエマが袖口を覗き込み、少し考えてから答える。ゲルダは頷きも首を振りもせず、今度は別の縫い目を示した。やがてリナのものらしい小さな上着が取り出され、二人の頭が同じ場所へ近づいていく。


 アリスは歩調を緩めただけで、店へは入らなかった。エマはこちらに気づかず、ゲルダも目の前の服から視線を上げない。二人の間にはすでにアリスが入る余地のない話が始まっているように見えた。


 家へ戻る頃には日差しが少し暖かくなり、朝に濡れていた石畳も乾き始めていた。アリスは買ったものを台所へ運び、卵を籠から棚へ移して、葉物は水を張った器へ入れる。パンを薄く切って簡単な昼食を済ませたあと、軒下の洗濯物を庭の日当たりのよい場所へ移した。


 午後になると、共同井戸へ水を汲みに行った。住宅が増え始めたこの辺りでは、朝夕になると井戸の周囲に人が集まる。石組みの縁には長年桶を置いた跡が残り、足元の土は何度踏まれても湿っていた。


 井戸へ近づくと、先に二人の姿があった。エマが汲み上げた水を桶へ移し、その隣ではリナが長い綱を巻き取っている。布包みも持っているところを見ると、仕立屋から戻ってきて間もないらしい。


「アリスさん」


 リナが真っ先に気づいた。朝より明らかに明るい顔をしており、アリスが挨拶を返すより早く母親の方へ振り向いた。


「お母さん、アリスさんに言ってもいいでしょう? 明日から仕立屋さんで――」

「リナ。三日だけよ。そこを抜かして話したら、もう雇ってもらったみたいに聞こえるでしょう?」

「でも三日は働くんでしょう?」

「試しにね。ゲルダさんが駄目だと思うかもしれないし、私が続けられないと思うかもしれない。そこまで終わってから喜びましょう」


 エマはそう言ったが、口元には朝にはなかった笑みが浮かんでいた。アリスが改めて結果を尋ねると、桶を井戸の脇へ寄せ、布包みを抱え直した。


「明日から三日間、試しに働かせてもらえることになりました。一日ずつお給金もいただけるそうです。その間にゲルダさんが私の仕事を見て、私も店のやり方を覚えて、それから続けるか決めることになりました」

「よかったですね」

「ありがとうございます。でも、まだ半分くらいですよ。三日後には『やっぱり駄目でした』って言っているかもしれませんから」


 朝より表情が柔らかくなっているのに、言葉だけは慎重だった。その横でリナが不満そうに頬を膨らませているところを見ると、帰宅してから何度も同じ説明をしているのだろう。


 アリスは自分の桶を井戸の縁へ置き、滑車から垂れている綱を取った。木製の取っ手は多くの手に触れられて滑らかになっており、綱を緩めると桶が石壁の内側を下っていく。少し遅れて水面を叩く音が聞こえた。


「午前中、仕立屋の前を通ったんです。ゲルダさんが、エマさんの服をずっと裏返して見ていました」

「見られていたんですね。あの頃なら、ちょうどリナの上着を見てもらっていたのかもしれません。刺繍より、そっちをずっと細かく見られたんですよ」


 エマは布包みを開き、使い込まれた小さな上着を取り出した。淡い茶色の布は何度も洗われて柔らかくなり、袖口には少し色の違う布が足されている。肘にも同じ布で小さな当てがされ、内側を見れば、ほどいて縫い直した跡がかすかに残っていた。


「ここです。最初に袖を伸ばしたとき、糸を引きすぎてしまったんです。洗ったら布が寄ってしまって、あとから全部ほどいて縫い直しました。ゲルダさん、見ただけですぐ分かったみたいで」

「失敗した服も持っていったんですね」

「上手くできたものだけ見せても、仕事を任せてもらえるかは分からないでしょう? 今なら直せる失敗なら、それも見てもらった方がいいと思ったんです」


 ゲルダは失敗そのものより、そのあと同じ縫い方を繰り返していないことを確認していたという。エマが後から直した袖を見比べ、こちらなら仕事に使えると判断したらしい。


「でも、縫い方より困ったことがあったんです。物差しが違いました」

「物差し?」

「ええ。ゲルダさんに寸法を聞かれて、私がこれくらいだと思って答えたら、少し合わなくて。お店の物差しを見せてもらって、そこで初めて分かりました」


 エマは上着を包みへ戻すと、両手で長さを示してみせた。ゲルダの店では帝国時代から使われてきた物差しが今も現役で、布を切る際の基準になっている。エマが以前暮らしていた地域にも似た単位はあったものの、実際の長さにはわずかな差があった。


 さらに仕立屋の壁には、もう一本別の物差しが掛けられていたという。西方から運ばれてくる布や衣服を扱う際に使うもので、そちらも帝国のものとは目盛りが一致していなかった。


「最近は西から来た布も増えたそうです。商人から長さを聞いて買っても、向こうの基準なのか、こちらの基準なのか確認しないと間違えることがあるって。明日はまず、お店で使う寸法を覚えるように言われました」

「鍛冶屋でも同じようなことを聞きました。昔の鍋と外から来た鍋では、同じくらいに見えても金具が合わないことがあるそうです」

「服も一緒みたいですね。でも私は、帝国ではどこへ行っても同じ物差しが使えたって聞いた方が驚きました。前に暮らしていた辺りでは、少し離れれば測り方が違うこともありましたから」


 アリスは汲み上げた桶を井戸の縁へ置いた。水面が揺れ、雲の切れ間から差した光が細かく砕けている。


 帝国にいた頃、町によって物差しの長さが違うなど考えたこともなかった。服を仕立てるときも、家具を注文するときも、役所が土地を測るときも、同じ基準が使われていた。広い領土のどこへ行っても同じ数字で話が通じることを、便利だと意識した記憶すらない。


 エマにとっては、その方が珍しいという。帝国の外には帝国の外で積み重ねられてきた暮らしがあり、人々は異なる寸法や道具を使いながら不自由なく生活してきたのだろう。


「ゲルダさんも、最近は持ち込まれる服が変わってきたと言っていました。見たことのない留め具が使われていたり、布の取り方が違ったりするそうです。私が前の町で何度か直したことのある形もあったので、明日やり方を見せてほしいって」

「エマさんがゲルダさんに教えることもあるんですね」

「教えるなんて言ったら怒られそうです。ゲルダさんが知らないやり方を、たまたま私が知っているだけですよ。私だって明日は帝国の寸法から覚えないといけませんから」


 エマはそう言って笑った。長くこの町で針を持ってきたゲルダにも知らない服があり、外から来たエマにも知らない物差しがある。どちらか一方だけが教える関係にはならないのかもしれない。


 隣で聞いていたリナは、物差しの話より明日からの暮らしの方が気になるらしかった。母親が朝から仕事へ行くなら、自分が朝食の皿を洗うと言い出し、掃除も一人でできると続ける。


「朝の片づけをしてくれるのは助かるけれど、全部やろうとしなくていいのよ。私が働くからって、あなたまで急に大人にならなくてもいいんだから」

「全部じゃないよ。自分のお皿くらい洗えるもの。それに、お母さんが帰るまで何もしないで待っている方が嫌だよ」

「それなら、自分の分だけお願いしようかしら。割ったら隠さずに教えてね」

「まだ割ってないのに」

「前に一枚割ったでしょう?」

「あれは引っ越してきた日の一回だけだよ」


 リナが慌てて言い返し、エマが笑った。井戸の向こうでは別の家の女性が順番を待ちながら二人のやり取りに小さく笑い、通りを荷車がゆっくり通り過ぎていく。馬の蹄と車輪の音は家々の壁に反響し、やがて市場の方へ遠ざかっていった。


 アリスは汲んだ水を持ち上げ、エマたちと別れた。何か困ったことがあれば言ってくださいとだけ伝え、リナを預かるとも、朝の支度を手伝うとも言わなかった。母娘はすでに、自分たちで明日からの暮らしを組み立て始めている。


 翌朝は前日より雲が少なく、東から差す日差しが屋根の縁を明るく照らしていた。通りの石畳には長い影が伸び、開き始めた店の扉から箒の音や人の話し声が漏れている。


 アリスが家を出ると、ほとんど同じ頃にエマも三軒隣から姿を見せた。今日は飾りのない仕事向きの服を着て、髪も後れ毛が落ちないようきっちりまとめている。手には小さな革張りの道具入れがあり、中には長く使ってきた針や糸切り鋏が収められているという。


「おはようございます、アリスさん。昨日より今日の方が緊張しますね。話をするだけなら、言い間違えても言い直せますけど、縫ったものは残りますから」

「新しい布はまだ切らないんですよね?」

「はい。最初は直し物からだそうです。それを聞いたときは安心したんですけど、よく考えたら、お客さんの服を直す方が失敗できないですよね」


 エマは自分で言って苦笑した。家の扉からはリナが顔を出しており、昨日宣言した通り早起きしたらしい。眠そうに目を擦りながらも、母親へ大きく手を振っている。


 二人は朝の通りを途中まで並んで歩いた。市場へ向かう荷車とすれ違い、焼き始めたパンの香りが漂う店の前を通る。昨日雨戸を外していた空き家には新しい板が打ち付けられ、軒先には見覚えのない洗濯物が揺れていた。


 仕立屋へ続く角へ着くと、エマは足を止めなかった。歩きながらアリスへ顔を向け、小さく笑う。


「それでは、行ってきます」

「行ってらっしゃい、エマさん」


 そこで二人の道は分かれた。アリスは市場へ、エマは仕立屋へ向かう。人々がそれぞれの仕事場へ向かう朝の流れの中へ、エマの背中も自然に混ざっていった。


 昼前、買い物を終えたアリスは再び仕立屋の前を通った。朝の日差しを受けた窓には通りの景色が薄く映り込み、その向こうに二人の姿が見える。裁断台には男性用の古い上着が広げられ、ゲルダとエマが肩を並べて袖口を見ていた。


 ゲルダが縫い目を指して何かを説明すると、エマは一度頷き、針を手に取った。しばらく手を動かしたあと、不意に止まり、自分の道具入れから別の針を一本取り出す。エマが何か説明しながら布へ通してみせると、ゲルダは口を挟まず、その指先をじっと見ていた。


 短い範囲を縫い終えたところで、ゲルダが上着を裏返した。縫い目を指先でなぞり、今度は自分の針を取って隣へ数針入れる。エマが身を寄せてそれを見つめ、二人はそれぞれの縫い目を並べながら話し始めた。


 窓越しでは何を話しているのかまでは分からない。けれど裁断台の上には、帝国時代から使われてきた長い木の物差しと、エマが持ってきた小さな道具入れが並んでいた。


 アリスは店へ入らず、そのまま歩き出した。三日後にもエマがあの裁断台の前にいるのかは、まだ分からない。


 それでも今朝の仕立屋には、ゲルダが長く使ってきた物差しの隣に、エマの針を置く場所ができていた。

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