02. 新しいパン屋さん
翌朝、アリスはいつもより少し遅い時間に家を出た。昨夜のうちに雨が降ったらしく、通りを敷く石の隙間にはまだ水が残り、軒先から落ちた雫が小さな水溜まりを作っている。空はすでに明るく、雲の切れ間から差し込む日差しを受けた屋根がところどころ濡れて光っていた。市場へ行くほどの用事はなかったものの、昨日見かけた店の様子が気になり、散歩を兼ねて通りを歩いてみることにした。
昨日まで開け放たれていた店の扉は閉じられ、その脇には真新しい木の看板が掛けられていた。店名らしい文字の下には麦の穂を模した絵が彫られ、窓の内側には丸いパンや細長いパンが籠に入れて並べられている。準備をしている様子からパン屋だろうとは思っていたが、もう店を開けたらしい。通りまで漂ってきた焼きたての香りに誘われ、アリスは窓越しに店内を覗いてから扉を開いた。
入口に取りつけられた小さな鐘が鳴り、棚の向こうにいた女性が顔を上げた。昨日、店先で夫らしい男と棚の置き場所について話していた女性で、今日は赤褐色の髪を後ろでまとめ、白い前掛けを身につけている。店内はまだ新しい店らしい整い方をしておらず、壁際には空の棚が残り、階段の下には荷ほどきの終わっていない木箱も積まれていた。それでも窓際には焼き色の異なるパンが十数個並び、奥の作業場では大きな窯から熱気が伝わってくる。
「いらっしゃいませ。昨日、店の前にいらした方ですよね」
「覚えていたんですか?」
「もちろん。昨日はあんな状態だったでしょう? 通りがかった人に何のお店だと思われているのか、気になっていたのよ」
女性は店内を見回して苦笑した。昨日より片づいているとはいえ、隅にはまだ木箱が重ねられ、壁へ取りつける予定らしい棚板も床に置かれている。開店をあと数日待ってもよかったのではないかとアリスは思ったが、窓際に並ぶパンを見る限り、売るための準備だけは整っているようだった。
「パン屋さんだとは思いました。小麦粉がたくさん置いてありましたから」
「当たり。夫がパン職人なの。私はマルタ・ハイン。昨日、奥で棚と格闘していたのが夫のハンスよ」
「アリスです。この近くに住んでいます」
「それならご近所ね。私たち、この店の二階で暮らしているの。まだ寝室まで木箱だらけだけど」
マルタが示した階段の上には、荷物らしい布包みがいくつか見えていた。店を整えながら住居の片づけも進めているらしく、移ってきたばかりの慌ただしさがあちこちに残っている。アリスは窓際の棚へ近づき、並べられたパンを眺めた。表面へ切れ目を入れた丸いものや、小さく成形されたものがあり、値札はすべて手書きだった。
「昨日準備していて、今日から開店ですか?」
「本当はあと二日くらい欲しかったんだけど、夫がパンを焼ける状態になったなら開ければいいって言うものだから。おかげで今朝まで値札を書いていたわ」
「店を閉めたままパンだけ焼いても仕方ないだろう」
奥から男の声が聞こえ、しばらくして昨日の男が作業場から姿を見せた。ハンスは前掛けをつけ、袖を肘まで捲り上げており、腕から指先まで白い粉がついている。店側へ入る前に手を布で拭い、妻の隣まで来るとアリスへ軽く頭を下げた。
「ハンス・ハインです。昨日は店の前を塞いで、すみませんでした」
「大丈夫です。通れないほどではありませんでしたから」
「ほら、気にしていたのはあなただけでしょう?」
「荷物をあれだけ外に出していれば気にもなる」
ハンスはそう返すと、長話をするつもりはないのか作業場へ戻っていった。マルタも引き留めることはなく、慣れた様子で夫の背中を見送っている。二人ともよく話す性格というわけではなさそうだが、店のことになるとマルタが客を相手にし、ハンスはパンを作るという役割が自然に決まっているようだった。
アリスは丸いパンを一つ選んだ。表面にはしっかりと焼き色がつき、近づけば小麦の香ばしい匂いがする。代金を尋ねて財布を取り出すと、マルタはパンを紙へ包みながら、一度だけ奥の作業場を振り返った。
「よかったら、食べた感想を今度聞かせてもらえる?」
「私でいいんですか?」
「この辺りの人が普段どんなパンを食べているのか、まだよく分からないのよ。昨日も夫が首を傾げながら焼いていたし」
「首を傾げていたのは、粉が思ったより扱いづらかったからだ」
聞こえていたらしく、ハンスが作業場から返した。今度は出てくることもなく、台の上で生地を捏ねる音が続いている。マルタは少し呆れた顔を見せたあと、包んだパンをアリスへ渡した。
「本人はああ言っているけれど、昨日からずっと納得していないの。前に住んでいた町で使っていた粉とは随分違うみたい」
「この辺りの小麦は、パンにすると少し重くなると聞いたことがあります」
アリスが答えると、生地を捏ねる音が止まった。ほどなくハンスが作業場との境まで戻ってきて、詳しく聞かせてほしいとでも言いたげにこちらを見る。職人へ教えられるほどパンに詳しいわけではないため、アリスは記憶を辿りながら言葉を選んだ。
「昔、この辺りにあったパン屋さんでは、ライ麦を混ぜていたと思います。家でも似たものを食べていました。小麦だけだと膨らみにくいからと聞いた覚えはありますけれど、どのくらい混ぜていたのかまでは分かりません」
「ライ麦か。市場には出ている?」
「粉で売っているお店はあったと思います。今も扱っているかは分かりませんが、穀物を扱う店で聞けば見つかるかもしれません」
ハンスは礼を言うと、何か考えながら作業場へ戻った。すぐに配合を変えて試すのかと思ったが、棚から紙を取り出してアリスから聞いたことを書き留めている。以前の土地で身につけた作り方を捨てるのではなく、こちらの材料に合う方法を探すつもりなのだろう。
「これで今日の午後は市場巡りね」
「店を閉める必要はない。俺が行ってくる」
「昨日あなた一人で市場へ行って、帰り道が分からなくなったでしょう」
「道を一本間違えただけだ」
奥から返ってきた言葉に、マルタはアリスへ困ったような笑みを向けた。アリスは市場までの道を説明し、穀物を扱っている店が並ぶ辺りも教えることにした。この店からなら大通りへ出て鐘楼の手前を曲がれば難しくない。ハンスも作業を続けながら聞いているらしく、途中で一度だけ道順を確認してきた。
話している間に次の客が店へ入ってきたため、アリスは長居を避けて店を出た。外では雨上がりの湿った匂いに混じり、窓から流れてくるパンの香りが残っている。手元の包みにはまだ温かさがあり、家まで持ち帰るつもりだったアリスは少し迷った末、通りの先にある小さな広場へ向かった。
広場の端には古い石造りの腰掛けがあり、その脇には若葉をつけ始めた木が立っている。雨で濡れていない場所を選んで腰を下ろし、アリスは包みを開いた。まだ温かいパンを半分に割ると、中は思っていたより目が詰まっており、ハンスが粉を気にしていた理由が少し分かった。口に運べば硬いというほどではなく、香ばしさも十分にあるが、昔この辺りで食べていたパンとは食感が違っている。
それでも、味そのものは悪くなかった。むしろ噛んでいるうちに小麦の甘みが感じられ、もう半分にも自然と手が伸びた。アリスは食べ終えた包みを畳みながら、次に店へ行ったときには、そのまま感想を伝えようと思った。ハンスなら褒め言葉だけを並べるより、少し詰まっていたと伝えた方が喜びそうだった。
数日後には、今日とは違うパンが棚に並んでいるかもしれない。ライ麦を混ぜるのか、別の粉を探すのかはハンスが決めることで、アリスには分からなかった。それでも次にあの扉を開ける理由が一つできたと思えば、悪い気はしなかった。
アリスは立ち上がり、空になった包みを籠へ入れた。
帰り道には、焼きたてのパンの香りがまだ残っていた。




