01. 十年後の春
朝、アリスが目を覚ましたとき、窓の外には薄い雲が広がっていた。春を迎えてからしばらく経つというのに朝の空気には冬の冷たさが残り、寝台から下ろした足に床板の冷気が伝わってくる。寝間着の上から肩掛けを羽織って窓辺へ向かい、夜のあいだ閉じていた木製の鎧戸を押し開けると、通りを挟んだ向かいには石と木を組み合わせた家々が並んでいた。屋根の向こうから昇り始めた朝日が壁を淡く照らし、煙突から伸びる煙が風に流されている。早くも店先を掃いている者がいれば、大きな荷物を背負って宿の方角へ歩いていく見知らぬ男もいた。
十年前には、朝の通りですれ違う人間の大半を知っていた。名前までは分からなくとも、どこの家に住んでいる者なのか、何の仕事をしている者なのかくらいは見当がついたものだ。今では窓から眺めているだけでも知らない顔を見つける日の方が多くなり、それをいちいち気に留めることも減っている。アリスは鎧戸を半分ほど開けたまま台所へ向かい、昨夜用意しておいた薪を竈へ入れた。火が安定するのを待って鍋に水を汲み、朝食には昨日買った黒パンとチーズ、それから干した果物を少しだけ用意する。一人で暮らすようになってから覚えた家事は多いが、料理の腕だけは十年経っても人並みの域を出ていなかった。
朝食を済ませる頃には通りから聞こえてくる音も増え、荷車の車輪が石畳を転がる音に混じって、どこかで木槌を振るう乾いた音が響いていた。今日は食料と日用品を買い足すつもりだったため、アリスは食器を片づけてから外出着へ着替え、小さな籠と財布を手に家を出た。市場までは歩いて十五分ほどで、道順を意識する必要もないほど歩き慣れている。それでも両側に並ぶ建物へ目を向ければ、去年までとは違うところがいくつも見つかった。長く空いていた家の前には荷車が停まり、父親らしい男と二人の少年が椅子や木箱を運び込んでいる。少し先では傷んだ扉が取り外され、職人が新しい板材を削っていた。
市場へ近づくにつれ、人通りはさらに多くなった。近隣の農村から野菜や穀物を運んできた者に加え、旅装の商人、腰に剣を提げた男女、アリスには聞き取りづらい訛りで話す者たちが露店の間を行き交っている。売られている品物にも変化があり、以前なら年に数度しか見なかった南方の果物や香辛料が、小さな籠に分けられて店先へ並べられていた。アリスはしばらく品物を眺めたものの、結局いつもの野菜を扱う店へ向かい、形のよい蕪を手に取った。
「今日はそれが安いよ。昨日、東の村からたくさん届いたんだ」
長く市場で商売をしている店主に勧められ、アリスは蕪を三つと玉葱をいくつか選んだ。店主が品物を包んでいる間にも、その後ろを大きな鞄を抱えた家族が通り過ぎていく。まだ幼い子供を連れているところを見ると、短い旅の途中というより、この辺りへ移り住むために来たように見えた。
「今朝も南から何家族か着いたらしいよ。このところ宿も混んでるそうだ」
「私も来る途中で、空いていた家に荷物を運んでいる方を見ました。その人たちでしょうか」
「どうだろうね。毎日のように新しい顔を見るから、俺にも分からなくなってきたよ」
店主は苦笑しながら包みを差し出した。アリスは代金を渡し、野菜を籠へ収めてから市場の奥へ向かった。土地が余っている。空いている家がある。商売を始められる余地が残っている。周辺の国々ではそんな話が広まっているらしく、ここ数年で故郷を離れて旧帝国領へ入ってくる者は目に見えて増えていた。実際には、長く放置された畑を耕し直すだけでも苦労があり、空き家の中には屋根や壁から直さなければ冬を越せないものもある。それでも荷車に家財を積み、家族を連れて新しい土地を目指す者は途切れなかった。
十年前のエルデンでは、これほど多くの外から来た者を見かけることはなかった。大陸中央部の広大な土地を支配していた帝国は人の出入りを厳しく管理し、他国の者が領内を自由に歩き回ることも、気に入った町へ住み着いて店を開くことも認めていなかった。市場へ来る商人も決まった顔ぶれが多く、幼いアリスは自分の暮らす土地が外からどう見えているのかを考えたことさえなかった。国外について知っていたことの多くは家庭教師から教えられた知識であり、自分が国境の向こうへ行く未来など思い描いたこともなかった。
あの頃のアリスには、すでに歩むはずの道が用意されていた。ウェールズ伯爵家の娘として読み書きや計算、歴史、地理、帝国法を学び、年齢が上がれば社交の場へ出る機会も増えていった。いずれ家を離れて嫁ぐことも幼い頃から聞かされており、その相手についてもずっと前から知っていた。ハインツ侯爵家の嫡男、テオドール。アリスより二歳年上の彼とは両家の意向によって幼い頃に婚約が結ばれていたが、顔を合わせる時間を苦痛に感じたことはなかった。大人になれば彼の妻となり、二人で生きていくのだろうと考えていた。
その未来が失われたのは、アリスが十四歳のときだった。帝国の各地で起きた混乱はやがて中央まで広がり、長く続いた統治は崩れ、貴族たちの置かれていた状況も一変した。アリスとテオドールのどちらかが婚約を解消したわけではない。伯爵家の娘と侯爵家の嫡男という二人の立場を支え、両家の約束に意味を与えていた国と制度が先に失われた。混乱の中でハインツ家がどこへ向かったのかも分からなくなり、テオドールとは別れの言葉を交わす機会さえないまま離れることになった。
市場の人波を避けて歩いていたアリスは、布や針を並べた露店の前で足を止めた。家で使っている布巾が傷み始めていたことを思い出し、積まれた布の中から丈夫そうなものを手に取る。店に立っていた中年の男には見覚えがなく、男の方もアリスを知らないらしい。値段を尋ねると、一枚なら銅貨五枚、二枚なら九枚にすると返ってきたため、アリスは二枚を選んだ。
「この町の人かい? 俺は三日前に着いたばかりで、まだ道も覚えられていなくてね」
「ええ。ずっとここに住んでいます」
「それなら先輩だな。俺はローディというんだ。あんたは?」
「アリスです」
包まれた布を受け取り、アリスは男に礼を告げて露店を離れた。ウェールズという名を嫌っているわけではなく、捨てたつもりもない。父から受け継いだ自分の名前であり、今でもアリス・ウェールズであることに変わりはなかった。それでも、新しく知り合った相手に家名まで伝えることは少なくなっている。ウェールズ伯爵家はこの土地を治めておらず、十年前のアリスを知らない人間にとって、伯爵家の名は昔の話に出てくる名前の一つでしかない。
買うつもりだった品を一通り揃え、市場を離れた頃には雲の切れ間から日が差し始めていた。朝の冷たさも和らぎ、通り沿いでは上着を脱いで作業をしている者の姿もある。アリスは籠を持ち直しながら来た道を戻っていたが、途中で長く閉まっていた一軒の店に人が出入りしていることに気づいた。以前は雑貨を扱っていた場所で、店主が町を離れてからは窓に板が打ちつけられたままになっていたはずだった。
今はその板も外され、開け放たれた扉の前には何袋もの小麦粉が積まれていた。店内には大きな作業台が運び込まれ、奥にある窯の周辺を体格のいい男が片づけている。入り口近くでは赤褐色の髪をまとめた女性が木箱の中身を確認しながら、ときおり男へ指示を出していた。二人の間には長く一緒に暮らしてきた者同士らしい気安さがあり、男が棚を置こうとするたび、女性が作業の邪魔になるから場所を変えてほしいと注文している。
「そこだと窯の前が狭くなるわ。もう少し壁側へ寄せられない?」
「寄せたいのは俺も同じなんだが、この床が傾いてるんだ。先に脚の高さを合わせないと棚ごと倒れるぞ」
男が床へしゃがみ込んで棚の脚を確かめると、女性も隣まで行って覗き込んだ。どうやらパン屋を始めるらしい。新しい店ができると知れば、以前なら誰が始めるのか気になっただろうが、この頃はそうした変化も増えていた。アリスが店の前を通り過ぎようとしたところで女性が顔を上げ、二人の視線が重なった。アリスが軽く会釈すると、女性も柔らかな笑みを見せて頭を下げた。
そのまま歩いて角を曲がると、町の入口から大きな荷馬車が近づいてきた。荷台には木箱や椅子、丸めた寝具、使い込まれた鍋まで積まれており、隙間から十歳を少し過ぎたくらいの少女が顔を覗かせている。御者台に座った女性は初めて見る町並みを確かめるように左右へ顔を向け、少女も屋根や店を一つずつ眺めていた。荷物の量を見れば旅人ではないことくらい、アリスにも分かった。
また新しい住人が増えるのだろう。数年前までなら荷馬車が一台入ってくるだけで近所の話題になったものだが、今では昨日まで閉ざされていた家に誰かが入り、知らない店が開き、初めて見る子供が通りを走っていることも珍しくない。古くから暮らしている人々がいなくなった場所へ、別の土地で生まれ育った人々がやってきて、それぞれの生活を始めている。アリスは遠ざかっていく荷馬車を少しだけ見送り、自宅へ向かって再び歩き出した。
家へ戻ると、買ってきた野菜を棚へ収め、布は洗うための籠へ入れた。窓を開ければ、通りの向こうから木材を打ちつける音が聞こえてくる。朝に見かけた空き家の修繕が続いているらしく、時折誰かが大きな声で寸法を伝えるのも聞こえた。十四歳だった頃のアリスが今の町を見たとしても、自分が育った場所だとはすぐに気づかないかもしれない。それほど建物が変わったわけではないのに、そこを歩く人々と聞こえてくる言葉が変わるだけで、町は以前とは違った表情を見せていた。
あの頃のアリスは、十年後もここに住んでいるとは考えていなかった。成人する頃にはテオドールと結婚し、ハインツ侯爵家で暮らしていると思っていた。彼がどんな大人になったのか、今どこで暮らしているのか、アリスは知らない。時折思い出すことはあっても、答えのない問いを抱え続けるには十年という時間は長かった。窓の外では今日も誰かが家を直し、別の誰かが新しい土地で暮らすために荷物を運んでいる。
昼食の支度を始めようとして、アリスは市場から戻る途中に見た店を思い出した。小麦粉の袋と大きな作業台、それから店内の窯。準備の様子を見る限り、そう遠くないうちに開店するだろう。近所にパン屋が増えるなら悪くないと思いながら、アリスは棚から朝に残した黒パンを取り出した。
明日、もう一度あの店の前を通ってみよう。
窓の向こうでは、見知らぬ誰かの荷車が再び通りを走っていた。
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