19. 仕立て屋に増えた椅子
春物の服を出してからしばらく経ったある日の午後、アリスは袖口に小さなほつれを見つけた。自分で縫えないほどではなかったものの、糸が擦れて生地まで薄くなっている。下手に針を入れて傷を広げるより、きちんと直してもらった方が長く着られるだろうと考え、昼食を終えてからゲルダ・ハルトの仕立て屋へ向かった。
店の扉を開けると、布と糸、それから微かに蝋を含んだ独特の匂いが鼻をくすぐった。壁際には春物の生地が色ごとに重ねられ、窓辺の作業台には裁ちかけの布が広げられている。以前と同じ店内のはずなのに、今日は奥から二人分の作業音が聞こえてきた。
「いらっしゃいませ。……あ、アリスさん」
作業台から顔を上げたのはエマだった。三日間の試用を終えて正式に雇われた彼女は、淡い灰色の仕事着の袖を肘まで上げ、首から採寸用の紐を下げている。最初にここへ来た頃の遠慮がちな様子は薄れ、手元には客から預かったらしい衣服と注文を書き留める帳面が置かれていた。
「こんにちは、エマさん。少し直していただきたいものがあって」
「もちろんです。見せていただけますか?」
アリスが袖口を示すと、エマは窓から差し込む光の下へ生地を寄せ、表と裏を順番に確認した。指先で縫い目を軽く広げ、傷んでいる範囲を確かめてから、同じ色の糸があるか棚へ視線を向ける。
「糸だけではなく、生地も少し薄くなっていますね。内側から補強して縫えば、まだしばらく着られると思います。今日中にできますよ」
「それなら、お願いしてもいいですか?」
「はい。少しお待ちいただくことになりますけれど」
「構いません。今日は急いでいませんから」
店の奥では、ゲルダが大きな布を裁断していた。二人の会話は聞こえているはずだが、エマの判断を訂正する様子はない。以前なら、エマが何かを決めるたびにゲルダが確認していたことを思えば、それだけでも二人の関係が少し変わったことが分かる。
アリスは邪魔にならない場所で待とうとして、壁際に小さな木の椅子が増えていることに気づいた。客が腰掛けるには座面が低く、作業用として使うには台から離れすぎている。以前ここを訪れたときにはなかったはずだが、誰のためのものなのかまでは分からなかった。
その疑問は、ほどなくして解けた。
「お母さん、パン買ってきたよ」
扉を開けて入ってきたリナが、小さな籠を両手で抱えていた。中からは焼いた小麦の香りが漂い、布の隙間から丸いパンが二つ覗いている。十二歳の彼女はアリスを見つけると少し驚いた顔をしたあと、すぐに笑って頭を下げた。
「こんにちは、アリスさん」
「こんにちは。お使い?」
「はい。マルタさんのところで、お母さんの分も買ってきました」
「ありがとう。そこに置いておいて。もう少ししたら休憩にするから」
エマに言われたリナは籠を棚の端へ置くと、迷う様子もなく先ほどの小さな椅子へ腰掛けた。どうやら母親の仕事が終わるまで、ここで待つことが何度かあったらしい。膝の上に両手を置いていたリナを見たゲルダが、やがて棚から何色もの糸束を取り出した。
「リナ。そこに座っているなら、これを色ごとに分けておくれ。似た色は勝手に一緒にしないで、分からなければ聞くんだよ」
「はい!」
リナはすぐに椅子から立ち上がり、糸束を受け取った。赤、茶、深緑、紺と一つずつ確かめながら、小さな机の上へ丁寧に並べ始める。その姿を横目で見たエマが、少し申し訳なさそうにゲルダへ顔を向けた。
「いつもすみません。待たせていただいているだけでも助かっているのに」
「仕事の邪魔をしているなら、とっくに帰してるよ。あの子が大人しく待てるなら、椅子一脚くらい置いてあっても困らないさ」
ゲルダは布から目を上げることなく答えた。アリスは改めて小さな椅子を見る。使い込まれたものではなく、座面にはまだ新しい木の色が残っていた。わざわざリナのために用意したのだろうが、それを本人へ説明するつもりはないらしい。
エマも何か言いかけて、結局は小さく笑っただけで仕事へ戻った。アリスの袖口に合う糸を選び、針へ通している。その隣ではリナが糸を分け、奥ではゲルダが布を裁つ。三人がそれぞれ違うことをしているのに、不思議と店の中には落ち着いたまとまりがあった。
しばらくすると、再び扉が開いた。
「こんにちは。今、大丈夫かしら?」
入ってきたのはローザ・ファーナーだった。両腕には大きな布包みを抱えており、裾には乾いた土が少し付いている。夫のエリックと三人の子供たちとともにエルデンへ移り住み、町外れの土地を開墾している女性で、農作業の合間に寄ったらしい。
「いらっしゃい。修繕かい?」
「ええ。まとめて持ってきてしまったのだけれど」
ローザが作業台へ布包みを置くと、中から何着もの衣服が現れた。膝の擦れた作業着、袖口の傷んだ上着、子供用らしい小さな服まで混じっている。ゲルダは一度それらへ目を向けたあと、エマを呼んだ。
「エマ、見ておくれ」
エマは一瞬だけ緊張した顔を見せたが、すぐにローザの前へ移動した。最初に夫エリックの作業着を広げ、膝と肘の傷み具合を確かめていく。ローザも一着ずつ説明しながら、どこまで直したいのかを伝え始めた。
「新しく買えれば一番なんでしょうけれど、畑の道具にもお金がかかるでしょう? 着られるものは、できるだけ直して使いたくて」
「この作業着なら大丈夫です。膝は当て布をした方がいいですね。肘も同じ布で補強できます。こちらの子供服は……」
「それはフィンのよ。また袖が短くなってしまって」
フィン・ファーナーは十三歳になるローザの長男で、両親と妹、弟と一緒にエルデンへ移り住んできた少年だ。以前、父親が着ていた古い上着をフィンに合わせて仕立て直した際、エマが肩回りをその場で調整しており、アリスもその様子を見ている。今は父親のエリックを手伝い、畑仕事や開墾にも少しずつ加わっていた。
「この前直してもらった上着はちょうどいいのよ。本人も動きやすいって喜んでいたわ。でも、こっちまで小さくなるとは思わなくて」
「十三歳なら、まだ背が伸びますものね。今ぴったりにするより、少し余裕を残した方がいいと思います」
エマはフィンの服に続いて、十歳の妹メイの服も確認した。こちらは脇と裾に余裕を持たせ、来年も着られるように直すらしい。六歳の末っ子ルイスへ回せそうな服についても相談しながら、エマは一つずつ内容を帳面へ書き込んでいった。
「あら、リナもいたのね」
ようやくリナに気づいたローザが声をかけると、糸を分けていたリナが顔を上げた。
「こんにちは」
「フィンとメイなら、今は外にいるわよ。荷物を運ぶのを手伝ってもらってるの。帰りに会うかもしれないわね」
「メイとは、この前少し話しました」
「そうなの? あの子、帰ってから何も言わないんだから」
ローザが笑う。リナも少し笑ったものの、フィンの名前には先ほどより反応が薄かった。アリスが何気なく視線を向けると、それに気づいたリナが少し考えてから口を開く。
「フィンとは、まだあんまり話さないんです。会ったら挨拶はするけど」
「年齢は近いのにね」
「フィン、いつも畑の手伝いをしてるから。メイの方が町に来ることが多いんです」
十二歳のリナと十三歳のフィンは一歳しか違わない。それでも、母親と二人で町の中を行き来して暮らすリナと、家族の畑を手伝うフィンでは、一日の過ごし方がかなり違うらしい。仲が悪いわけではなく、互いをまだよく知らないだけなのだろう。
「無理に仲良くすることもないわよ。そのうち話す機会があれば話せばいいんだから」
ローザは気にした様子もなくそう言って、再びエマとの相談へ戻った。アリスはその言葉を聞きながら、子供たちにも子供たちなりの距離の縮め方があるのだろうと思う。大人が同じ町に住んでいるという理由だけで、すぐに友人になれるわけではないのと同じだった。
エマはすべての衣服を確認すると、修繕方法とおおよその料金を順番に説明した。ローザは少し考え、今回は急がないものを後へ回し、仕事着と子供服を優先してもらうことに決める。限られた金額の中で何を直すかまで相談できるのは、暮らしを立て直している最中の一家にとって重要なことだった。
「では、こちらの三着から先に仕上げます。残りはそのあとでも大丈夫ですか?」
「ええ。それでお願いするわ」
「ゲルダさん、これで――」
「聞いてたよ。それでいい」
ゲルダは短く答えただけだった。帳面を受け取って内容を確かめたものの、書き直す場所はないらしい。そのままエマへ返すと、自分の作業へ戻っていった。
ローザが布包みを軽くして帰っていったあと、エマはしばらく帳面を見つめていた。自分だけで客から事情を聞き、直し方を決め、料金を伝えたのは初めてだったのだろう。嬉しさより先に緊張が残っているようで、肩から小さく息を吐いている。
「エマ」
ゲルダが奥から呼んだ。
「はい」
「これも渡しておくよ」
差し出されたのは、小さな革袋だった。エマが受け取ると、中で硬貨が触れ合って乾いた音を立てる。正式に働き始めてから今日までの分をまとめた給金らしく、ゲルダは金額を告げると、受け取ったことを帳面へ書くよう指示した。
「……ありがとうございます」
エマは革袋を両手で持ち、一度だけ重さを確かめた。大金ではない。それでも、自分の仕事によって得た金を受け取った彼女の表情は、ローザの注文を任されたときとは少し違っていた。
夫を亡くしたあと、娘を連れて新しい土地へやって来たエマにとって、ここで働けば次も給金を受け取れるということには大きな意味がある。けれど彼女はその思いを長く口にする代わりに、革袋を大切そうにしまってからリナへ顔を向けた。
「リナ。今日は帰りに何か買っていきましょうか」
「いいの?」
「ええ。何が食べたい?」
「……お肉」
「パンじゃないのね」
「パンはもうあるもん」
リナが籠を指差すと、エマは堪えきれないように笑った。
「それもそうね。じゃあ今日は、少しだけいい夕食にしましょう」
リナは嬉しそうに頷き、再び糸分けへ戻った。その様子を見ていたゲルダは何も言わなかったが、口元がほんの少し緩んでいるようにアリスには見えた。
「さて、アリスさんの方も仕上げましょう」
エマが袖口の作業へ戻ろうとしたところで、ゲルダが棚から細長い金属製の道具を取り出した。銀灰色の表面には細かな目盛りが刻まれ、端には長年使われてきたらしい擦れが残っている。
「こっちを使いな。補強布の幅を揃えた方が仕上がりが綺麗になる」
「ありがとうございます。……これ、ずいぶん細かく測れるんですね」
エマは定規を手に取り、刻まれた目盛りへ顔を近づけた。普段使っている木製のものより刻みが細かく、数字も小さい。アリスにも、その数字の書き方には見覚えがあった。
「帝国の頃に作られたものだよ。昔、仕立て屋から譲ってもらったんだ。今売っている定規より細かく測れるから、捨てる理由もないだろう」
「帝国のものって、こんなところにも残っているんですね」
「そりゃ残ってるさ。鍋だって鋏だって、壊れなければ使うだろう?」
ゲルダにとっては、ごく当たり前のことらしい。
アリスは金属の定規を眺めながら、少し前に市場で見た封印された本を思い出した。何軒もの家を買えるほどの値を付けられた一冊と、十年間も地下で水を流し続けていた巨大な水路。そして目の前には、仕立て屋が毎日の仕事で使っている一本の定規がある。
同じ帝国で作られたものでも、残り方も使われ方もまるで違う。失われた技術を求めて人々が森や廃墟へ入る一方で、誰にも珍しがられず、今も棚から取り出されて働いている道具もあるのだ。
「できました」
エマの言葉で、アリスは目の前へ意識を戻した。
差し出された袖口を確認すると、薄くなっていた部分には内側から布が当てられ、表からは補強した場所がほとんど分からない。縫い目も揃っており、指で触れてみても引っかかりはなかった。
「綺麗ですね。これなら、まだ長く着られそうです」
「よかったです。生地そのものはまだ丈夫ですから、今のうちに直しておけば大丈夫だと思います」
会計もエマが担当した。修繕代を受け取り、帳面へ日付と金額を書き込む。ゲルダは横から一度だけ帳面を確認したものの、訂正はせず、そのまま閉じてエマへ戻した。
「ありがとうございました、アリスさん」
「こちらこそ。エマさんにお願いしてよかったです」
そう答えると、エマは少し照れたように笑った。
アリスが帰ろうと扉へ向かう頃には、午後の日差しが店の奥まで長く伸びていた。リナも母親と帰る準備を始め、小さな椅子から立ち上がる。座面の下へ落ちていた糸くずに気づくと、自分で拾って作業台の端へ置いた。
「リナ、籠を忘れないでね」
「うん。お母さん、お肉は?」
「忘れていないわ。帰りに見に行きましょう」
母娘がそんな話をしていると、奥で布を畳んでいたゲルダが顔も上げずに言った。
「リナ。明日も来るなら、そこの針山には触るんじゃないよ。危ないからね」
「はい!」
店を出る直前、アリスは一度だけ振り返った。窓辺ではエマが使った針を片づけ、リナは分け終えた糸をゲルダへ渡している。その傍らには、まだ新しい木肌を残した小さな椅子が一脚、明日も使われるのを待つように置かれていた。
エマは三日間の試用を終え、ゲルダの仕立て屋で正式に働き始めています。
少しずつ仕事を任されるようになったエマと、母を待ちながら店で過ごすようになったリナ。
店に増えた小さな椅子は、素直に歓迎とは言わないゲルダなりの気遣いです。




