14. 仕立て屋の三日目
その日の昼前、アリスは切れた縄を片手に、町の西側へ向かっていた。冬の間、裏手の薪をまとめるために使っていたものだが、朝になって薪を動かそうとした途端、擦れて細くなっていた部分から切れてしまったのである。
雑貨屋でも代わりは買えたものの、町の西側には縄や荷車用の綱を作っている職人がいる。薪をまとめるだけなら長さもそれほど必要ないため、丈夫なものを一本買っておけば、しばらく困ることもないだろう。空には薄い雲が浮かんでいたが雨の気配はなく、アリスは昼食を済ませる前に用事を終えるつもりだった。
「アリスさん?」
後ろから名前を呼ばれ、アリスは足を止めた。布包みを両腕で抱えたエマ・ローデが、小走りでこちらへ近づいてくる。仕立て屋で働くときと同じように髪を後ろでまとめ、肩には裁縫道具を入れているらしい布鞄を掛けていた。
「こんにちは、エマさん。お仕事ですか?」
「ええ。今からお客さんのところへ届け物なんです。ちょうどよかった。アリスさん、ファーナーさんというご家族が住んでいる場所をご存じですか?」
名前には覚えがあった。エリクとローザという夫婦が三人の子供と暮らしている農家で、住んでいる場所もアリスの向かう方角にある。
「知っていますよ。この道を進んで、二つに分かれるところを右です。新しい木柵のある家です」
「右ですね。ありがとうございます。ゲルダさんにも教えてもらったんですけれど、『大きな木のところを右』と言われてしまって。来てみたら、大きな木がいくつもあって……」
「ゲルダさんにとっては、その中の一本だけが『大きな木』なんでしょうね」
アリスが周囲を見ながら答えると、エマも困ったように笑った。似たような木が道沿いに何本も立っている以上、初めて来る人間に見分けろという方が難しい。
「私も同じ方向へ行くところです。途中まで一緒に行きましょうか」
「助かります。リナには迷子にならないようにと言っているのに、私が迷って帰ったら、しばらく笑われそうですから」
二人は並んで西へ向かった。日当たりのいい場所では道端の草が膝下ほどまで伸び始め、その間に小さな黄色い花が混じっている。荷車の通った跡には乾いた土が細かく砕けて残り、風が吹くたびに薄く舞い上がっていた。
エマが抱えている布包みには、仕立て直した上着が入っているらしい。今日でゲルダ・ハルトの仕立て屋へ通い始めて三日目になるはずだとアリスは思い出したものの、試用については尋ねなかった。結果が決まる前から話題にするより、エマ本人から話してくれるのを待つ方がいい。
やがて道が二つに分かれた。右へ曲がって少し進むと、低い木柵に囲まれた家が見えてくる。家の裏手には畑があり、黒い土の間に取り除かれた石がいくつも積まれていた。奥では少年が鍬を振るい、その近くで小さな男の子が籠へ石を集めている。
「こんにちは。ゲルダさんの仕立て屋から来ました」
エマが声をかけると、家の脇から一人の女性が出てきた。ローザ・ファーナーだった。袖を肘までまくり上げ、手についた土を前掛けで軽く払ってから、布包みを抱えたエマのところへ歩いてくる。
「ああ、上着ね。待っていたのよ。……アリスさんも一緒だったのね」
「途中まで同じ道だったので。私はもう少し先まで行くところなんです」
「そうなの。それなら少し休んでいったら? ちょうどフィンにも着せてみたいから」
急いでいるわけでもなかったため、アリスは少しだけ休ませてもらうことにした。エマが布包みを開く間、ローザは畑へ向かって長男を呼ぶ。
包みの中から現れたのは、茶色い上着だった。新品ではなく、肘や袖口には以前から使われてきた跡が残っている。それでも擦れていた部分は丁寧に繕われ、全体の形も整え直されていた。
「元は主人の上着なの。まだ布はしっかりしているから、フィンが着られるならと思ってね」
ローザに呼ばれたフィンが鍬を置き、畑から戻ってきた。十三歳になる少年は手についた土を落としてから上着へ腕を通す。父親が着ていたものとは思えないほど丈が詰められており、袖も手首の辺りで収まっていた。
「どう?」
「うん。いいと思う」
フィンが自分の袖を眺めながら答える。ローザも満足そうに息子の姿を確認しており、アリスの目にも特におかしいところは見当たらなかった。
けれど、エマはすぐに布包みを片づけなかった。
「フィン君、両腕を上げてもらってもいいですか?」
「腕?」
「はい。上までお願いします」
不思議そうにしながらも、フィンは両腕を持ち上げた。その瞬間、背中から肩にかけての布が引かれ、襟元が少し持ち上がる。
エマは少年の後ろへ回り、肩の辺りを指先で確かめた。
「今度は前へ伸ばしてみてください。畑で何か持つときみたいに」
「こうかな」
「そのまま少し動かしてみてください。肩は苦しくありませんか?」
「ちょっとだけ。でも、着られないほどじゃないよ」
アリスには、言われて初めて分かる程度の違いだった。立っているときにはきれいに合っていた上着が、腕を動かすと肩の辺りだけ窮屈そうに見える。
「これくらいなら大丈夫じゃないかしら。新しい服を買うよりずっと助かるもの」
ローザが言ったものの、エマはすぐには頷かなかった。
「この上着は、畑仕事でも着ますか?」
「ええ。朝はまだ冷えるでしょう。しばらくは着せるつもりよ」
「でしたら、少し直させてください。何度も腕を動かすなら、このままだと肩の縫い目に負担がかかります。着ている本人も疲れると思いますから」
エマはフィンから上着を受け取ると、家の前に置かれていた木箱を借り、布鞄から裁縫道具を取り出した。肩の内側を確かめてから糸切り鋏を入れ、仕上がっていた縫い目の一部を慎重にほどき始める。
アリスはその手元を眺めていた。せっかく店で完成させて持ってきたものを、自分の判断でもう一度ほどいてしまうことに少し驚いた。
「持ち帰らなくても大丈夫なんですか?」
「大きく直す必要はなさそうです。それに、フィン君に着てもらいながら調整できるので、ここで直した方が分かりやすいと思います」
答えている間にも、エマの手は止まらなかった。内側に残していた布を少し広げ、肩の動きに余裕ができるよう縫い直していく。アリスは裁縫について詳しくないため、どの程度の違いが生まれているのかまでは分からなかったが、エマの指は迷うことなく布の上を動いていた。
しばらくして糸を切ると、エマはもう一度フィンへ上着を渡した。
「同じように腕を上げてみてください」
「うん」
フィンは両腕を上げ、今度はそのまま近くに置いてあった鍬を持った。柄を握って土を掘るように何度か動かしてから、肩を回してみる。
「さっきより楽だよ」
「本当に?」
「うん。ここが引っ張られなくなった」
少年が肩を指さすと、エマはようやく表情を緩めた。ローザも安心したようで、追加の料金が必要なら払うと申し出たが、エマは自分では決められないから店へ戻ってゲルダに確認すると答えた。
アリスは二人のやり取りを聞きながら、改めてエマの手元を見た。隣家で顔を合わせるときには穏やかな母親という印象が強かったが、布を前にした彼女は細かな違いを見逃さず、自分の判断で手を動かしている。
ファーナー家を出ると、二人はさらに西へ向かった。アリスが縄を買う作業場まではさほど遠くなく、エマも帰り道を覚えるためについていくという。
縄職人の作業場には、太さの違う縄が梁から何本も吊り下げられていた。乾いた麻の匂いが漂い、壁際には荷車用の太い綱が大きく巻かれている。アリスは薪をまとめる用途だと伝え、手頃な太さのものを一本選んでもらった。
代金を払い、切れた古い縄と新しい縄を抱えて外へ出た頃には、空の様子が変わっていた。西から灰色の雲が広がり、先ほどまで弱かった風も冷たくなっている。
「雨になりそうですね」
エマが空を見上げた直後、アリスの頬に小さな水滴が当たった。
「町まで待ってはくれなさそうです」
歩調を速めたものの、雨粒はすぐに増えた。二人は荷物を濡らさないよう抱え直し、道沿いにあった古い作業小屋の軒下へ駆け込んだ。
屋根を雨が細かく叩き、乾いていた道へ次々と濃い染みが広がっていく。軒先から落ちる水が細い筋になり、少し離れた畑も雨に霞んでいた。春の雨らしく雲の向こうには明るさが残っていたため、二人はしばらく待てば弱まるだろうと判断した。
「今日で三日目なんです」
隣で雨を眺めていたエマが口を開いた。
「仕立て屋の試用ですか?」
「ええ。今日の仕事が終わったら、これからも雇ってもらえるかどうか決まります」
アリスは先ほどの上着へ思いを巡らせた。
「それなら、さっき縫い直したときは迷ったでしょう。ゲルダさんに確認してからの方が安全だったんじゃありませんか?」
「迷いました。店へ持ち帰ろうかとも思ったんです」
エマは肩に掛けていた布鞄を抱え直した。
「でも、フィン君は今日からあの上着を着るつもりでした。着にくいと分かっているものを渡して、採用されるために余計なことはしなかったと言うのも違う気がして」
「ゲルダさんに怒られるかもしれませんよ」
「そのときは謝ります。直したことは、きちんと話すつもりです」
不安がないわけではないらしく、エマは小さく息を吐いた。それでも、直さなければよかったとは思っていないようだった。
雨が弱まるのを待って、二人は再び歩き始めた。湿った道では靴の裏に土がつき、浅い窪みには小さな水溜まりができている。エマは帰り道の分岐を今度は自分から曲がり、迷うことなく仕立て屋のある通りまで戻った。
「アリスさん、少しだけ待っていただいてもいいですか? 借りた布を返したら、一緒に帰れますから」
「もちろんです」
二人で店へ入ると、ゲルダ・ハルトが作業台の向こうから顔を上げた。首には巻尺が掛かり、目の前には裁断途中の濃紺の布が広げられている。
「ずいぶん遅かったね。雨に捕まったのかい?」
「はい。それと、ファーナーさんの上着をその場で直していました」
「直した?」
ゲルダの手が止まった。
エマはフィンに着てもらったところ肩が窮屈だったこと、畑仕事に使うと聞いたこと、その場で一部をほどいて調整したことを順番に説明した。最初の仕立てで気づけなかったことも含め、何も隠さず話している。
「私に聞かずに直したんだね?」
「はい。申し訳ありません」
「持って帰ってくれば聞けただろう」
「そう思いました。でも、今日から着ると聞いたので、そのままお渡しする方がよくないと判断しました」
アリスは店の入口に近いところで、二人の話を黙って聞いていた。自分が口を挟む場面ではない。エマも助けを求めることなく、ゲルダの前に立っていた。
「それで、直したあとは?」
「もう一度着てもらいました。腕を上げてもらって、鍬を持つ動きも確認しています。本人からも、先ほどより動きやすいと言ってもらえました」
「そうかい」
ゲルダはそれ以上何も言わず、作業台の脇へ手を伸ばした。そこには薄い灰色の布と、小さな紙札が置かれている。
「じゃあ、これは明日の分だ。朝から来な」
「……明日ですか?」
「今日で三日だろう。明日からは試しじゃないよ。最初に話した条件で働いてもらう」
エマはすぐに答えず、ゲルダと作業台の上の布を交互に見た。
「雇っていただけるんですか?」
「そのつもりで仕事を残してあるんだ。来ないなら今のうちに言いな」
「来ます。明日も来させてください」
「なら決まりだね」
ゲルダは灰色の布をエマの作業台へ置いた。
「今日みたいに仕上げたものへ手を入れたら、必ず報告すること。何でも好き勝手に変えていいという意味じゃないよ」
「はい」
「それと、着る人間がどう使う服なのかは最初に聞きな。畑で着る服と、祝いの席で座っているための服じゃ、同じ寸法でも見るところが違う」
エマは真剣に頷いた。
「覚えておきます」
「覚えるだけじゃなく、次からやりな。じゃないと雇った意味がないからね」
厳しい言い方ではあったが、ゲルダはもうエマを試用中の人間として話してはいなかった。明日の仕事を渡し、次からどう働くべきかを伝えている。
店を出ると、雨雲は東へ流れ、通りには再び陽が差していた。濡れた屋根から雫が落ち、石畳の窪みに残った水が光っている。エマはしばらく黙ったまま歩いていたが、角を一つ曲がったところで大きく息を吐いた。
「緊張しました」
「ゲルダさんが黙ったところですか?」
「はい。あそこで『今日までだね』と言われるのかと思いました」
「私も少しだけ思いました」
「アリスさんまでですか?」
エマが笑い、アリスもつられて笑った。仕事が決まったからといって、明日から何も心配がなくなるわけではない。覚えることもあるだろうし、ゲルダから叱られる日もあるだろう。それでも明日の朝、エマには向かう仕事場がある。
二人が家の前まで戻ると、隣家の扉が開いた。待っていたらしいリナが顔を出し、母親の姿を見るなり駆け寄ってくる。
「お母さん、どうだった?」
エマは布鞄を肩から下ろし、娘と目線を合わせた。
「明日も行くことになったわ」
「本当?」
「ええ。今度は三日だけじゃないわよ。ちゃんとお仕事として」
リナは一瞬目を見開いたあと、母親へ勢いよく抱きついた。エマはよろめきながら娘を受け止め、笑ってその背中を撫でている。
アリスは二人へ改めて祝いの言葉をかけ、自分の家へ戻った。
翌朝、アリスが玄関先へ出ると、隣家の扉もほどなく開いた。エマは昨日と同じ布鞄を肩に掛け、片手には昼食を包んだらしい小さな包みを持っている。家の中からリナの「いってらっしゃい」という声が聞こえ、エマは振り返って「いってきます」と答えた。
「おはようございます、アリスさん」
「おはようございます。今日は早いんですね」
「初日から遅れたら、ゲルダさんに何を言われるか分かりませんから」
エマはそう言って笑い、仕立て屋のある方角へ歩いていった。
昨日までと同じ布鞄を持ち、同じ店へ向かう朝だった。それでも今日は試しに働きに行くのではない。ゲルダから渡された仕事が待っていて、エマ自身の作業台も店の中にある。
アリスは角を曲がるまでその後ろ姿を見送り、それから自分も朝の用事へ戻った。




