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婚約を失った元伯爵令嬢の、幸せな暮らしのすゝめ  作者: 入多麗夜


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13/23

13. 隣国から来た青年

ヒロイン登場です。

昼を少し過ぎた頃、アリスは市場での買い物を終え、マルタとハンスのパン屋へ向かっていた。朝方まで空を覆っていた薄雲は東へ流れ、通りには春らしい柔らかな陽射しが広がっている。家々の窓は暖かな風を入れるために開け放たれ、軒先には冬の間に使われていた厚手の敷布が干されていた。少し前まで外を歩けば冷たい風に肩を縮めていたのに、今日は外套の前を開けたまま歩く人の姿も多い。


 アリスの買い物籠には、根菜と茶葉、それから小さな石鹸が入っていた。あとはパン屋で丸パンを二つ買えば、今日の買い物は終わりである。マルタたちの店は客が増えており、最近では昼を過ぎる頃に売り切れる品も出てきたため、少し急いだ方がいいかもしれないと考えながら、アリスは人通りの増えた道を歩いていた。


 町の西側へ続く分かれ道まで来たところで、アリスは二人の青年が道端に立っていることに気づいた。二人の傍らには荷物を載せた馬が一頭ずつおり、外套の裾と革靴には長い道を歩いてきたらしい乾いた泥が残っている。一人は広げた地図と周囲の建物を何度も見比べ、もう一人は二頭分の手綱を持ちながら、その様子を黙って眺めていた。


「おかしいな。ここを南へ入れば宿があるはずなんだけど、さっきも同じところを通った気がするんだよな」


 地図を持った青年が困ったように辺りを見回し、ちょうど近くまで来ていたアリスに気づいた。赤みを帯びた茶髪を短く整えた、人当たりのよさそうな青年である。アリスと目が合うと、彼は地図を片手に持ったまま軽く頭を下げた。


「すみません、少し道を尋ねてもいいでしょうか。この辺りに宿があると聞いて来たんですが、どうにも地図と実際の道が合わなくて。一晩だけではなく、しばらく泊まれるところを探しているんです」

「宿でしたら、この先にありますよ。この道をそのまま進んで、二つ目の角を右へ曲がってください。バルド・クレインさんという方が営んでいる宿があります。長く滞在する方も泊まっていますから、おそらく大丈夫だと思います」


 青年は礼を言いながら地図へ目を落としたものの、まだ納得できていないらしい。アリスが見せてもらうと、そこには確かにエルデンの町並みが描かれていたが、今ではほとんど使われていない道が大きく記されている一方、最近人の往来が増えた道は載っていなかった。地図そのものは新しく見えるため、作られた時期ではなく、参考にした情報が古いのだろう。


「ここに描かれている道は今も残っています。ただ、昔ほど使われていません。宿へ行くのでしたら、こちらを通った方がずっと早いですよ」

「なるほど。地図が間違っているんじゃなくて、載っている情報が古いのか。ライゼンで買ったときには、この辺りまで載っている地図では一番詳しいと言われたんですけどね」


 ライゼンという国名を聞き、アリスは改めて二人を見た。帝国の西に国境を接していた隣国で、最近ではライゼンの銀貨や商品をエルデンでも目にするようになっている。ダリオが持ち込んだ乾燥果実もライゼンを経由していたが、実際にそこで暮らしていた人と話す機会は、アリスにはほとんどなかった。


「ライゼンからいらしたんですか?」

「はい。ああ、先に名乗るべきでしたね。俺はユリウス・ベッカーです。こいつとは子供の頃からの付き合いで、一緒にライゼンから来ました」


 ユリウスと名乗った青年が隣へ顔を向けると、それまで馬の手綱を持っていたもう一人の青年もアリスへ向き直った。焦げ茶色の髪を短く整え、旅に向いた丈夫そうな服を身につけている。腰には剣が下げられているものの、ガレスたちのような冒険者らしい重装備ではなく、長旅で身を守るために携えているように見えた。


「レオン・アルヴェインです。道を教えていただいて、ありがとうございます。知らない町で地図まで当てにならないとなると、さすがに困っていたところでした」

「アリスです。この辺りは昔からある道と最近使われるようになった道が混じっていますから、初めて来た方には少し分かりにくいと思います」


 アリスが名乗ったのは名前だけだったが、レオンもユリウスも続きを尋ねなかった。旧帝国領には出身や過去を細かく話したがらない者も多く、名前だけで暮らしている人間も珍しくない。二人が事情を知っているのかは分からないものの、アリスにとっては余計な説明をせずに済む方がありがたかった。


「昔からある道をご存じということは、アリスさんはエルデンに長いんですか?」

「ええ。生まれたときから暮らしています。今では使われなくなった道でも、子供の頃には普通に人が歩いていたところがありますから、この地図にも見覚えのある場所がいくつかありますよ」


 レオンは少し驚いたように地図とアリスを見比べた。二十五歳の彼からすれば、帝国が崩壊する以前のエルデンを知っている人間と話すこと自体が珍しいのかもしれない。アリスにとっては十四歳まで過ごした故郷の話に過ぎないため、その反応の違いが少し新鮮だった。


「では、帝国があった頃からずっとここに?」

「そうですね。町そのものは同じ場所にありますけれど、十年前とはかなり変わりました。昔は今ほど外から人が来る場所ではありませんでしたし、最近になって使われ始めた道もあります。空いていた家に新しい方が住むようになったり、店が増えたりして、ここ数年は特に変化が早くなりました」

「ライゼンでは、帝国は人の出入りをかなり厳しく管理していたと聞いていました。国境の向こう側に大きな国があるのに、そこへ行ったことのある人はほとんどいなかったんです」


 レオンの話に、アリスは少し興味を引かれた。帝国の中にいた頃、外の人間から自分たちがどう見えているのかを考えることはなかった。大陸の六割ほどを治める巨大な国であっても、その中で暮らす人間にとっては日々の生活を送る場所であり、不可思議な国だという感覚などなかったのである。


「ライゼンでは、帝国はどんな国だと思われていたんですか?」

「俺が子供だった頃の話なら、大きくて強くて、よく分からない国ですね。街道も建物も立派で、技術も進んでいるとは聞いていました。でも、そこに住んでいる人たちが普段どんな暮らしをしているのかは知りませんでした。国境の向こうなのに、もっと遠い国みたいに感じていましたよ」

「それなら、私にとってのライゼンも似たようなものだったかもしれません。地理や歴史は習いましたし、大きな町や川の名前も覚えました。でも、そこで暮らす方が普段何を食べて、どんな仕事をしているのかまでは知りませんでしたから」


 隣り合っていた二つの国で育ちながら、お互いの暮らしについてはほとんど知らない。レオンが「隣国だったのに不思議ですね」と言うと、アリスも同じように感じて頷いた。地図の上では一本の国境線を挟んでいるだけだった場所が、実際にはずっと遠く隔てられていたのだと、国がなくなったあとになって初めて知った気がした。


 そこで通りの向こうから、荷車の車輪が石を踏む大きな音が聞こえてきた。布を巻いた荷物や木箱を積んだ一台の荷車が店の前へ停まり、御者と店主らしい男が荷札を見ながら話し始める。ユリウスはすぐにそちらへ目を向け、荷台に積まれた品を確かめるように少し背を伸ばした。


「あれ、西から来た荷かもしれないな。レオン、悪いけど俺は少し話を聞いてくるよ。ここへ荷物がどう入ってくるのか、来たばかりのうちに知っておきたいんだ」

「宿へ着く前から仕事の話か。馬はどうする?」

「少しの間だけ頼む。アリスさん、道を教えていただいてありがとうございました。おかげで今夜は町を何周もせずに済みそうです」


 ユリウスは冗談めかして頭を下げると、地図を畳んでレオンへ預け、荷車の方へ歩いていった。レオンは二頭分の手綱を持ち直しながら幼馴染の背中を見送り、少し申し訳なさそうにアリスへ向き直った。


「すみません。ユリウスは昔からああなんです。荷物や店を見ると、どこから来たのか確かめずにはいられないらしくて。今回ここまで来たのも、旧帝国領ならこれから商売を始める余地があるんじゃないかと、あいつが言い出したのがきっかけでした」

「では、ユリウスさんは商売をするためにエルデンへ?」

「まだ決めてはいません。いくつか町を見てから考えるそうです。俺の方は、商売というより仕事と暮らす場所を探しに来ました」


 その言葉が気になり、アリスはレオンへ視線を戻した。旅の途中で立ち寄っただけなら珍しくないが、住む場所まで探しているとなれば話は違う。最近エルデンへ来る人々の中にも同じような者はいるものの、隣国から国境を越えて生活の場を探しに来た人と直接話すのは初めてだった。


「ライゼンへ戻る予定はないんですか?」

「戻れないわけではありません。故郷には両親も兄たちもいます。ただ、兄が二人いるので、俺が家や土地を継ぐことはないんです。それなら自分で仕事を見つけて、暮らしていける場所も自分で選んでみようと思いました。まだエルデンに決めたわけではありませんけどね」


 帰ろうと思えば帰れる場所がありながら、自分からそこを離れてきた。アリスには少し不思議に思えた。自分は国も家も将来の約束も失ったあと、それでもエルデンを離れなかった。レオンはその反対で、残っているものがあるのに外へ出て、新しく暮らす場所を探している。


「変わっていますね」

「それは何度か言われました」

「悪い意味ではありませんよ。帰れる場所があるなら、そこに残るものだと思っていたので。私はずっとエルデンにいますから、余計にそう感じるのかもしれません」

「俺からすると、生まれた町にずっと住み続けている方が少し不思議です。そこに残りたいと思える理由があるということでしょう?」


 レオンは何気なく言ったのだろうが、アリスはすぐには返事をしなかった。十四歳で帝国が崩壊した頃と、二十四歳になった今では、エルデンに残っている理由も少しずつ変わっている。最初から明確な理由があって残ったわけではなく、ほかへ行くことを考えられなかった時期も長かった。


「ずっと同じ理由で残っているわけではありません。十年前と今では、町も私も変わりましたから」

「そういうものなのかもしれませんね。俺も十年後には、今とは違うことを言っているかもしれません」


 レオンはそれ以上理由を尋ねなかった。アリスが何を失ったのかも、どうして姓を名乗らないのかも聞かず、そこで話を終わらせてくれた。その距離の取り方に居心地の悪さを感じなかったため、アリスの方も自然に次の言葉を口にしていた。


「もし本当にエルデンで暮らすことを考えているなら、春だけを見て決めない方がいいですよ。今は暖かくなってきましたし、町にも人が増えて賑やかに見えます。でも冬になれば雪も降りますし、町の外へ続く道が使いにくくなることもあります。薪や保存食も、必要になってから集めれば間に合うものではありませんから」

「来たばかりの人間に、ずいぶん現実的なことを教えてくれるんですね。もっと住みやすい町だと勧められるのかと思っていました」

「暮らす場所を探している方に、春は綺麗ですよとだけ言っても仕方がありません。それに、人が増えているからといって、誰でもすぐ仕事を見つけられるわけでもありませんよ」


 少し厳しく言いすぎただろうかと思ったものの、レオンは嫌そうな顔をしなかった。むしろ面白そうに笑い、そういう話を聞きたかったのだと答えた。知らない土地で暮らそうとするなら、良いところだけでなく困るところも知ってから決めたいという考えらしい。


「それなら、アリスさんに最初に会えたのは運がよかったですね。宿へ行って『エルデンはどうですか』と聞いたら、客に逃げられたくないから良いところばかり教えられていたかもしれない」

「バルドさんなら、冬は寒いし薪代もかかると普通に教えると思いますよ。宿の主人だからといって、何でも都合よく話す方ではありませんから」

「それなら安心しました。宿へ着いたら、冬のことも聞いてみます。住むかどうかは、それから考えた方がよさそうですね」


 宿の場所を教えれば終わるはずだった会話は、そこからも不思議と続いた。レオンがエルデンではどんな仕事が増えているのか尋ねれば、アリスは自分が知る範囲で答え、分からないことは分からないと伝えた。逆にアリスがライゼンについて尋ねると、レオンは故郷の町や周囲に広がる農地、街道沿いに点在する村について話してくれた。


 アリスが地理の授業で覚えたライゼンは、王都や大きな川、主要な街道が記された地図の中にしかなかった。レオンが語るライゼンには、秋になると一面が黄金色になる麦畑があり、街道沿いには旅人が立ち寄る小さな宿があり、村ごとに焼くパンの形まで少し違うという。教科書には書かれていなかった隣国の話を聞くうちに、アリスも次々と尋ねたいことが浮かんだ。


「ライゼンでも、町によって食べるものは違うんですね。私はもっと同じような料理が多いのだと思っていました」

「かなり違いますよ。俺の故郷は麦を作る家が多いのでパンが中心ですけど、南へ行けば米に似た穀物を食べる地域もあります。ユリウスは旅をするたびに知らない料理を食べたがるので、今回もエルデンで何を見つけるか楽しみにしているはずです」

「それなら、ボリスさんと会わせてみたいですね。先日知り合った冒険者なんですが、どこへ行っても食べ物のことが気になる方なんです」

「ユリウスより気が合うかもしれません。あいつは食べ物そのものより、いくらで仕入れられるのかを先に考えるので」


 二人で笑ったあとも、会話は途切れなかった。ライゼンの春の話からエルデンの冬へ戻り、町で食事をするならどこがいいかという話になれば、アリスはバルドの宿でも温かい料理が食べられると教えた。レオンは旅の途中で塩辛い煮込みを食べて水を何杯も飲む羽目になった話をし、アリスも思わず笑ってしまった。


 しばらくして、通りに落ちる建物の影が伸びていることにアリスは気づいた。市場を出たときより陽射しは傾き、行き交う人々の数も少し変わっている。そこでようやく、本来はマルタとハンスのパン屋へ寄る途中だったことを思い出し、買い物籠の中へ目を落とした。


「どうかしましたか?」

「パンを買うつもりだったことを思い出したんです。最近は昼を過ぎると売り切れてしまうことがあるので、急いだ方がよかったんですけれど」

「それは申し訳ないことをしました。道を聞くだけのつもりだったのに、随分長く引き止めてしまいましたね」

「いいえ。私もずっとお話ししていましたから、レオンさんだけのせいではありませんよ。こんなに長く話していたとは思いませんでしたけれど」


 口にしてから、アリスは改めてそのことを意識した。初めて会った相手に宿への道を教え、それから帝国とライゼンの話をし、故郷や仕事、冬の暮らしや食べ物についてまで話していた。人と話すことを嫌っているわけではないが、初対面の相手とここまで会話が続くことは珍しかった。


「レオン、待たせた!」


 通りの向こうからユリウスの声が聞こえ、二人はほぼ同時にそちらを見た。荷車のところへ行っていたユリウスが戻ってきており、先ほどよりも機嫌がよさそうな顔をしている。目当ての話を聞くことができたのか、歩きながら早くも荷物の仕入れ先について話し始めていた。


「やっぱり西から来た商人だったよ。定期的にエルデンまで荷を運んでるらしい。あとで宿を聞いて、もう少し詳しく話を――って、お前たち、まだここにいたのか?」

「町のことをいろいろ教えてもらっていたんだ。宿の場所だけ聞くつもりだったんだが、思ったより話が長くなった」

「俺が荷車を見に行って戻ってくるまで話してたなら、相当だろ。まあいいや、馬も休ませたいし、そろそろ宿へ行こう。俺も腹が減った」


 ユリウスはレオンから一頭分の手綱を受け取り、先ほど教えてもらった道の先を確認した。レオンも宿へ向かう準備をしながら、改めてアリスへ向き直った。


「今日はありがとうございました。宿の場所だけでなく、エルデンのことまでいろいろ聞けて助かりました。今度会ったときには、もう少しライゼンの話をしますよ。今日は俺ばかり町のことを聞いてしまいましたから」

「それなら、ぜひ聞かせてください。地図や本で覚えたことしか知りませんから、実際に暮らしていた方のお話は面白かったです。この町にしばらく滞在されるのでしたら、またどこかでお会いするでしょうし」


 アリスが答えると、レオンは「では、そのときに」と穏やかに返した。二人が宿の方角へ歩き始めるのを見届けてから、アリスもパン屋へ向かって歩き出した。別れ際に特別なことがあったわけではなく、振り返って互いの姿を追うこともなかった。それでも、最初は道を尋ねられただけだったことを思えば、随分長い立ち話になったものだとアリスは思った。


 マルタとハンスのパン屋へ着く頃には、店先に並んでいた品の大半が売れていた。扉を開けると焼いた麦の香りが残っており、棚の端には目当てにしていた丸パンが一つだけ残されている。アリスがほっとしてそれを買うことにすると、店の奥で品物を並べ直していたマルタ・ハインが顔を上げた。


「アリスさん、今日は遅かったのね。いつもなら、もう少し早い時間に来るでしょう?」

「途中で道を尋ねられたんです。ライゼンから来た方たちで、この辺りの地図が古かったらしくて。宿の場所を教えていたら、そのあとも少しお話しすることになってしまって」


 少し、と答えながら、アリスは紙に包まれていく最後の丸パンを眺めた。市場を出たときには二つ買うつもりだったのだから、少しというには長かったのかもしれない。マルタは「それなら最後の一つが残っていてよかったわね」と笑い、アリスもそうですねと答えて代金を渡した。


 店を出ると、午後の陽射しはさらに西へ傾いていた。アリスはまだ温かさの残る丸パンを買い物籠へ収め、いつもの家路へ足を向ける。初めて会った隣国の青年について、何か特別な意味を考えることはなかった。それでも、ライゼンについて聞きたいことなら、家へ帰るまでの短い道のりだけでもいくつか思い浮かんだ。


 また会えば、そのときに尋ねればいい。エルデンにしばらく滞在するというのなら、町のどこかで顔を合わせる機会もあるだろう。アリスはそう考えながら、新しい住人や旅人が行き交う春の通りを、自分の家へ向かって歩いていった。

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