第26話 珂家襲来②
ある日の朝、鍋の味見をしながら隆善が言った。
「ありゃ宦官なんだ。タマをとったタマなし野郎さ」
雑役夫のことである。
「そうなんだ」
と蘭児は小壺に調味料を詰めながら答えた。
世の中には刑罰だか仕事だかで去勢される男がいるとは知っていたが、辺境の村に暮らしていて宦官に会うことはまずない。宮に入って、初めて遭遇した人種だった。
「皇帝陛下の後宮で働く雑用係だ。天子さまに気に入られりゃ富豪になるのも夢じゃねえらしいが、大半は年をくったらクビになって追い出されちまう。金や身寄りがなきゃ野垂れ死にさ。そういうどうにもならねえやつらがここに送り込まれてくる。大抵は後宮でやっていた仕事と同じことをしているな。器番なんかは、器の用途や価値がわからなきゃできないしな」
隣で大蒜を刻みながら迅が笑った。
「働けなくて死に体のやつもいるよな。病気持ちは段先生が診てやっているが。ったく、ここはでかい寺だか慈善院みたいなもんだよ。役立たずでも置いてくださる殿下の慈悲深さは菩薩さま並みだ。仕える俺たちは髪のある坊主だ」
「肉も魚も食えるし酒も飲める生臭坊主だな」
と、さらに平が相槌を打った。
「つったって、俺らだってあいつらとたいして変わりはねえんだけどよ」
と隆善は自嘲気味に笑った。
料理人の身分も低かった。
毎日食事を作っているにも関わらず、彼らは一度も皇族への拝謁を許されなかった。
円華宮の料理人たちの中で、殿下を直接見たことがあるのは隆善だけである。それも、在りし日に宮城内を進む皇太子の行列を何度か拝んだだけである。
御膳房の料理人は、その殆どが世襲だった。
その家独自の調理法や秘伝を持ち、大黎皇家に代々仕えてきた。
隆善の祖父は皇太子の祖父にあたる光憲帝に仕えた。
祖父は大黎各地から食材を集め様々な料理を考案し、皇帝の舌を大いに楽しませた。光憲帝は大変な美食家で、希少な食材や調理法にも個人的に興味を持っていたらしい。
一度だけ妃を伴って、御膳房に足を運んだことがあった。そこで祖父は皇帝に拝謁する栄誉を賜った。
隆善は十歳で皇帝の御膳房へ見習いとして入った。
研鑽を積み、十二年後に皇太子の御膳房へ異動した。毎日懸命に料理を作り、腕を磨いた。
九年後に皇太子が廃嫡され御膳房が解散になった時、腕がよかった彼は新帝の御膳房へ行くこともできた。民間へ出て、自分の店を開く手もあった。
しかし彼は皇太子への厚い忠誠心から、自ら志願して円華宮に入ったのだった。妻子がいたが宮から出られない以上、家族を捨てる形になった。まさに頭を丸めない出家である。
御膳房に三十年以上勤め、皇太子に仕える者の中では最古参だった。
なので、誰にでも気安い口を叩く。寧も彼をないがしろにはできなかった。
「じいさんがよお、午餐の盛りつけをしていたら、先々帝陛下とお妃の安基公主さまが御膳房に入ってこられてよう。じいさんは皇帝陛下のご威容に目が潰れそうになった。慌てて平伏したが、直々にご下問までいただいてよう……安基公主さまはじいさんの作った点心をお褒めくださった。料理人冥利に尽きるつうのはこのことだ。じいさんはもう死んでもいいと思ったらしい」
隆善はまるで自分の体験であるかのように感激に打ち震えながら、祖父が受けた名誉を滔々と語った。
迅と平は、またかという風に目配せしあっている。
隆善の自慢話は耳にタコができるほど聞かされて、もう飽き飽きしているのだった。
隆善の話は適当に聞き流しながら、迅は不思議そうに言った。
「蘭児、お前は殿下にお目見えできる身分なのに、俺たちとも話をするよな。兄貴とは随分違う」
「そうかな」
蘭児は曖昧に笑った。
「こいつの母親は婢で、こいつも都の貧民窟で育ったらしいぞ」
と平が言った。
蘭児の素性については、宮内にも噂が広まっていた。寧が考えた嘘の設定に、勝手に尾ひれがついていた。
御膳番以外の手伝いは断られたため、暇な時間ができた。
特に殿下が午睡に入る時間帯は何もすることがない。そうすると段先生に呼ばれた。
午睡の時間は段先生にとっては休憩時間であったが、先生は休むことなく雑役夫らが住まう南の雑居房に往診にいっていた。そこにいる病人たちを診察し、治療していた。
本来は殿下だけを診ていればいいはずなのに、先生は円華宮に住まう者全員の医師をしていた。金や礼品は受け取らない。完全に慈善事業である。
薬が足りないので、畑で大葉、赤紫蘇、丁香(クローブ)、花椒(山椒)、鬱金、生姜、大蒜などを栽培していた。
食用ではなく、往診時に処方する漢方薬を作るためのものである。畑で採れる薬草を煎じて、雑居房に住まう病人たちに飲ませていた。
ある日、段先生は言った。
「殿下ほど、医者にとってよい患者はおらん。普通は病気が長引けば長引くほど、不安や恐怖から医者を責めたり暴れたりするもんじゃが、殿下は毛ほどもその素振りがない。実に根気よく、医者の指示どおりの生活を送ってくださる」
蘭児は鉢に乾燥させた薬草を入れて、すりこぎ棒で擦っていた。手を動かしながら言った。
「私も殿下はご病気と聞いて、もっと重いものを想像していました。てっきり普段は寝たきりで、食事は口まで運んで食べさせて、下の世話もするものと」
実際に見る殿下は声こそ出せないものの、意識は至って明瞭である。夜と午睡の時間以外は起きているようだし、杖を使って一人で移動もする。食事も自分で食べる。
病気ではあるのだろうが、全然手がかからなさそう……というのが正直な感想だった。
「以前はそうじゃったよ。毒を盛られてからしばらくは生死の境を彷徨ったし、半年ほどは寝たきりじゃった。高熱や痙攣が続いて、正直わしももうだめかと思うたこともある。じゃが、あの方は驚異的な精神力をお持ちでの。実に根気よく治療を続け、努力して自力で歩けるまでに回復したのじゃ。元々お身体は頑健であったし、若かったのも功を奏した」
「では治療を続ければ、殿下のお身体はもっとよくなりますか。いずれは杖を使わずに歩けるようになりますか」
蘭児は期待したが、段先生は残念そうに首を振った。
「いや、無理じゃろう。人体というのは、基本的に一度壊された組織は二度と元には戻らん。手足や臓器は特にな。殿下の半身は強力な神経毒に侵されてしもうた。鳥兜か貝毒か水仙かわからんが、少量でも摂取すれば短時間で呼吸を止める恐ろしい毒じゃ。殿下の右目は毒による高熱で潰された。視力が戻ることはないし、右足もだめじゃろうな。一生引きずって歩かねばならん。お辛いことじゃ」
「お声も……でしょうか」
「それはなんとも言えんな。専門の医師にかかって治療すれば、なんとかなるかもしれん。南黎には腕のよい鍼灸師が、東の宋には名医がいると聞くしの。何にせよ、ここから出られないのであれば意味はないが」
「そうでした」
蘭児は落胆した。




