「最初の絵本」
作戦を変えることにした。
食事は継続している。毎晩アリシアと向かい合ってスープを飲む。会話はあいかわらず断片的で、「今日はどうだった」「べつに」のやり取りが定番化しつつある。「べつに」の語尾がほんの少し柔らかくなった気はするが、気のせいかもしれない。希望的観測で、子育ては成り立たない。
このまま食事だけでは足りない。もう一つ、接点が欲しい。
思いついたのは、読み聞かせだった。前世の記憶を漁ると、どこかで「子供に本を読むのは最良の投資」みたいな育児書の見出しを見た覚えがある。読んではいない、見出しだけ覚えている。まあ方向性は間違っていないだろう。
問題は、本だった。
この屋敷の書庫を探してみたが、並んでいるのは歴史書、法律書、系譜、社交録。実用書の要塞だ。子供が読んで楽しい本が一冊もない。アリシアの部屋の本棚も確認したが、ヘルダが選んだと思われる教本が五冊ほど並んでいるだけだった。『公爵家の礼法』『高貴なる令嬢の嗜み』——タイトルを見ただけで眠くなる。五歳にこれを与えるセンスは正直すごい、逆の意味で。
ニナに頼んで、街の書店から子供向けの絵本を何冊か買ってきてもらった。
「奥様が、絵本を?」
ニナの驚く顔にもだいぶ慣れてきた。この屋敷では私が何か新しいことをするたびに、ニナが目を丸くする日課がある。
買ってきてもらった中から一冊選ぶ。『星をなくした夜空の話』。あらすじを確認すると、星がなくなった夜空がいろいろな場所を旅して星を探す話らしい。対象年齢は四歳から。挿絵が多くて文章は少なめ、ちょうどいい。
夜――寝支度を終えたあと、絵本を片手にアリシアの部屋に向かった。
ノックをして扉を開けると、アリシアはベッドの上に座って髪を弄っていた。寝間着姿の娘、部屋着になると昼間の堅さが少し解けて、ようやく年相応に見える。
アリシアは私を見ると、表情をぎこちなくさせた。
「何……?」
「読み聞かせをしてもいい? 寝る前に」
絵本を掲げて見せる。アリシアはそれをちらりと見て、布団を引き寄せた。
「いらない」
予想通り。一発OKが出ると思っていたら、きっと自分の甘さに地団駄を踏んでいたことだろう。
「じゃあ、お母様が一人で読んでもいい? ここで」
アリシアが怪訝な顔をする。大人が子供の部屋に来て一人で絵本を読むのだから、行動として意味が分からないだろう。
「何で……?」
「面白そうな本を買ったの。でも、自分のお部屋で一人で読むのも寂しくって」
アリシアは「意味が分からない」という顔をしつつも、「出ていけ」とは言わなかった。拒絶しないのは、この子の優しさなのか、それとも単に追い出すほどの関心がないのか。まあ、どちらでもいい。隙間があるなら入り込ませてもらう。
部屋の隅、窓際の椅子に座った。ベッドからは距離がある。近すぎると威圧感が出る。これは前世の営業研修で学んだ——相手のパーソナルスペースに踏み込まないこと。まさか異世界で五歳児に対して使う日が来るとは研修講師も思うまい。
絵本を開く。声に出して読み始めた。
「『むかし、夜空にはたくさんの星がありました。数えきれないほどの星が、夜になるときらきら光って——』」
アリシアは布団の中でこちらに背を向けている。聞いていないのかもしれないけどいい。聞こえれば、問題ないのだから。
ページをめくる。夜空から星が一つ消える場面。挿絵の夜空がぽつんと暗くなっている。
「『夜空はびっくりしました。あれ、一つ足りない。どこへ行ったんだろう——』」
五分ほど読んだところで、視線を感じた。
私は横目で見た。アリシアが寝返りを打っている。さっきまで背中を向けていたのに、今はこちら側を向いて目を閉じている。――寝たふりだ。聞いていないふりをしながら、聞いている。
私は思わず笑いそうになるのを堪えて、読み続けた。
――そうして、十分後。
アリシアの位置が変わっていた。ベッドの真ん中にいたはずが、いつの間にか端ににじり寄っている。こちら側の端に……腕が布団からはみ出していて、体が少しずつ前のめりになっている。
移動距離にして四十センチほどだろうか。ああ、たった四十センチに十分もかかった。まったく、世界で最もスローペースな歩み寄りだ。
気づかないふりを続けるのにかなりの精神力を要した。ここで「聞いてるの?」と声をかけたら負けだ。野生動物と同じで——いやいや、娘を野生動物と一緒にするのはどうかと思うが、原理は同じだ。こちらから近づくと逃げる。だから、来るのを待つ。
絵本は後半に入った。星をなくした夜空が、海に映った自分を見て「ここにあった」と気づくシーン。
「『ほら、見て。海が夜空を映しています。星は夜空にもあったし、海にもありました。本当は少し見えなくなっていただけで、ずっとそこにあったんです。お友だちのお星さまたちは、きらきらと夜空の中で光っていました——』」
絵本はクライマックスに向かい、無事ハッピーエンドで幕を閉じた。
最後の1ページには、笑顔を浮かべるお星さまと、夜空の絵が。
「おしまい」
ここで、アリシアを見る。ベッドの端で、布団を顎まで引き上げて、こちらを見ていた。目が合った瞬間、ぎゅっと目を閉じた。今さら寝たふりをしても遅い。ベッドの端まで移動した証拠は残ってるよ。
でも、そんな大人げないことは言わない。
「おやすみなさい、アリシア」
娘からの返事はなかった。閉じた目のまま微動だにしない。完璧な死んだふり——ではなく寝たふり。唇がかすかに動いた気がしたけど、声にはならなかった。
部屋を出て、扉をそっと閉める。
廊下で深呼吸を一つ。胸の奥がじんわりと熱い。これは達成感なのか、それとも……。
自室に戻って、今日のメモに一行だけ書き足した。
——読み聞かせ:拒否されるが効果あり。明日も同じ本で試してみよう。
感傷に浸るのは十年後、全部終わってからにする。
◇
翌朝、ニナが控えめに報告してくれた。
「あの、奥様。今朝アリシア様が、本棚の前でうろうろなさっていたんです」
「本棚?」
「昨夜奥様がお読みになっていた絵本を探しているようでした。『星のやつ、どこ』って」
——星のやつ。
あの本はまだ私の部屋にある。昨夜持ち帰ったのだから当然だが、アリシアはそれを知らなかったのだ。自分の本棚を探して、見つからなくて、うろうろしていた。
「ニナ。あの絵本、アリシアの部屋の本棚に入れておいてもらえる?」
「かしこまりました」
「それと——もう何冊か買い足したいの。子供向けのもの、お願いできる?」
「もちろんです。……奥様、少し嬉しそうですね」
「そう? 気のせいよ」
気のせいではない。本当のところは、かなり嬉しい。
たかが絵本一冊でも、それだけのことが、今の私にはとんでもなく大きな一歩に思える。
あの子は興味がなかったんじゃない。誰も興味になるものを差し出さなかっただけだ。
差し出せば、手を伸ばす子だ。
まだ四十センチ。でも四十センチ、近づいた。




