「園遊会」
園遊会当日の朝、アリシアは生まれて初めて着るドレスの裾を踏んで転びかけた。
淡い若草色のドレスは、ヘルダが「公爵令嬢たるもの華美に過ぎてもいけません」と口を出し、コルネが「でも可愛らしくなければ」と譲らず、最終的に二人の妥協の産物として仕上がったものだ。当のアリシアは鏡の前で硬直していた。自分がそこにいると認識するのに数秒かかったらしい。
「変じゃない?」
「すごく似合ってる」
「重い。動きにくい」
「今日だけ我慢して。終わったらすぐ脱がせてあげる」
ドレスより問題なのは中身のほうだった。アリシアの顔から表情が消えている。知らない場所、知らない大勢の大人、品定めの視線。怖くないわけがない。
馬車の中で、私はアリシアの手を握った。
「アリシア。今日は一つだけ約束して」
「……何?」
「困ったら、私かお父様の手を握っていいわ。何も言わなくていいの。そうすれば、私たちが代わりに何とかするから」
アリシアは膝の上で手を組んだまま、しばらく窓の外を見ていた。返事はなかった。でも向かいに座るギルバートが、ほんの少しだけ身を乗り出して、こう付け足した。
「俺の手のほうが大きい。握りやすいぞ」
冗談のつもりなのか本気なのか、表情からは一切読み取れなかった。ただアリシアが一瞬きょとんとして、それから小さく鼻を鳴らしたので、効果はあったらしい。この人なりの緊張のほぐし方だったのだと、降車する頃になって気づいた。
◇
王宮の庭園は、想像の三倍広かった。
手入れの行き届いた芝生がどこまでも続き、白い天幕がいくつも張られ、噴水の水音と弦楽の調べが混ざり合っている。着飾った貴族たちが談笑しながら行き交う光景は、それ自体が一枚の絵だった。クランツ邸の庭がこぢんまりして見える規模。さすが王家、金のかけ方が違う。
到着するなり視線が集まった。フォルトナー侯爵夫人のお茶会で浴びたものと同じ、でも密度が段違いの注目。「クランツ公爵一家が来た」という情報が、波紋みたいに広がっていくのが肌で分かる。
アリシアの手が、私のドレスの裾をつまんだ。握るのではなく、つまむ。あの子の精一杯のSOSだ。
気づかないふりで、そっと手を下ろしてアリシアの手を包んだ。
最初に近づいてきたのはエルザだった。ベルクハイム伯爵夫人。社交界で確保した数少ない味方が、人混みの最初の波として現れてくれたのは僥倖だった。
「レティシア様。お待ちしておりましたわ」
エルザの背後に、アリシアと同じくらいの年頃の女の子がいた。
「娘のクラリスですの。アリシアちゃんと年が近いから、ご挨拶でもと思って」
クラリス。エルザの娘。記憶を探ったが、ゲームに出てきたキャラかどうか分からない。脇役だったか、そもそも登場しなかったか。少なくとも悪役令嬢の取り巻きの中にこんな名前はなかった——気がする。気がするだけだ。
クラリスという少女は、人懐っこい顔で一歩前に出た。
「こんにちは。あなた、アリシア様? わたしクラリス。ねえ、あっちにお菓子の噴水があるの、見た?」
「……お菓子の、噴水?」
アリシアの警戒がわずかに緩んだ。お菓子という単語の威力は、この子に対して絶大だ。マルタの教育の意外な副産物として、アリシアは食への関心を隠さなくなっている。
「チョコレートが流れてるの。果物を浸して食べるのよ、一緒に行こ?」
クラリスがアリシアの手を取ろうとした。アリシアの体が一瞬強張る。私の裾から手が離れていない。行きたい、でも怖い。その葛藤が小さな顔に出ていた。
ここで私が「行ってらっしゃい」と背中を押すべきか、迷った。押せば自立を促せる。でも早すぎれば、見捨てられたと感じるかもしれない。匙加減を間違えると三月の積み重ねが揺らぐ。
答えを出す前に、ギルバートが膝を折ってアリシアと目線を合わせた。
「行ってこい。お菓子の噴水なら、俺も後で見たい。どんなものだったか教えてくれ」
報告を頼まれた、という形だった。命令でも許可でもなく、任務。アリシアは「自分が父に何かを報告する」という役割を与えられて、ほんの少しだけ姿勢を正した。
「……分かった。見てくる」
クラリスに手を引かれて、アリシアが歩き出す。数歩進んで、一度だけ振り返った。私たちがちゃんとそこにいるか確かめる目。私が頷くと、安心したように前を向いた。
二人の少女が天幕の向こうに消えていく。エルザが隣で囁いた。
「クラリスはお喋りな子ですけど、根は優しいんですの。アリシアちゃんのこと、わたくしからも目を配っておきますわ」
ありがたい。この人を味方につけておいて本当によかった。
◇
問題は、その直後にやってきた。
「クランツ公爵夫人、でいらっしゃいますね」
涼やかな、しかし有無を言わせぬ声。振り返ると、豪奢なドレスを纏った女性が侍女を従えて立っていた。年の頃は四十前後。美しいが、その美しさに温度がない。何より、周囲の貴族たちが一斉に頭を垂れたことで、この人物が何者か分かった。
王妃。
慌てて礼を取る。ギルバートも隣で頭を下げた。
「ご挨拶が遅れました。お招きいただき光栄に存じます」
「いいのよ、堅苦しいのは。——あなたのこと、近頃よく耳にするものだから、一度お話ししたくて」
王妃の目が、私を値踏みしていた。「変わったと評判の公爵夫人」を観察する目。社交界の噂は王宮まで届いている。
「先ほどのご令嬢が、お噂のお嬢様ね。ずいぶん仲がよろしいこと」
仲がよろしい。褒め言葉の体をした、品定めの言葉だった。母と娘の距離を見ている。この夫人は、たぶんすべてを測っている。アリシアの所作、私たち夫婦の様子、家族の結束。それが「王太子の婚約者の家」としてふさわしいかどうかを。
来た。これが本題だ。
「恐れ入ります。娘とは、最近ようやく心を通わせられるようになりました」
「あら。それまでは通っていなかったのかしら」
切り込んできた。何気ない問い返しの形をして、こちらの内情を抉りにくる。下手に答えれば「家庭に問題のある公爵家」という評価がつく。
考えろ。ここでの一言が、アリシアの未来の選択肢を増やすか減らすかを決める。
「お恥ずかしい話ですが、以前の私は娘に向き合えておりませんでした」
正直に出た。隠せば見抜かれる、この人には。
「ある時、このままでは取り返しがつかないと気づいたのです。それからは、娘のために何ができるかだけを考えてまいりました。——王妃陛下も、ご子息を思うお気持ちは同じかと存じます」
最後の一文は賭けだった。王妃の母性に触れる。あなたも親でしょう、と。
王妃の眉が、わずかに動いた。値踏みの色をした目の奥に、別の何かがよぎった気がした。気のせいかもしれない。でも空気が、ほんの少しだけ変わった。
「……面白い方ね、あなた」
王妃が口元だけで笑った。
「子のために何ができるか、ね。最近の母親は皆、子に何をさせられるかばかり考えるというのに」
その一言に、棘があった。今日この園遊会に娘を連れてきた他の母親たち——王太子妃の座を狙って我が子を着飾らせた家々への、王妃自身の本音が漏れた気がした。この人も、品定めする側でありながら、品定めという行為に疲れているのかもしれない。
深読みのしすぎだろうか。でも、目の前のこの人が、ただの冷たい権力者ではないという印象だけは残った。
「ご令嬢のこと、見せていただくわ。今日一日、ゆっくりとね」
王妃はそれだけ言うと、侍女を従えて去っていった。すれ違う貴族たちが波のように頭を下げる中を、悠然と。
隣でギルバートが、ようやく詰めていた息を吐いた。
「……肝が冷えた」
「私もです」
「お前、よくあんなことを王妃陛下に言えたな」
「言ってから、足が震えました」
ギルバートが私を見た。何か言いたげな顔だったが、結局口にしたのは短い一言だった。
「悪くない受け答えだった」
褒められた。この人にしては最大級の。
◇
その時だった。
天幕の向こうから、子供の声が聞こえた。クラリスの声だ。何かを呼びかけるような、慌てたような調子。
胸が嫌な感じに跳ねた。アリシア。
声のほうへ足を向ける。ギルバートも気配を察して付いてくる。人混みをかき分けて天幕を回り込むと、お菓子の噴水の前に、子供が三人いた。
クラリス。アリシア。そして——もう一人、見覚えのない男の子。
仕立ての良い服。育ちの良さそうな顔立ち。そして、その子の周りにだけ大人の従者が控えている。子供でありながら、明らかに特別扱いされている存在。
八歳くらいの、男の子。
考えるより先に、答えが出ていた。
王太子だ。
アリシアが、その子の正面に立っていた。表情は見えない。背中越しでも分かるくらい、小さな肩に力が入っている。
何があった。何が起きている。
間に合うか——足を速めかけた私の耳に、アリシアの声が届いた。震えているけれど、はっきりとした声で。
「——謝って」
謝って。
誰に、何を。状況が掴めないまま、私はその場に立ち尽くした。




