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悪役令嬢の『母』に転生したので、娘の断罪エンドを回避します。  作者: ぶらっくそーど


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2/18

「この家の温度」


 翌朝から情報収集を始めた。


 とはいえ「この家のことを一から教えてください」とは言えない。この体の持ち主——元のレティシアは、何年もこの屋敷で暮らしてきた女だ。今さら屋敷の間取りを聞けば、昨日の名前忘れ事件に続いて「奥様がおかしくなった」と医者を呼ばれかねない。


 なので、散歩のふりをして屋敷を歩き回った。


 クランツ公爵邸は想像以上に広い。本館だけで三階建て、東棟と西棟に分かれ、使用人の生活棟が別にある。庭は正面に整えられた庭園、裏手に馬場と菜園。使用人は住み込みが十数名、通いを含めれば三十名近くいるらしい。


 らしい、というのは数えたわけではなく、ニナに「最近、新しい人は入った?」とさりげなく聞いてその反応から推測した数字だ。潜入調査みたいなことをしている、ここは自分の屋敷なのに。


 歩き回って分かったことを頭の中で整理する。


 まず、この家には「家族の気配」がない。


 本館の二階、東棟が私——レティシアの居住区。西棟が夫ギルバートの居住区。同じ階にいるのに、廊下の中央を境にきっちり領域が分かれている。使用人も東棟付きと西棟付きで分かれていて、行き来がほとんどないとニナが教えてくれた。教えてくれたというか、「西棟のメイドとは顔を合わせることもあまりなくて」と世間話のつもりで言ったのを私が拾っただけだが。


 アリシアの部屋は東棟の奥。私の部屋から一番遠い位置にある。物理的にも心理的にも距離を取っていたということだろう、元のレティシアとは。


 そして夫。ギルバート・クランツ公爵。


 朝食は執務室で一人で取り、日中は執務か領地の視察、夕食も執務室か外。つまり家族と食卓を囲む機会がそもそも存在しない。ニナに聞くと「旦那様と奥様が最後にご一緒にお食事されたのは……いつでしょう、ちょっと思い出せません」と本気で首を傾げていた。


 つまりこの屋敷では、夫は仕事、妻は社交、娘は教育係に任せっきり、という完全分業が成立していたわけだ。それぞれが同じ屋根の下で別の生活を送っている。家族というより、たまたま同じ建物に住んでいるだけの他人だ。


 午前中、アリシアの授業を覗きに行った。東棟の奥にある教室——と呼ぶには小さい部屋で、アリシアが机に向かい、向かい側に年配の女性が座っている。


 ヘルダ、教育係だ。


 廊下から覗く形になったが、扉が開いていたので声は聞こえた。


「アリシア様。背筋を伸ばして。公爵家のご令嬢がそのような姿勢では、他の方に示しがつきません」

「……はい」

「よろしい。では読み上げて」

「クランツ公爵家は、建国より王家に次ぐ家格を持ち、代々——」


 まだたった五歳に過ぎない子供なのに、家の歴史を暗唱させられている。


 内容が問題なんじゃない。貴族の子女が家の成り立ちを学ぶのは普通のことだろう。問題は、ヘルダの教え方だった。「公爵家のご令嬢が」「他の方に示しがつかない」——こういう言い回しが、たぶん毎日、何十回と繰り返されている。あなたは特別、あなたは他の者とは違う、だからこう振る舞いなさい、と。


 悪意はない。ヘルダは大真面目に「正しい教育」をしているつもりだ。先代公爵の時代からこの家に仕えてきた古参で、貴族の子女はこうあるべきという信念がある。その信念に従って、忠実に仕事をしているつもりなんだろう、本人としては。


 ただ、その『正しい教育』の到達点が――十年後の断罪イベントだ。


 私はその場を離れた。今ヘルダに何か言ったところで意味がない。まだこの家の力関係も、ヘルダの立場も、ちゃんと把握できていない。焦って動けば足元をすくわれる。


 ——前世の仕事の感覚が蘇ってきた。新しい部署に異動したときと同じだ。初日は観察。口を出すのは状況を掴んでから。ただし今回の異動先は中世風異世界の公爵家で、ミスをしたら娘の首が飛ぶという点が前職とは少し違う。……少しどころじゃないか。


 昼過ぎ。

 西棟に足を踏み入れてみた。夫の居住区だ。


 廊下を歩いていると、執務室の前で使用人が出入りしているのが見えた。扉が開いた一瞬、中が見えた。書類の山に囲まれた机と、その向こうに座る男の横顔。


 ギルバート・クランツ。


 昨日は廊下ですれ違っただけで、まともに顔を見ていなかった。改めて見ると——整った顔だ。でも、感情の置き場が分からないような表情だけは違和感を覚える。仕事中だからかもしれないが、眉間にうっすら皺が寄っている。


 と、目が合った。


「何か用か」


 短い。そしてこの距離で「何か用か」という第一声が出てくる夫婦関係。この二人がどれだけ断絶しているかを端的に物語っているな。


「いえ——お邪魔しました」


 今日のところは引いておく。用もなく夫の執務室を訪ねるのは、元のレティシアの行動パターンから外れすぎている。不審がられてもいいが、不審がられた上でまだ何も準備ができていないのは困る。


 自室に戻って、ベッドに座った。


 よし……整理しよう。


 ゲームの知識で、正直覚えていることは多くない。ながらプレイの一周分、スキップした場面も多い。でも、アリシアが断罪されるに至った原因の大枠は覚えている。


 一つ。高慢な性格。「公爵令嬢だから偉い」という意識が行動の根底にあり、他者への敬意がない。——ヘルダの教育を見て確信した。これは今まさに、その刷り込みが進行中だ。


 二つ。聖女への加害。学院で出会うヒロインに対して嫌がらせを繰り返す。——これは学院に入ってからの話だから、まだ時間はある。しかしその根っこにあるのは「自分より愛される存在への嫉妬」で、つまり根本原因は一つ目と同じだ。


 三つ。王太子との破綻。婚約者でありながら関係がこじれ、断罪の引き金になる。——婚約の話自体がまだ先の話。今の段階で手を打てるかは不明。


 四つ。孤立。味方が一人もいない。使用人にも貴族社会にも、アリシアの味方はいなかった。——これも性格形成の結果だろうな。


 つまり、全部が一本の線で繋がっている。


 根っこは一つだけ。この子は誰にも愛されないまま育つ。愛されないから他者を愛せず、愛せないから孤立し、孤立するから攻撃的になり、攻撃的になるから断罪される。


 きれいな因果の連鎖。ゲームの設定としては良くできている。ただ、今その連鎖の出発点にいる子供はまだたったの五歳で、昨日の廊下で私に会釈だけして通り過ぎた、あの小さな女の子なんだ。


 ……やることは決まった。

 全部は無理でも、出発点は変えられる。


 夕方、ニナを呼んだ。


「今日の夕食から、アリシアと一緒に食べるわ。食堂の準備をお願いできる?」


 ニナの目が丸くなった。まあそうだろう。この屋敷ではたぶん前例のない申し出だ。


「奥様と、アリシア様が……一緒に?」

「変?」

「い、いえ……ただ、アリシア様は、()()()()()()()召し上がっていらっしゃいますので」


 本当に……まったくどうかしてる。


 自分の娘が自分の部屋で、一人で食事を取っている?

 そして使用人さえも、それが「いつものこと」として受け入れているのは……看過できない。


「今日から変えます。準備をお願いね」

「……かしこまりました」


 ニナが退室してから、窓の外を見た。綺麗な庭だ、手入れも行き届いている。広くて、立派で、美しい屋敷。


 ただ、温かくはない。この家には温度がない。


 それを変えるのは、たぶん、花を植え替えるよりずっと面倒な仕事だ。

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