「目覚め」
目を開けたら、そこは天蓋付きのベッドだった。
見覚えがない。というか私の部屋にそんなものはない。ワンルーム6畳にそんなもの入れたら寝返りすら打てない。
起き上がろうとして、体が重い。二日酔い……ではない。もっとこう、体そのものに馴染んでいない感覚。借りてきた服を着ているみたいな違和感が全身にある。
手を見た。白い……細い。爪が綺麗に手入れされている。
私の手ではない。
「奥様、お加減はいかがですか」
カーテンの向こうから声がかかる。若い女の声……奥様?
「あの、奥様?」
「待って……ちょっと、待って」
待ってもらっている間に周囲を見回す。天蓋、重たそうなカーテン、足元にはモフモフの絨毯、壁にかかった油彩画。どこかの城かホテルかと思ったが、どのそれとも違う。窓から入る光が妙に温かくて、空気の匂いが現代のものじゃなかった。
ベッドの脇に姿見がある。這うように移動して、鏡を覗き込んだ。
——知らない女がいる。
年齢は二十代半ば。淡い金髪に青い瞳。顔立ちは整っているが、やや冷たい印象を与えるタイプ。少なくとも昨日まで鏡に映っていた黒髪の日本人女性とは、何から何まで違う。
「奥様、入ってもよろしいですか」
「……どうぞ」
カーテンを開けて入ってきたのは、栗色の髪をした若い侍女だった。エプロンドレスのような制服を着ている。……中世ヨーロッパ風? いや、細部は違うな。
「お顔の色が悪いですね。お医者様をお呼びしましょうか」
「いえ、大丈夫。少し……ぼんやりしてて」
「まあ、珍しい。奥様がぼんやりだなんて」
侍女が笑う。親しげな態度から察するに、この「奥様」の身の回りを担当している子なのだろう。
「ねえ、一つ聞いてもいい?」
「何でしょうか?」
「私の名前」
「……え?」
侍女が目を丸くした。まずい……開口一番にこれは、不審すぎた?
「ごめんなさい、なんだか頭がぼうっとして。確認したくなっただけ」
「レティシア様ですよ。レティシア・クランツ。あの……本当にお医者様を呼んだほうが」
「大丈夫よ、平気平気。ところで、あなたの名前は?」
「ニナです。ニナですよ、奥様」
ニナの顔には心配と困惑が半々に浮かんでいる。当然だ。いきなり自分の名前を聞いてくる主人に平常心でいられるほうがおかしい。
レティシア・クランツ。
その名前に、頭の奥で何かが引っかかった。クランツ。クランツ公爵家——
「まさか……」
待って、待って。クランツ公爵家。レティシア・クランツ。金髪、青い目、二十代半ばの公爵夫人――娘が一人いて、名前は確か——
「ニナ」
「はい?」
「アリシアは……娘は今どこに?」
「アリシア様でしたら、今頃ヘルダ先生とお勉強の時間ですが……」
嘘だろう。
知っている。この名前を、私は知っている。暇つぶしに遊んだ乙女ゲーム、タイトルはもう覚えていないしストーリーも大半は忘れたけど、でも覚えていることがある。
悪役令嬢。
アリシア・クランツ。
高慢で意地悪な公爵令嬢。王太子の婚約者として聖女をいじめ抜き、最後は衆目の前で断罪されて——処刑エンド。
その、母親。
私はその母親になってる!?
「奥様? 奥様、顔が真っ青ですよ——」
「ニナ! アリシアは今、何歳!?」
「五歳、ですけれど……」
五歳……処刑されるのは十五歳。あと、十年。
「……お勉強は何時まで?」
「お昼までですが」
「そう……ありがとう、ニナ」
ニナに着替えを手伝ってもらいながら(一人で着られる構造の服ではなかった)、頭の中を必死に整理する。
落ち着け。状況を確認しろ。
一、私は死んだか何かして別の世界に来た。理由は分からないし、今は考えても仕方がない。
二、ここは乙女ゲームの世界で、私はそのゲームの悪役令嬢の母親。
三、娘のアリシアは十年後に処刑される。
四、ゲームの内容をどこまで覚えているか怪しい。
四が問題だ。真面目にやり込んだゲームならまだしも、正直なところ、ながらプレイで一周した程度の記憶しかない。キャラの名前もろくに思い出せない。覚えているのは断片的なイベントと、アリシアの末路だけ――。
それだけで、足りるのか?
鏡の中のレティシアが不安そうな顔をしている。元の持ち主はこんな表情をしなかったのだろう。ニナがちらちらとこちらを窺っている。
「ニナ、少し屋敷の中を歩いてもいい?」
「もちろんです。ご一緒しますか?」
「一人で大丈夫」
「……本当にお加減が悪いのでは? 奥様がお一人で屋敷を歩かれるなんて」
元のレティシアは、よほど自室から動かない人だったらしい。引きこもり体質があるところだけは、私と一緒だな、と心の中で自虐する。
広い廊下を歩く。石造りの壁、磨き込まれた床、窓から差し込む穏やかな光。屋敷の規模は相当なもので、使用人とすれ違うたびに深々と頭を下げられる。
二階の東棟を曲がったところで、足音が聞こえた。小さな、軽い足音。
角の向こうから現れたのは、小さな女の子だった。
金色の髪。大きな青い目。顔立ちは——鏡で見たばかりの自分に似ている。整った顔に、どこか硬い表情を貼りつけている五歳児。
アリシア。
目が合った。
何を言えばいいか分からなかった。おはよう? 元気? どちらも嘘くさい。この体の持ち主は、たぶんこの子にそんな声をかけたことがないのだろうから。
迷っている間に、アリシアは小さく会釈だけして通り過ぎていった。振り返らない。呼び止められるとも思っていない足取りだった。
母親とすれ違って、会釈一つ。
それが、この家の普通。
遠ざかっていく足音を聞きながら、廊下に立ち尽くす。
小さかった。
当たり前だ、五歳なのだから。ゲームの画面で見た十五歳のアリシアとは全然違う。高慢さも意地悪さもない、ただの子供。表情が硬いのは、そうしていないと駄目だと思っているからだろう。五歳でそれを身につけてしまっているのは、この家が——この『母親』がそうさせたということだ。
今の私が何者で、なぜここにいるのかは分からない。
前の人生にも、特別な未練があったわけでもない。
ただ、一つだけはっきりしていることがある。
あの子が処刑される。――十年後に。
それを知っていて、何もしない選択肢は——少なくとも私にはない。




