嫉妬の狂気とシャドー
「あれ、新しいバッグ買ったのか。俺の買ってやったやつはどうした。」
ベルをつけ終わったあと、アンセが机にある新しいバッグを見つけて言った。
しまった、新しいバッグをしまっておくべきだった。なんて返事しよう。
「…寝室に置いてあるよ。気分で変えてるの。」
「そっか。今日は飯一緒に食おう。」
全く気にしていないアンセの様子に罪悪感と安堵を覚えた。
「…ご飯もう食べちゃったよ。」
「じゃあ、美味い酒を出してやるから飲みに来いよ。」
いつもと違う。
これは半強制的なお誘いだ。
後ろめたさも相まってアンセの家に一緒に行くことにした。
家のドアを開けるとチリンとベルの可愛い音が鳴った。風鈴みたいだ。
ザクザクと家の庭を歩いて、アンセの家に向かう道で雄叫びと共に強い衝撃を背中に感じた。
シャドーの時とは違う感覚だった。
振り返るより先に背後から叫び声が響く。
「アタシの夫に手を出さないで!散々忠告したでしょう!まだ分からないの!二人でどこに行くの?!」
カレンだ。
アンセもカレンに気付いて素早く両腕を掴んで怒鳴りつける。
「何度言ったら分かるんだ。俺はお前の夫でも恋人でもない。自分の好きな時に好きな人と好きなことをする。みんなに迷惑をかけるな。」
「アンセ、浮気がバレてそんなことを言っているのでしょう。大丈夫よ。安心して。私はいつでも待ってるから。許してあげる。最後には私の所に戻ってくるって知ってるから。」
とても優しい声でねっとりとアンセに語りかける。背中に悪寒が走る。今すぐ立ち去りたい。
「俺は咲と一緒に居たい。」
そう言うとそっと手を私の肩に回す。
アンセ、それは…
深い意味もなく言っているかもしれないが、カレンを逆撫でしている。
訂正しようかとぼんやり考えているとアンセが私の背中の何かに気づく。
「おい、なんだよこれ!咲、大丈夫か!カレンなんてことをしたんだよ!」
突然背中を強く押されると同時にずんと振動がする。そして何かが背中をすーっと流れるのを感じた瞬間、ずきんずきんと背中が熱くなる。
痛い!背中が熱い!痛い!!
そのまましゃがみ込む。
「う、うう、あああー!」
「咲、大丈夫だ。大丈夫だからな。俺がいるからな。血が止まらない…このナイフ戻した方がいいのか?」
全く大丈夫そうには聞こえない。
ナイフ?なんの話だ?
アンセの焦った声が私をさらに不安にする。その間にも痛みと寒さが押し寄せてくる。
「アンセ、手に血が!大丈夫?止血しなくちゃ。」
突然、カレンが動き出した。
「俺の血じゃない、分かるだろ!どけ!病院だ!病院に行くぞ。」
「アンセ、行かないで、ねぇ、行かないで。お願い。私を置いていかないで。」
カレンの泣き叫ぶ声がする。
「うるさい!」
体がふわりと持ち上がったとき全身を突き刺すような痛みが走り、そのまま意識が遠のいた。
…………………………………
「ここは…?」
真っ白な天井、壁、布団、ここはどこだろう。
普段は嗅がない、薬のような匂いもする。
あ、もしかしたらここは病院か。今まで長い夢を見ていてようやく目覚めたのか。
よかった…
それにしてもリアルで不思議な夢だった。本当によかった、あれが夢で。そのまま視界は閉ざされる。
「ようやくこの時が来たと思ったのに。うまくいかないものね。」
「俺は嬉しいよ。まだ君と居られるのだから。」
どれくらい経ったのか聞き覚えのある男女の話し声がする。
「…全く何をしていたんだね。これじゃ検証も出来ないではないか。これからはもっとしっかりやるように頼むよ。」
「畏まりました。」
しばらくすると今度は別の男性の声だ。
「早く目覚めてくれよ、今度こそ守ってやるからな。」
優しい手が私を包む。
この手は、この手は誰…
「今回は仕事を放棄しているように見えるのだが、ことと次第によっては代理を立てる。」
「次の手も打ちますので。」
みんな私を無視して話をしている。これも夢なの?
ぐうぅぅぅ、腹の虫が鳴る。
「お腹すいた…誰か居ませんか…」
大きめに声に出したつもりだけど、誰も気付かない。もう一度声を上げる。
そしてゆっくりと目を開けて周りを見回す。さっきと同じ景色だ。
よかった。やっぱり地上に帰れたんだ。
喜んだのも束の間、次の瞬間目の前に現れたのはアンセだった。
「咲!目が覚めたのか!ごめん、本当にごめん。俺が混乱して余計なことをしたから大変なことになってしまって。申し訳ない。」
地上じゃない、やっぱり天界に居るんだ。
いつもなら割り切れるのに体が弱っているせいか目から涙が静かに伝う。
「ごめん、泣くほど怖くて痛かったよな。思い出させちまったよな。でもどうしても最初に謝りたかったんだ。すまない。」
アンセ、この涙は違うよと言いたかったけど嗚咽が邪魔をして言えなかった。
私の気持ちが落ち着いた頃、医者らしき人が部屋に来て私を診察し始める。
「傷口はだいぶ塞がり始めているので今のところ問題ないですが、こんなに長く昏睡状態になるのは例がないので念の為あと数日入院ですね。」
医者は私を見て何か心当たりがあるのではないかと目で訴えてくるが、私の方が理由を知りたい。
そうだ、シアやトッキーは大丈夫かな。
どれくらいここに居るのか分からないけど水をあげないと。
木々の声を聞こうと耳をすます。
……あれ?ここには誰も居ないの?
時計草は居るでしょう?
うまく体が動かないので目だけで室内を探る。少し顎を上げると窓際に時計草を見つけた。でも、今話しかけるわけにもいかない。
「どうした?時計草…時間が知りたいのか。」
「違うの、ウチの子達大丈夫かなと思って」ちゃんと答えたつもりだったが声が小さくて聞こえなかったようだ。アンセは耳を私の口元まで近づけてもう一度話してと言う。
「うちの…と…けい」
「ああ、それなら心配ない。オレが毎日水やってるから。ブリースはもらった時より少し元気なさそうだけど、まあまあ大丈夫だと思う。」
みんな元気なら良かった。
声が出ないからみんなの声も聞きにくいのかもしれない。少し眠ろう。
あーお腹すいたなぁ。
次に目が覚めると少し気分が良くなっていた。
なのに起きようとしても体が動かない。
今度はどうしたんだ?考えても全く動けない。
何だか笑えてきた。いよいよ何も出来なくなってしまった。笑うしかない。
笑い声もヒックヒックと情けなく、声にならない。
部屋に入ってきた看護師さんが私を見て一瞬表情を強張らせたあと、すっと感情を抑えて優しく声をかけてくれる。
「大丈夫ですよ。少し身体に力が入りにくくなっているだけですから。」
看護師に抱きかかえられてなんとか体を起こす。でも自分で姿勢を支えられなくて、自力で座ることすらままならない。
看護師さんが声もなく笑っている私におろおろし始めたところでアンセが来た。
私を見るなり駆け寄って来て目線が合うようにしゃがみ込む。
アンセには、自分への失望を分かってもらえるだろうか。
「なに…も…」
上手く話すことすらできなくなっていた。
アンセは私を見て、大きな手で私の手首から手先までを包み込んで話し始めた。
「オレの目を見ろ。オレはお前があんなことがあっても元気に居てくれるだけで感謝しているよ。それに歩けないのは単に筋力が落ちているだけだ。十日以上寝たきりだっただろう。みんなそうなる。リハビリすればすぐにまた普通に歩けるようになる。そしたらお店も再開出来る。今のうちから店の宣伝しといてやるから、復帰したら忙しいの覚悟しておけ。」
うん、うん、とアンセの話を聞く。私そんなにここで寝たきりだったなんて知らなかった。
それなら確かに今まで通りに動けなくても仕方ないよね。すぐ治るよね。
「そうと分かればまずは飯だ。」
「ポ…ルク…パス…タ…」
勢いよく答える。起きてから一番声が張っていたと思うし、気持ちも乗っていたのに即否定される。
「ダメだ。お前の体はここしばらくずっと固形物を食べてないんだ。今そんなもん食べたら体が受け付けない。まずは流動食からだよ。」
ええええええ!
何で、ダメなの?食べたい物食べさせてよ…
悲しい気持ちになって涙が溢れる。
アンセは泣き止むまでそばにいてくれた。
「おはようございます、今日のご気分はどうですか。」
「…心配…かけました。」
昨日よりも話せるようになっていた。
「大丈夫ですよ。きっと疲れていたんですよ。そういえば彼氏さん、優しいですね。病院では専らの評判ですよ。」
「アンセは…ただの…お隣さん」
「まあ、まあ、まあ!そうだったの。想いが通じると良いわねえ。」
ふふふと何だか嬉しそうに作業を続ける。
たわいもない話をしながら体調チェックをしているとアンセが入って来た。看護師さんは「あとはお任せしますね」と足取り軽く出ていった。
「そろそろ飯だと思うけどもう食べたのか。」
「まだ…そろそろ…かな」
話をしているとちょうどご飯が運ばれて来た。なんと朝ではなく昼ごはんだった。思うより色々時間が経っている。
…これはご飯?
赤ちゃんが食べるような、黒緑のぐちゃぐちゃした何かが目の前にあった。
恐る恐るスプーンで掬って食べようとすると手がプルプルして溢れてうまく運べない。
見かねたアンセが「オレが食べさせてやる」と言い出した。リハビリだからと言っても、飯をしっかり食べるのもリハビリだと言って引かないので仕方なく受け入れた。
食べさせてもらっているとさっきの看護師さんがドアを開けた。こっちを見て「早すぎたみたいだからまた後でくるわね」と嬉しそうに出て行った。
誤解を解かないと、面倒なことになりそうだ。
第二のカレンが現れたら今度こそ危ない。
今の私は動くことすらできないのだ。
地上に帰れたと思ったのに、まだ天界だった…
もう帰れないと分かっていても期待して勝手に裏切られてへこむ咲。
そんな咲に寄り添うアンセ。
アンセは無自覚なだけで結構モテるのでした。




