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昨日の雨が嘘であったと、証拠を拭い去るように翌日はよく晴れた。朝から照らし続けた日が石畳にしみこんだ雨水を一粒残らず乾かす。それに止まらず、石畳を暖め、家々の外壁を焼き始める。とはいっても、屋内にいれば涼やかなものだ。
そういえば、と執務室の机に向かうヴィスは思った。今日は夏の始まりを告げる日である。こんな日が続くうちに、気温が上がり夏らしくなるのだ。外を駆け回った少年時代をヴィスは脳裏の片隅に思い出した。肩を並べて走った友人のことも。
次いで、彼は昨夜の会食のことを連想した。
道先案内警護組合の代表にこう訊ねたのである。
『ときに、組合は伝説にあるカーティリーンを見つけたと聞いたのだが』
禿頭の老人は、食事の手を止めて若き皇帝を見つめ返した。
こうして招かれているからこそ、直接の会話が許されるが、両者の間には天と地ほどの身分の違いがある。さりとて老人に必要以上の畏れはなかった。ヴィスには肝の据わったひとかどの人物である様に見受けられた。
さて、道先案内警護組合は、常々こうして代表が会食に招かれるような組織ではない。
組合に招待を知らせる使者が訪れたとき、組合の主要な者たちはその意図を勘繰り、危険を感じた。フィンデル王家最後の生き残り、アリエル・アルアネム・ロシュ・フィンデル王女を桃源郷カーティリーンに落ち延びさせる手助けをしたのが自分たちであるからだ。代表を招待するその実、厳しい取調べがあるのではと危惧するもの、逃げたほうがよいと老代表に進言するものもいた。
ヴィスタークはそうした誤解が生じるだろうことを想像していたが、それを解くことはしなかった。
「若頭の一人が指揮する一派が、カーティリーンの調査に熱心だったようです」
貴風あふれる皿にナイフとフォークを置き、老人は口にある料理を嚥下すると言葉を続けた。
「その彼らが、フィンデル王女アリエル殿下とともにごっそりと旅立ちましてな」
予想の範囲内の回答にヴィスタークは頷く。
「その件について、諸君らの組織を罪に問うつもりはない。ただ、我が友人がカーティリーンを目指して旅立ったので、興味があるのだ」
老人は、組織としては願っても無い皇帝のその言葉を油断無く受け止めて目線を返した。
友人、それが皇帝の剣を意味することは、その場にいる警衛長官、貴族会議議長フォレル伯、耳ざとい商会連合の長には明白であった。いったいこの皇帝は、『剣』になにを命じたのか。想像の付かない裏を鑑みて一同が息を呑むと、場が奇妙な緊張状態に陥った。
「恐れ入ります」
強張った空気に深くしゃがれた声が響いても、やすやすとほぐれるものではないが、続けて老人が淡々と落ち着いた様子で語りだすと緊張は紛れていった。
荒野と砂漠の気候、道先案内警護組合の携わる仕事を老人は紹介した。
「そしてカーティリーンですな。アルドンの子らは妖精に導かれ、夢のような豊かな土地で過ごした後、再び家々に帰っていったと、そういう物語です。儂らの世代が現役の頃には、誰も信じておりませんでした。今の若者も、ほとんどは信じておりませんでしょう」
老人は手を広げて、話が仕舞いであると示した。夢は夢のままであると言うかのように。
「では、カーティリーンを信じる者が旅立ったということか」
「砂漠を越えてもロンデスの山々に阻まれるだけ。フィンデル王も無思慮をなさる。王女については陛下のお慈悲にすがれば生きる道もあったでございましょう」
老人は、ただただ寡黙な口から重い言葉をとつとつとこぼした。
「フィンデルの開拓移民は、生きてはいないと?」
「おそらく」
老人は瞑目して深く頷いた。
老人は果たして、いま己が口にした予想を心底信じているのか、彼がどういう結果を望んでいるのか、ヴィスタークには判断が付かなかったが、開拓移民がどうなっているかを確かめる術は今のところない。
「よろしいですかな?」
商会連合の長が口を開いた。ヴィスタークとしても活発な情報交換は望むところであるし、強張った空気をもっと柔軟にするためにも、列席者にとって新たな発言は望むところだった。
「御老人、砂漠と荒野を越えると、時に街道を行くより近道になる場合があると耳にしたのだが」
「そのとおり」
商会連合の長のほうへ首をめぐらせて老人は短く答えた。
「ですが、慣れておらねばより時間が掛かることも、命を落とすこともございましょう」
「あなた方は商人を案内して砂漠を越えることがあるのか」
「他の道案内の依頼を受けたことはもちろんあるでしょうが、砂漠の依頼は聞いたことがございませんな」
「では、私が報告に聞く者たちは、よほど砂漠と荒野に慣れた者ということになる」
商会連合の長は、いよいよ他の人間が話題の要領を得ないという顔をしてきたので、一同に顔を向けた。特に今宵は皇帝陛下の御前でもある。自己満足な情報収集ばかりしてはいられない。
「実は、先ごろから、砂漠を越えて商いをする隊商がいるという報告を受けておりまして」
「先ほどの話では、砂漠を越えると近道になるとのことだが、その分、街道の町のいくつかを通らないことになる。商売の機会を失うのではないかね?」
フォレル伯が帝国内の流通の一般的な状態を、この場にいる者の共通観念として示した。
ある品物を産地で買い付けた商人が、売りたい町を一つだけに定めて運ぶとする。産地から直接運ぶのだから、安く売っても大きな利益を得られる、という単純な話ではない。移動には馬車を使って何日も掛ける。その間の費用を考えると、目的の街に着いたときに、費用を上乗せして値段は高くついてしまう。だから、長距離を行き来する商人の場合は、道程で様々な品物を扱い利益を上げる必要がある。ついでに違う物を運んで、目的地への途中で、違う物を仕入れては売り捌き、ついでに商売する。ついでがあるから経費は分散できる。逆に言えば、そうしなければ商売は成り立たないのだ。でなければ、ただ意味もなく経費ばかり上乗せされた高値の品物を作ってしまうだけである。
遠方へ渡り歩かないのであれば、品物は商人の手から手へ中継される。必然的に値は上がる。だから、地産のものは安いし、地産の物で要が足りるのなら、例えばありふれた農作物や食品は、遠方に商人が運ぶ意味もなく、近場で消費されて終わる。
人の手と足、それにせいぜい家畜が加わった程度の運搬能力で行なわれる流通とはそうしたものだ。
「伯爵閣下の見識はさすがでございますな。我ら平民の営みをよく把握されていらっしゃる。御領地が安泰という噂にも合点がいきました」
過分な世辞を制するようにフォレル伯は手で払う素振りをする。
「つまり特殊な物、高値で買い取る明確な相手が定まっている品物を運ぶなら別、ということか?」
商会連合の長は、発言者である若き皇帝に目を見張った。
「なんだ、余にも世辞は要らないぞ?」
爛々と瞳を輝かせた長を、ヴィスタークもフォレル伯と同じように制した。
だが、世辞ではない。この皇帝は提示した状況から、意図する答えをあっさりと導き出してくれたのだ。商売の仲間としては、好ましい相手と言えるではないか。
「その、特殊な物がいったいなんなのか。私どもは非常に興味を持っておるのです」
胸に手を当てて、その熱意を長は語ったのだった。