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婚約者は、私の妹に恋をする  作者: はなぶさ
マリアンヌの真実

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16

父と話をした翌日の深夜、我が家には約束通り、アルフレッドとフランツが現れた。

二人とも、相変わらず酷い顔色をしている。いや、むしろもっと悪くなっているかもしれない。


「この二日間で、イリア様が投獄されている可能性のある牢を二つまで絞りました」

応接台に広げた地図を指差してフランツが言う。

秘密裏になされている会合なので、明かりは最小限だった。オレンジ色の淡い光が室内を仄暗く照らし、目元には影を落とす。

エイヴァンは今日から三日間、どうしても抜けられない用事があるとかで不在だ。こんな大事なときになぜ、と口走った私に「僕も不本意だ」と答える夫。

けれど、「イリア夫人のために用意した金子と引き換えに、仕事を与えられてしまってね」と言われれば黙るしかない。一足先に、屋敷へ納められた金貨は、伯爵家に生まれた私ですら目にしたことのないほどの枚数で。エイヴァンが何を引き換えにして、この額を得たのか想像するのも恐ろしいほどだった。彼はそれほどに手を尽くしてくれたのだ。


私一人だけがここに居たところで、どれだけ頼りになるか分からない。それでも、彼らが欲しがっている情報は何とか入手できた。

実家から早馬が飛んできたのは実に、二時間前のこと。期日に間に合うかどうかの瀬戸際であったが何とか最悪な状況は防げた。そこはさすがに父の手腕であるといっていいだろう。


「私の父によれば、この二か所どちらかではないかという話です」


その二か所は国の端と端に位置していた。その内の一か所がアルフレッドとフランツによってもたらされた情報と一致している。ならば、()()ではないか。―――――と言いたいところだが。


「この牢に居ると仮定して助けに行った場合。問題なのは、そこに居なかったときです。もしも、マリアンヌ様の父君が突き止めてくださった、もう一か所にイリア様が居た場合。我々は彼女を救い出すことができない」それほどに二つの牢は、地理的に遠く離れていた。

すなわちイリアの不在を知り、ただちにもう一つの牢へ移動したところで救い出すことはできない。公的に動き回ることのできる自警団を出し抜けるとは考えられなかった。


「我々が調べたもう一か所の牢については捨て置きましょう」


苦い顔で言うフランツに頷く。()()()()()()という根拠はない。だけれども。今は()()()()()()()()という可能性に縋るしかなかった。


「この場所に賭けるしかありませんわ」


私が言えば、二人の騎士は息を合わせたように顔を上げる。突き刺さるかのような視線に、どうしたのかと問えば


「声、が、天から降ってきたのかと……」と、アルフレッドが答える。

意味が分からない。

思わず、黙って近くに控えていた家令を見やる。常日頃より、その聡明さと見識により我が家の使用人をまとめ上げ、内向きの仕事を仕切っている人だ。彼にならアルフレッドが言わんとしていることが何か分かるかもしれないと思ったのだが。困惑したかのような薄い笑みを浮かべるだけだった。

ところが、私の視線を追って家令に顔を向けたフランツは大きく頷く。こちらに向き直ったときにはなぜか得心したとばかりに満足気な顔をしていた。彼らにしか通じないものがあるらしい。

無言のまま意志の疎通を図っている。


「我々はどこまでいっても騎士なのだと実感したまでです。良くも悪くも主君に使えるのが性分らしい。今、ここにマリアンヌ様が居てくださって良かった」


アルフレッドが言うやいなや、二人の騎士は立ち上がり、明日決行しますと宣言した。

ど、と心臓が一つ重い音をたてる。緊張感に指が震えた。


「私も参ります」


考えるまでもなく、するりと零れ落ちた言葉に自身でも驚きを隠せない。

「なりません」と、はっきりと通る声で割り込んだのは家令だった。そう言われるのは予見できていた。

「何と言われてもついていきます」とアルフレッドとフランツの顔を見据える。

明らかに狼狽した様子の騎士たちが「マリアンヌ様に何かあっても我々には助けられません」と暗に、足手まといであることを示唆してくる。指摘されるまでもなく、よく分かっていた。


「もしも私が、貴方たちの足を引っ張るような事態が発生したならば、置いていってくださって構いませんわ」本気であることを示すために、自身も立ち上がる。

「……マリアンヌ様!」悲鳴のような声を発して家令が、私を隠すように腕を出したので柔く制した。

彼が今夜ここに居るのは、エイヴァンの代理だからである。私が間違いを犯さないように見張っているのだろう。この場合の「間違い」とはまさに、今この瞬間の己の発言である。


けれど、どうしても引けなかった。


このために父と決別する覚悟をしたのだ。どれくらいの沈黙だったか分からないが、ややあって「分かりました」と頷いてくれたのはフランツだった。一方、アルフレッドはただ大きく息を吐き、私の顔を見つめ返すに留まっている。鋭い眼差しが私の決意を見定めようとしているようだった。

張りつめた空気が全身をがんじがらめにする。

指先一つ、動かせない。

「マリアンヌ様には感謝しております」

エイヴァン様にも、と付け加え「明日、夜の十一時にここで落ち合いましょう」と地図を指したアルフレッドが、家令に向き直り頭を下げた。俺にはマリアンヌ様を止めることはできません、と。

ああ、と失意の声を上げた家令。旦那様に何といえば、と言っているが。

不在のエイヴァンがこの事態を知るのは三日後である。全てを終えた後だ。


―――――そして。




当日、約束の場所に行くと「マリアンヌ様お一人ですか?!」と、誰か知らぬ騎士に声を掛けられる。

そこにはアルフレッドとフランツの他に二人の男性がいて、初めて見る顔に戸惑っていると、フランツより彼らは信頼のおける同僚だと説明された。

アルフレッドを牢から出したのはフランツだが、この二人も加勢したらしい。

「従僕がついてくると言ったのだけれど、人数が増えては目立つと思ったの。それに、私を護るための誰かを連れて来るのは違うと思ったから、」そこまで話すと、アルフレッドが急くように頷き「馬に乗ってきましたね?」と問うてくる。もたもたしている暇はない。


事前に、四人の騎士で入念に打ち合わせしているのだろう。あまり説明はなかった。それぞれ馬に乗って移動し、牢の近くで下りる。そこからはアルフレッドの指示に従って動く手はずのようだ。

ともかく私は、彼らについていけばいいらしい。といっても、精鋭である彼らについていくのはかなり骨が折れる。ドレスでは俊敏には動けないだろうと、従僕のような格好をしているものの。それでも、足は遅いし動きは鈍い。


「マリアンヌ様、いいですか。今後何があっても声を上げないでください。叫び声なんてもっての他です。女性の声は甲高いから辺りに響くんです。肝に銘じておいてくださいね」と、四人の中では比較的小柄な男、ヨハン(恐らく偽名だろう)に言われて頷く。


「マリアンヌ様がついて来ていなくても戻ったりしません。容赦なく置いていきますからね」

言われなくても理解しているので、それにも「当然ですわ」と深く頷いた。満足気な顔をしたその人を見届けてから馬に乗る。ここから牢獄まではあまり遠くない。


いよいよだ。

やっと、彼女を助け出せる。


これからとんでもないことを成し遂げるのだという決心に身震いしながらも手綱をしっかりと握りしめた。

乗馬が得意で良かったと、何でもそつなくこなしてきた己を自画自賛して。前傾姿勢で夜を駆ける四人の背中を追う。何度となく不安が過り、胃の底が競り上がるような不吉な予感に支配されそうになりながらも、大丈夫、大丈夫と繰り返し自分自身に言い聞かせた。


今宵は運良く、月が出ていない。

曇っているのか星もなく、街灯も少なかったのでうまく私たちの姿を影に隠してくれた。


「こちらです」


馬を隠す場所も決めていたのだろう。牢の近くで再び顔を合わせれば、ヨハンが腕を引いてくれる。

そうか。

ヨハンは恐らく私の世話係なのだ。だとすれば、これは良くない兆候なのでは。と、一機に血の気が引くような思いがした。

つまり、私の存在は彼らにとっての「不測の事態」なのだ。まさかついてくるとは思わなかったのだろう。

淡く脈打っていた心臓が速度を増していく。

ちら、と振り向いたヨハンが「大丈夫です」と、何を根拠にしているのか仄かに微笑を浮かべた。


そうだ、きっと。

きっと、大丈夫。


何度目か分からない大丈夫、をもう一度繰り返す。呪文のように。言い聞かせるみたいに。

暗がりの中で、先頭を歩くアルフレッドの姿が見えない。フランツとその後ろの騎士の背中がかろうじて見えるくらいだ。ヨハンがいなければ恐らく、見失っていた。彼らが案じていたのはこういうことなのだ。

切れる息を整えることもできずに、ただひたすらに足を動かしてついていく。

置いていかれるわけにはいかないのだから。


やがてイリアがいるだろうと思われる牢獄に辿りつき、中に入る。根回しは済ませていたのか、見張りはいない。あまり時間はなかっただろうに、その辺は騎士同士の連携でどうにかしたようだ。

彼らはともかく結束が固いと聞くから。

「嫌な臭いですね」

ヨハンが呟く。じめじめとした空気に重量があるように感じる。つま先が思うように上がらないのは疲労感もあるけれど、それ以上に、前へ進むことが躊躇われるほどに環境が劣悪だったからだ。

「この臭い……、何ですの?」思わず訊いてしまう。

「……腐乱臭?」口元を抑えながら、斜め前を歩く騎士が答えた。「腐乱臭」というものを嗅いだことがないので、いまいち臭いの元となるモノを想像することができない。


「―――――覚悟、してくださいね」


ヨハンの声色が、明確に変わった気がした。

そのとき、真横でガンガンと金属を叩く音がして足を捻ってしまう。倒れそうになったところをフランツが支えてくれた。いつの間にか距離を縮めていたらしい。音を鳴らしたのは投獄されている囚人のようで、何やら訳の分からないことを喚きながら、鉄格子を両手で掴んで揺らしている。今にもこちら側に飛び出してきそうだ。

フランツが包み込むように庇ってくれて「堪えてください」と言う。

足元を見ればすっかり泥塗れで、生まれてから一度も経験したことのない穢れに怯んでしまった。


こんなところにイリアがいるというの?


頭上からぽつり、ぽつりと水滴が落ちて来るので見上げれば、土がむき出しの天井であることに気づく。地下牢というよりも、洞穴に檻を設置したような粗悪な作りに言葉も出ない。苔の生えた壁と、気持ち程度に石を並べた地面。こんな場所では満足に食事も与えられていないはず。飲み水はあるのだろうか。軽食でも持ってくれば良かった、そんなことが頭を過る。


「こっちです」と、フランツに声をかけられて迷路のような細い道を進んだ。イリアが居ると思われる監房が、監獄の奥の奥にあるらしいことに違和感を覚えつつ、指示に従って歩みを進める。

アルフレッドの持つ手持ちのランプは、監獄の入口にあったものを借用しているのだが、少しずつ勢いを弱めているようだった。夕暮れのような色をしていた明かりが、夕闇に追われ、夜に呑まれていく。徐々に光を奪われていく様子に身震いした。

言葉にはならなかったけれど「怖い」と漏らしてしまうほど。ここは寂しく、汚れていて、暗かった。


そうして。

ほどなくたどり着いたその場所で。


―――――私たちは、地獄を見た。


「何で」と呟いたのは誰だっただろう。あるいは、思っただけで口には出ていなかったのかもしれない。

鍵を開けて中に入るまでもなく、鉄格子の向こうに彼女の姿は見えていた。こちらに顔を向けて、濡れた地面に転がっていたのだ。先に牢の前まで来ていたアルフレッドは微動だにせず、ただその人を眺めている。その手から照明が滑り落ちそうになったのを、寸でのところで隣に居た騎士が受け止めた。

フランツが私の横から離れて、アルフレッドのポケットから鍵を取り出し、中に入る。ヨハンが、アルフレッドの背中を押した。


夢を、見ているのかもしれない。


咄嗟にそう思って、両耳を塞ぐ。訪れた静寂の中で、早く目覚めるように祈った。

「……マリアンヌ様」

いつまでたっても動けずにいた私に歩み寄り、両耳を開放したのは言わずもがなヨハンである。

「迎えに来たのでしょう? ちゃんと、彼女に、声をかけてあげないと」

潜めた声が、それでも叱咤するような力強さで私を導いた。一歩、二歩。感覚を失った足が勝手に、彼女の下へと進んでいく。自分の体なのに、自分のものと思えない。心と身体が分離してしまったようだ。

魂だけが監房の外に居て、私たちを見ている。


「―――――お嬢様、」


アルフレッドが膝をつき、彼女の艶を失った髪を撫でた。

「遅くなってすみません、随分お待たせしてしまって」と、いつもと変わらぬ口調で話す。当たり前に返事が返ってくるのを期待して。けれど、白く淀んだ眼差しは何も映さず、アルフレッドに視線を返すこともない。こけた頬は、骨になったほうが太って見えるのではないかと思うほどに痩せていた。


「帰りましょう。早く。湯あみをして体を温めてください。もうノルティス侯爵家には帰らなくていいですから。住む場所も用意してあります。お嬢様の好きなお茶も実家から分けてもらいました」


「お嬢様」


怒ってるんですか? 迎えに来るのが、遅かったから。


かつてイリアの護衛を務めていた騎士が、その傷だらけの指で、踏み荒らした新雪のように奇妙な色した頬を浚う。そのとき初めて、自分たちの足元を濡らしているのが、彼女の血であることに気づいた。入口の付近に、―――――腕が。


イリアの腕が、落ちている。


「アルフレッド、もう行こう。見つかってしまう」


しゃがみこんだままのアルフレッドにフランツが声をかけた。それでも動かず、イリアの顔を見つめたまま。

「アルフレッド」もう一度名前を呼ぶと、その人は不意にイリアの体を抱きかかえようとした。

「アル、その人は連れていけない」

フランツが彼の腕を掴もうとしたが失敗する。

「……アル!」事の次第を見守っていた四人目の騎士が強い口調でもう一度名を呼ぶのに、気づいていないのか、再びイリアの上半身を抱え上げようとするアルフレッド。


「こんなところに……っ、こんな場所に、置き去りにはできない。連れて帰らなければ」

「止めるんだ、アル」

「一人にはできない。やっと迎えに来れたのに」

「止めろ、アル」

「お嬢様、さぁ参りましょう。言い訳があるんです。聞いてくださいますか? それともまだ怒って、」

「アル!」


―――――イリア様は、死んだ!!!


「彼女はもう死んでる!!」


慟哭に似た叫びが、狭い監房に響く。事実を突きつけられて叫びたくなったのは私だ。でも、そうはならなかった。ヨハンが私の口を塞いだから。


「死体を持って出るわけにはいかない。アル」

「……、」

「連れて出る意味がない、アルフレッド。死んでるんだ。それに、遺体がなくなればそれこそ騒ぎになる」

「……、」

「アル」


フランツともう一人の騎士に両脇を抱えられて立ち上がったアルフレッドが、強く目を閉じて、ひくりと一つだけ嗚咽を漏らした。慟哭を呑み込み、絶叫を抑える。奥歯を強く噛み締めているのが分かった。

そして「待ってくれ」と再び座り込んで、近くに落ちていた彼女の銀色の髪を拾い上げる。

傷だらけの体と、束になって落ちた髪。執拗に、何度も斬りつけられた後だった。


申し訳、ありません。


膝をついたアルフレッドが、額を地面にこすりつけるようにして謝罪する。両手も、膝も、額も、イリアの血に濡れて。まるで、ほんの少しでも彼女の一部を連れて帰れるならと、あえてそうしているようにも見えた。しばらくの間そうしていたアルフレッドが立ち上がり、先に出て行く。

血に塗れた四肢が視界の端に映った。

「マリアンヌ様、」

ヨハンに腕を引かれたけれど、どうしても動けなくて。息が、できない。吐き出すことのできなかった悲鳴が、喉を塞いでいる。


何で。


どうして。

間に合わなかった。


間に合わなかったのだ。


死んだ。イリアは、死んだ。

―――――死んでしまった。


助けられなかった。


私、彼女を、助けられなかった。
























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