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婚約者は、私の妹に恋をする  作者: はなぶさ
マリアンヌの真実
66/66

5

「どうして私はこんなにも……」


つい独りごちて、そっと口を噤む。どこから何をやり直せばいいのだろう。

何をして、何を言えば、彼女との関係が修復できるのか。考えても考えても分からない。

一つの選択だけでなく、全ての選択が間違っていたのだとしたら?

どの選択を変えれば、その後の人生を良い方向に導くことができるのか。


「考えても仕方ないことですわ」


対面に座るルビーが緩く首を振り、落とすように笑みを刷く。

あのことがあってから数日。どうしてもルビーと話がしたかったので時間を作ってもらい、音楽室で待ち合わせることにした。学院へ使用許可がいるので、名目はあくまでもピアノの練習として。ここで彼女と会うことは誰にも話していない。

いつもと違う場所を指定したのは防音だからである。だが、ただ話をしただけでもなかった。

「……それにしても、こんなに素晴らしい演奏をされるというのに。ピアノがあまりお好きではないとは」

音楽鑑賞会で披露した曲をどうしてももう一度聴きたいと言われたので、承諾したのだ。話を聞いてもらう代わりと言っては何だが、それで満足してもらえるのなら安いものだった。

そして、数分の演奏を披露した後、ルビーがくれたのは惜しみない称賛である。

興奮を隠さない様子と紅潮した頬が愛らしく、自然と笑みが零れた。同時に、揶揄われているような心地になってしまうのは、完成度が高いとは言い難い演奏を褒められることに違和感を覚えたから。

次第に落ち込んでいく私に気づいているのか、友人は一層の賛辞を並べたてた。さらに拍手が続き、いつかのときを思い出す。

ピアノの前で心許なく、それでも笑みを浮かべた小さなイリア。指が震えていることに気づいた人は、何人いただろう。


「ご自分の有り余るほどの能力に無頓着なところもマリアンヌ様の魅力ですわ」


さんざん褒められたというのに。そのまま受け取ることができないのは、この世界で生きていれば仕方のないことだった。

社交界では、相対する者を慇懃無礼なほどに褒ちぎりながら、実はけなしているということが結構ある。皮肉というやつだ。そして、皮肉には皮肉で返さなければ野暮だと言われる。そういったまわりくどいやり取りの中でも、悋気に触れるほどの暴言はご法度であり、礼儀を欠く行いも許されていない。何事も「程度」が大事であり、その根底には、貴族社会の習わしやしきたりを知っているという共通認識がある。

相手の思惑を見抜けるかどうかは、極めて重要な能力だ。


「どうしてルビーはそのように私のことを評価してくれるのかしら」


ふと呟けば、彼女は少し考えこむように視線を外し、やがて意を決したようにこちらへ向き直る。ピアノを背にしてピアノ椅子(スツール)に座っている私を、見据えた。

「本当は黙っていようと思っていたのですが」

「マリアンヌ様は覚えていらっしゃらないと思うのですが、実は幼少の(みぎり)、私とマリアンヌ様はお会いしているのです」

「……え、本当?」

即座に記憶の奥底をさらうけれど、それらしい場面は出てこない。記憶力がいいと自負しているのに、一方で興味のないことはきれいさっぱり忘れてしまうたちでもある。思い切りがいいとか、過去のことを引きずらない傾向にあるのは己の性質もあってのことだった。


いつだって忘れられないのはイリアのことだけ。


やはり覚えていらっしゃらないですよね、と右の指を口元に添えるルビーは恥じらっているようにも見える。改めて、そのときのことを聞けば。

ずっとずっと昔のことだと目を伏せた。ある子爵夫人が開いた大規模な茶会。私たちは互いの母親に連れられて参加していて、偶然出会ったのだと。

母と一緒に呼ばれたはずの茶会を覚えていないのも不思議なことだ。何とか思い出そうとするのに、記憶の片鱗さえ浮かばない。「マリアンヌ様にとっては特別なことではなかったのでしょう。貴女様のお(いえ)にとっては随分格下の集まりでしたし」


「幾人かのご令嬢とご令息がおりましたけれど、いずれも私と同格かそれ以下の家格で、私にとっては特に家格においての優劣はございませんでした。ちなみにイリア様はいらっしゃらなかったと記憶しております」

そこに現れたのが、家格としてはかなり上の地位におられるマリアンヌ様とその母君です。

「大人も子供も、……使用人たちも皆、気もそぞろで。何か粗相があっては大変だと気を張りつめておりました」ただその場に招待されただけの私も例外ではなかったと、当時を思い出しているのかどこか遠くを見ている。

「そんな中、あるご令嬢が言ったのです」


どなたかのお下がりをお召になっているのですか?


「純粋なほどに澄んだ眼差しが、私を見ていました」と、眉を下げた。つられるように視線を追えば、つやつやとした光沢を放つ流行りの靴が目に入る。また、新調したのだろうか。


「私はあのとき、恥ずかしくてたまりませんでした」

話しかけてきた少女に悪意があったのかも分からない。何せ幼かったから。その日初めて顔を合わせた人間の真意を測ることなど、できようもなかった。相手はただ、疑問に思ったことを口にしただけかもしれないし。けれど、暗に流行遅れだと言われている気もした。

返答に困って母親の姿を捜すも、どうやら婦人同士の交流に忙しいようだ。だからといって、彼女たちの会話に割って入ることはできない。母親の立場的にも、失態を起こしてはならないのだと知っている。

娘の視線に気づいたその人は、離れた場所でただ困ったように笑うだけ。

―――――その姿を見て思う。

母のドレスも二年前のものだ。自分にはよく分からなかったけれど恐らく、洗練されてはいないらしい。

そういえば屋敷に到着したとき、迎えてくれた主夫妻が顔を見合わせて歪んだ笑みを浮かべたような気がした。すぐさまこちらに向き直って丁寧な挨拶をしてくれたので、勘違いだと思っていたのに。

あえて母の顔を確認しなかったのは、華やかな会場に気を取られたからだ。お金も時間もかけて入念に準備されていて気後れする。

ただ、女主人が『素敵なドレス』と言ったのが耳に残って離れなかった。もしかしたら嫌味だったのかもしれない。


だとしたら、悲しい。


『お下がり』と言われたドレスはそもそも、この茶会のために母親が用意してくれたものだ。我が家には新しいものを誂える経済的な余裕がなかったので、注文(オーダー)してサイズを合わせたものではない。なのに、どこから仕入れたのか、贈り物と称して手渡してくれた。

今考えれば、箱に入っていたのは、新品と見えるようにわざわざ贈答用に詰め直したからだろう。

お下がりに見えるのであれば古着なのかもしれない。

それでも『お似合いですよ』と言ってくれた乳母は、嬉しそうだった。『こんなに大きくなられて』と涙まで滲ませて。髪を結ってくれたその人の手がそのまま、スカートのフリルを整える。老いた手で時間をかけて仕上げてくれた。

だから楽しみにしていたのだ。

他の誰よりもかわいくなれたと優越感すら抱いて。

なのに、全然違う。


『私たち、ルビー様と並んでいるとみすぼらしく見えてしまうかも』


返事もできずに立ち竦んでいるのをどう思ったのか、誰かががそう言った。そうしたら、波が引くように周囲から人が消えた。

こんなはずじゃなかった。

馬車から降りたときは、誰かと親しくなれるかもしれないと胸を弾ませていたのに。

『―――――、』

滲む視界に強く目を閉じる。

泣いたらだめだ。誰かに見られたらなんて言われるか。騒ぎを起こして、主催者の顔に泥を塗るわけにはいかない。そういった悪評は、母の体裁に(かか)わる。

そのとき、


『可愛いお花ですわね』


暗闇にぱっと光が差すような明るい声が響いた。思わず顔を上げると、そこには地上の者とは思えないほどに美しく、光を纏っているかのような少女が居る。我慢していた涙が、ころりと頬を滑った。

無意識にも息を呑む。


『それ、可愛いですわ』しっかりとこちらへ向けられた顔に戸惑い、魅入っているいると『髪飾り。とっても素敵』と続ける。

よく見れば、彼女自身が発光しているわけではなく。櫛の通ったさらさらの金髪が輝いて見えただけのようだった。

突然現れた、天上の人。

マリアンヌだ。面食らって言葉を失っていると、そんな私には気づかないのか、

『本物のお花ですのね』と合点がいったのか一人で頷いている。

髪飾りすら用意できず、庭に咲いていた花を寄せ集めて挿しただけ。一瞬、冷やかされているのかと思ったけれど。にこにこと綻ばせて笑うから、嘘ではないと理解する。

名乗るのも忘れて『さようで、ございます……』と答えるだけで精一杯だった。

胸が、今までにないほど激しい音をたてている。髪飾りに気づいてくれて嬉しい、というのとは少し違う。

名のある絵師がその技術を持ってしても描き切るのが難しいと言わしめるほどの美貌が目の前にあって。

その完璧すぎる容姿がいっそ作り物のような印象を与えるから、どうしても萎縮してしまう。

彼女の母親も同じ印象で、親子揃って歩けば誰もが目を奪われ、ぽかんと口を開ける。そんな子に正面切って褒められれば反応に困るというものだ。


『そのドレスも』次の言葉に緊張が走った刹那『刺繍が素敵』と微笑を深くするから体温が上がる。

少しでも華やかに、と母が刺してくれたのだ。礼を述べつつ、それとなく周囲を見渡せば、先ほど離れていった子供たちがこちらを見ている。

マリアンヌが気になっているようだ。

彼女とお近づきになりたいが、立場上、彼女から声をかけられない限り迂闊に近づくこともできない。それほどに家格が離れている。経験が浅く、どう出ればいいか分からないのだ。

そんな彼らには興味すら示さず『クッキーでも食べませんか?』と誘われて天にも昇る気持ちになった。もちろん断るという選択肢もない。だから、彼女の後をついて歩いた。

―――――といっても、その後はただ近くにいただけで仲良くなれたわけではない。

何せマリアンヌは伯爵家第一位の家柄。

子供たちはともかく、マリアンヌの母君と話せなかった大人たちが、ならば子供(マリアンヌ)を手なずけようと近づいてくる。入れ替わり立ち代わり、あらゆる人が彼女に声をかけた。


「結局、マリンアンヌ様の傍にいれて幸せだったのは、最初だけですわ」と、ルビーは当時を思い出しているのかくすくすと笑う。

だって、誰も私のことは気にも留めない。見ているようなのに、見えていない振りをする。

「なのに、あるときだけは私の姿も目に入るようですの」 


『マリアンヌ様は本当に愛らしい。笑顔も素敵で何よりお優しい。ドレスもお似合い。品がある』

『それに比べて、隣の子は―――――、』


「要するに、マリアンヌ様という尊き幼子の比較対象としてなら、存在価値があるようでした。とても苦しかった。じわじわと首を絞められていくようでしたわ」

誰にも聞こえないような囁き声が、なぜか自分にだけははっきりと聞こえる。

『貧相な子』

マリアンヌ様の隣に立つなんて愚かで恥知らず。見るに堪えない。


「勝手に喜んで期待して。……勝手に傷ついて失望したのです」

ルビーは自嘲気味に笑った。

「マリアンヌ様はただお優しくて、そのお心に従い、何の他意もなく私を傍に置いてくださったのだと知っています」貶める意図などなかったと。

「けれど、周囲の人間は違うのです。マリアンヌ様と比較して、足らない私を見下して嘲笑いました」

立ち上がった彼女が、私の横に並ぶ。小さな椅子なので体全体が寄りそう恰好となった。肩にそっともたれてくるから、柔らかな髪が頬にあたってくすぐったい。


「ルビー……?」

「マリアンヌ様に酷いことをされたり、言われたわけでもないのに。でも、傷つきました」

ふふっという吐息が音楽室の冷たい空気に溶けて消える。顔が見えないので笑っているのか、あるいは泣いているのか分からない。どちらにしろ、なぜ笑うのか。なぜ、泣くのか。考えたところでは私には理解できなかった。

だって、私は彼女のような思いをしたことがない。

「マリアンヌ様の優しさは施しに似ているのかもしれません。ご自分がお持ちのものから分け与えているように見える。余分だから、くれるのだと」

だから、


「マリアンヌ様の傍にいると傷つくのです」


淡々とした声に聞こえた。

けれどもそれはきっと、何も感じていないからではない。むしろ感情を抑え込んでいるような静謐さがあって。なぜか、頭の隅に、俯いて立ち竦むイリアの姿が蘇った。

私が居たから、彼女()傷ついた。


「ならば、私のことなど……、好きではないでしょう」

嫌われているとは思いたくない。それに彼女(ルビー)が、厭うていながら、慕う振りをするような強かな女性だとも思えなかった。

かといって、今の話を聞いて好かれていると思うような能天気さは持ち合わせていない。


「っいいえ、好きです!……、っあ、申し訳ありません」

私ったら、と顔を真っ赤にしながら「と、ともかく、好きではないなんて絶対にありえません!」と、強く否定してくれる。

そして不意に立ち上がり、私の前に立った。すぅと息を吐いて、騎士がするみたいに膝をつく。こちらを見上げた眼差しは縋るようでもあった。

スカートが汚れると、立ち上がらせようとしたものの首を振って制され、

「先ほども申しましたが、私は、勝手に傷ついたのです。マリアンヌ様に傷つけられたわけではなく」

失望したのもそう。マリアンヌ様に失望したのではありません。と、そっと手を握ってくる。

「優しくしてくれた貴女様を、自分本位に恨みそうになった自分に失望したのです」


比較され、落とされて、足りないと失笑される。辛く、悲しい。それを誰かのせいにするのは簡単だ。憎しみを抱いて生きることも、それ自体はさほど難しくない。

難しいのは、己を満たすこと。頭の中を知識で満たし、心を愛と優しさで満たし、心身を健やかにして、隙を作らず、誰にも入り込ませないことだ。

聖人でもあるかのようにつらつらと述べ、

「だから私は、努力することに決めたのです。次にもしもマリアンヌ様にお会いするときが来たなら、恥じることなくいられるように」

新しいドレスを買うことができなくても、せめて上流階級に馴染むことができるよう品性を磨こうと決めた。

「目標があれば頑張れるものですわ」


私はずっと、貴女様を道しるべに歩いてきました。と、ルビーは胸を張る。道に迷いそうになっても行先を知らせてくれる存在だったと。

「フルートを学んだのだってそうですわ。マリアンヌ様はピアノがとてもお上手だと噂になっていたので、いつか一緒に演奏できればいいと思って練習しました。ピアノで連弾するものいいけれど、足を引っ張ることになりそうだったので」

教室に夕陽が差し込む。天井から赤い影が迫り、数秒ごとに互いの顔が翳っていく。

「……話がそれてしまったのですが。つまり、此度のイリア様の件は仕方のないことなのです。起きてしまったことを悔いてもやり直すことはできません。―――――けれど、この先の選択は変えられます」


だからどうかあきらめないで。と祈るように、合わさった二人の手を額に寄せた。その体温が心地よくて、ほっと息を落とす。

「ルビー」

「はい、」

「いつか一緒に演奏しましょう? 貴女のフルートを聴いてみたいわ」


虹彩に反射した光がちらちらと輝く双眸。喜んだように見えたのに、笑みを作った唇に少し力が入って。その何とも言えない表情を、私はこの先ずっと忘れないだろう。

一緒に演奏したいと、そう言ったはずなのに。


「はい! マリアンヌ様。いつか、きっと……、」


跳ねる声と相反する表情。その意味を知るのはもう少し先のこと。

夕闇が私たちを覆って、物理的に辺りが暗くなっていく。まだ来ていない未来を想像して、心が豊かさを取り戻すような気がしたのはその時だけで。


私たちはその先も、一緒に演奏することが叶わなかった。






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