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端的にいえば、私は、―――――間違った。
*
学院に入ったのは十三のときだ。
学院に通うのは、ほとんどが貴族出身かそれに準ずる家柄の者である。あるいは、学院に通えるだけの資産があり、身元保証人が用意できれば爵位がなくても良かった。
ただ、どちらの場合も、入学するまでにある程度の学習を修めておく必要があるので、基本的に、家庭教師を雇えるだけの金銭的余裕がなければならない。
また、後ろ盾がなく素性も知れないような、いわゆる下層階に属する者は入学する資格さえ得られないので、学院に掲げられた『学問の前ではみな平等』という理念がすなわち建前だと分かる。
一方で、様々な階級から集められた令息、令嬢は身分の垣根なく親交を深めることが推奨されていた。なぜなら、やがてこの国の中枢を担うことになる未成熟の子供たちにとって学院は、社会勉強の場でもあるからだ。社交界に出た暁には、上位の者が下位の者を虐げることないように。また、下位の者が必要以上に上位の者を敬ったり遜ることがないように。
それはいわば、特定の爵位、家柄の者に権力が集中しないようにという国の思惑もあってのことだった。
「イリア様は今日も図書室においでなんですね」と、呟いたのは最近親しくなった子爵家第一位の子女である。柔らかな日差しから逃げるように、小さな右手を額に掲げていた。
指の隙間から零れた光が、紅玉の瞳を透かしている。
「本当に努力家ですこと」と、こちらに向けられた笑みは親し気だ。学院に入ってから得た、友人である。
けれど、もしもこの関係が公になれば、周囲の人間はこぞって関係を見直すように迫るだろう。さすがに爵位が離れすぎている、問題だと。
事実として、学院内であれば生徒同士は爵位の区切りなど関係なく交流を図れるが、学外ではそうもいかない。公の場で下位の者が上位の者に無礼な振る舞いをすれば、大抵、取返しがつかないことになる。
そのため、概ねの生徒が爵位に即した言動をする。そのほうが安全だからだ。私自身ですら子爵家の令嬢と友情を築けるとは思っていなかった。
彼女の置かれた特異な環境が、そういった固定概念を覆したのである。
「私は、学院を卒業したら辺境の地へと嫁ぐことが決まっているのです。ある豪商の三番目の妻ですわ」
嫁いだら最後、王都へは戻ってこない。加えて三番目の妻であるから、社交の場に出る必要もない。
「だから爵位などもはや関係ないのです。ここを出たらもう二度と、マリアンヌ様ともお目通りもかなわないでしょう」
要するに、誰かに取り入っても意味はないし、万が一に無礼を働いて処罰を受けることになろうとも結局は、王都から出ていくことになるから同じだと。したがって、礼儀を忘れることはないが、爵位に即した言動にはもはや意味がないと言った。
どこか投げやりにも思えたのは気のせいだろうか。
「……だったら尚更、どうして私とこうして親しくしているのかしら」
首を傾げば、
「ただマリアンヌ様とお話してみたかったのです」
一生分の勇気を使い果たして話しかけてみたのだと、ほんのりと赤く染まった頬を上げてふふと笑う。
どこかで見かけたお人形のように愛らしい顔立ちだ。お部屋に並んでいたら一等可愛がって着飾るのに。そんなことを思う。
「私と話すのに一生分の勇気を? そんな勿体ないことをなさったの? その勇気、これからのために取っておいたほうが良かったでは?」
私と話しをすることくらいなんてことないでしょう。と心底不思議に思っていると、
「マリアンヌ様はご存じないかもしれませんが、貴女様はそれほどのお方だということです。一言声をかけてもらえるだけで、天にも昇るような気持ちになる。今だってそうですわ」
巷ではどうやら、伯爵家第一位の令嬢と親しくなることが社会的地位の向上につながるとまで言われているらしい。
「貴女様と懇意になることにはそれだけの意味があるということです」
「そう、なの……」
喜んでいいのか、あるいは嘆けばいいのか分からない。自分自身にそれほどの価値があるとは思えないし、あるとすればそれは家柄においてだけだ。あくまでも自分自身は見てもらえないのだということが、何だか切ないような気がした。
「では私と貴女の関係を、ご両親はご存じなの?」
問えば、ふるふると首を振って「内緒ですわ」と嘯く。マリアンヌ様に接触したことが知れればきっと両親は喜ぶだろうけれど、そういう利害関係の中には入りたくない、と。
「私はただ、マリアンヌ様と友人になりたかっただけですの。もしもそうなることができれば一生の思い出になると分かっていたので」
一生? これからだって色んな人と出会い、たくさんの思い出ができるだろうに、やはり大げさだと肩を竦めれば。そんな私に答えるかのように友人はうっとりと目を細めて囁いた。
「いいんです。私はこれで、幸せなのですから」
校舎裏でひっそりと落ち合うのがまるで逢引きのようで楽しいと続ける。
そういえば最近、社交界で流行っている小説にもそういう場面があったことを思い出した。彼らは正真正銘、恋人同士であったけれど。友人関係においてもこういう事態が発生するのだと妙な関心を覚える。
そしてふと、私はきっとイリアとこういう関係になりたかったのだと理解した。たった数分でもいい。顔を合わせて話ができれば、それ以上に望むものはない。
『マチス家のお嬢さんと仲良くしてはいけないよ』
耳の奥に木霊す父の声を追い出すために耳を塞ぐ。母が言ってくれたことを加味すれば、やはり、誰にも知られなければいいということである。
「マリアンヌ様?」
「―――――あの、私、ちょっといいかしら。用事があったことを思い出したの」慌てて言い置き、ベンチに広げていた軽食をバスケットに仕舞った。驚くルビーだったが、あまりにも自分勝手な振る舞いを責めることもなく、また、ご一緒してくださいますか? と丁寧に問いかけてくる。二つ返事で了承して、今日も図書室にいるらしい彼女の元へと急いだ。
「……ピアノがお上手でいらっしゃるのね。とても感動致しました」
あのときのことを覚えているだろうかと、足を速めながらイリアに声をかけるための準備をする。柄にもなく緊張していた。
前回、彼女と話をしたのはいつだっただろう。はっきりと思い出せないほどには遠い日のことになる。
それもそのはず。懸念していた通り、私とイリアは学院に入るまで、ほとんど顔を合わせることがなかったのだ。
我が家が催した茶会にはマチス家の夫人が来ていたし、マチス家や他家が主催した茶会には当然、母も招かれていたけれど。婦人方はほぼ、己の子供を同伴しなかった。
それについては致し方ない部分もあると、今ならよく分かる。
貴族にとっての茶会は休息であると共に、ある意味とても重要な意味を成す。複数の家が集まれば社交の場となり、そこではあらゆる情報が飛び交う。あくまでも婦人たちが集まる場なので、政治的な駆け引きは好まれないものの。彼女たちはいずれも家庭内の事情には明るいので、それぞれの家計や家族関係、あるいは家と家の付き合いなどには詳しい。
果ては、それが政治にかかわるので、家同士の親交が深く個人的な付き合いがある場合には子供たちも呼ばれるが、それ以外は年端のいかぬ子供が参加することはない。
だからむしろ、数えるほどでも彼女と話す機会が得られたのは運が良かったといえる。
ごくたまに、子供たちも招かれるような会があればその姿を捜し、誰にも見られないように話す機会はないかと様子を窺った。
誤算だったのは。私たちの動向を大人が監視していたことだ。子供たちを見守っているだけ、という体を装っていたがその視線はあまりに鋭い。私とイリアが親しくすることを、誰も歓迎していなかった。それは恐らく、父が語って聞かせてくれた派閥によるものだと考えられるが、加えて、イリアが侯爵家嫡男の婚約者であることも、確実に影響していた。
幼い頃は、彼女のことを『身の程知らず』と、立場もわきまえずに堂々と罵る人間がいたけれど。彼らも、時が経てば経つほど、侯爵家に翻意を促すことはできないと思い知ったらしい。
このままいけば。いま現在は伯爵家第三位の家柄で、あくまでも中位貴族でしかない彼女は、結婚を機にいくつもの階級を駆け上がる。いずれは限られた数しか存在しない上位貴族となり、茶会に集まっている貴族の上に立つはずだ。ともすると付き合うのが難しい。
で、あれば。最初から近づかないほうが良い。そして、そんな大人たちの事情を子供が敏感に察知し、
イリアは、ますます孤立を深めていく。
『あの子は、湖の上にできた氷の地面に立っているのよ』誰かがそう囁いていたのを聞いてしまった。
ならば一層、仲良くなりたい。一人にはしたくなかったから。
なのに。私が、ただ挨拶をしようとイリアに近づいただけでも、誰かが割り込んできて邪魔をしてくる。それは例えば、どこかの婦人だったこともあれば、同年代の子女だったこともある。私を守ろうとしているのか、あるいは彼女を守ろうとしているのかよく分からない。ただ、彼らがいずれも誰かから命じられてそうしているのは明白だった。
さすがに押しのけるわけにもいかず、仕方なく相手をしていると、いつの間にかイリアの姿が消えている。
聡い彼女が、私を避けるようになったのはいつからだろう。
近づきたい。でも、手段がない。
表立って親しくできないというのはなかなかにもどかしいものであった。
それなら秘密裏に筆をしたためれば良いかと、こっそり母に相談すれば、もってのほかだと一蹴される。
こういうことはやはり、証拠を残してはならないのだと。
それならば我が家お抱えの密偵でも使えばいいかと一計を案じていれば、これもまた母から助言があった。
「大人たちが介入できない場と言えば、学院ね」と。
完全に両親の庇護下にある今よりもずっと、話しかけることが容易くなるはずだと。―――――それが、数年前のことだ。
我ながら、よく我慢したものだ。
「まぁ、イリア様ではありませんか。語学の勉強ですの?」
図書室で。参考書を積み重ねて勉強に励む少女に声をかける。他には誰もいなかった。
学院には三つの図書室があり、イリアがよく使っているのはその中でも一番古い部屋だった。彼女がこの部屋を占有しているのは割と有名なことで、だからこそあまり他の人間は近づかないのだ。侯爵家嫡子の婚約者という威光が、こんなところに現れる。学院に入るまでは、彼女のことをよく思わず、遠巻きにしていた人間ばかりだったにも関わらず。
学び舎で机を並べるようになれば嫌でも、彼女の優秀さを痛感する。
さすれば自然と、偏見の目も薄れるというものだ。
相変わらず、家柄が同格か、それ以上であれば嫌味の一つや二つ口にする人間はいたけれど。暴言なみの反道徳的な言葉は耳にしなくなった。
もしかしたらソレイルの婚約者を挿げ替えることができるのではないかという期待も、ここまでくれば霧散したのではないか。身内でもないのに、誇らしい。
「……はい、さようでございます」
怪訝そうな顔をしたイリアが琥珀に緑の混じった不思議な色の瞳でこちらを見上げる。
大きな窓から差し込む陽の光を含んで、鉱石のように柔く光を映した。これほど近くに立つのは、学院に入ってから初めてのことだ。
「先日の試験も高得点だったと聞いております。素晴らしいことですわね」
隣に座っても構わないか問えば、少しためらった後良い返事をもらえたので、そっと意気込んで腰かける。
話したいことがたくさんあった。
姿勢を正して、わずかに椅子を動かしたイリアが私に向き直る。
「マリアンヌ様には及びません」
編み上げて纏めた彼女の髪が、幼い頃よりも少し濃い色になっていることに気づいた。あまりにも些細な変化。顔を合わせて話ができていることに感動を覚えて、今しがたイリアが漏らした声を聞き逃してしまう。
「今、何て?」単に聞き返しただけなのに、はっと息を呑んだその子は「―――――お褒めに与かり、光栄にございます」と立ち上がろうとした。慌てて制するも、何だか二人の間に妙な空気が流れた気がする。
かしこまったお礼はあまりに他人行儀で。一瞬にして二人の間に、見えない壁が構築されたかのように思えた。
じっと私を見つめる爽やかなほど清い眼差しに、言葉を探す。こうして顔を突き合わせて会話ができたなら、あれを言おうこれを言おうと考えていたのに。
「……いつもどのように勉強なさっているのか、私も知りたいものですわ」
ぽろりと零れ落ちた言葉に自分でも戸惑う。これでは嫌味を言っているようなものだ。高得点を取るために何をしたのかと本人に問うのは。反則でもしたのではないかと、訊いているも同じ。
だって、イリアがどれほど一生懸命に学んでいるか、私でなくても知っている。
「私なんてまだまだでございます。マリアンヌ様のほうがよっぽど良い成績ではありませんか。私なんて本当に……、足元にも及びません」
彼女の、膝の上に置かれた拳に力が入るのが見えた。
先日、廊下に試験の成績が貼り出されたのを思い出す。順位だけで言えば、私の方が上だった。
でも、私はただ要領がいいだけで、イリアよりもたくさんに知識があるかと言えば、それは違うと断言できる。一つ上の学年に、我が家と親交の深い家柄のご息女がおり、その方から、試験の傾向と対策を教えてもらっただけなのだ。
学院において、こういうことはよくある。
それも人脈を広げる上で重要なことなので、生徒同士の情報交換はむしろ奨励されていることであった。
「イリア様、よろしければ一緒に……、」
勉強しませんか?と言いかけたところで、両親の顔が浮かぶ。不自然に止まった言葉に、不思議そうな顔をして首を傾ぐイリア。
さすがに椅子を並べて自習をするのは一線を越えている気がした。そもそもこの場所は皆に開放されており、誰もが自由に使える。いつ誰に見られるか分からない。
では、どうすれば彼女と一緒に居られるのだろう。
普段は饒舌すぎるほどに饒舌で、母にはよく舌が回るものだと笑われるほどなのに。こんなに会話下手だっただろうか。機知に富む会話を提供できるのは紳士淑女の基本だ。貴族の晩餐は、相手に気を遣わせない程度の会話ができなければ無粋だとされる。
「……マリアンヌ様は、ピアノがお上手でいらっしゃるのですね」
思いがけず、そんなことを言われてはっと息を呑む。もしかして、あのときのことを覚えているのかと。
けれど、
「先日、講堂で演奏されましたよね?」
「あっ、え、ええ」
学院では数か月に一度、音楽鑑賞会が開かれる。その際、だいたいは一流の演奏家を招くのだが、楽器の得意な生徒が演奏することもままあった。自薦他薦を問わないが、私は立候補したわけではなく、他生徒からの推薦により学院から要請されてピアノを演奏することになったのだ。こういう場合は、学院から我が家への正式な依頼になるので、名誉なことでもある。
ゆえに、学院から指名されれば断る人間はまず、いない。
「あの曲は、私、とても苦手なんです。マリアンヌ様の演奏で、ますます……、」
俯いてしまったイリアの長い睫毛が、白い頬に影を作る。
黙り込んでしまったので「ますます?」と続きを促せば、はっと慌てた様子で「っあ、いいえ。何でもありません」と首を振った。そのまま勢いよく立ち上がる。
「あの、申し訳ありません。もうすぐ家庭教師が来る時間なので、屋敷に戻らなければ―――――」
そう言いながら机の上に重ねた書物を片付け始める。本当に急いでいるのか、こうなっては引き留めるのも忍びない。それならば、これまでずっと、どうしても伝えたかったことを言わなければ。
「イリア様」
「はい、」
「私、貴女のピアノ……、とても素晴らしいと思いましたわ。丁寧で、繊細で。心を打たれました」
目の閉じれば、鍵盤に指を置いた幼いイリアの姿が浮かぶ。耳を澄ませば、あのときの音さえ聴こえてくるようだった。今はもっと上手になっていることだろう。いつか聴かせてほしいと言いかけたところで、
「ピアノは好きではありません」
次の言葉を遮るように、何の温度も感じられない声が返ってくる。
私の賛辞など、何の意味もないとでも言うように。そして「私、本当にもう行かなければなりません」と続ける。あえてそうしているのか、イリアは顔を背けていた。
だめだ。このままでは行ってしまう―――――。
「あの、イリア様」
「……っ、はい」
呼べば振り返るけれど、小さく震えた肩に緊張が見えた。
「よろしければまたここでお会いしませんか? もっとお話しがしたいのです」
少し早口になってしまったのは、柄にもなく焦っていたから。この機会を逃せば、いつ二人きりになれるか分からない。
動きを留めた少女はすっと姿勢を正して一歩下がった。ほんの少しだけれど間違いなく距離が遠くなったと知れて息を呑む。警戒されているようだった。正面から見据えられてたじろいだのは私のほうだ。
「なぜですか?」
いっそ純粋無垢なほどに真っすぐな瞳で問われて言葉に詰まった。絞り出すような「仲良くしたいのよ」と答えた声は掠れていただろう。すると、重ねて「どうして」と訊かれた。
「どうしてって……、」
理由などない。ただ、親しくなりたいだけなのだから。でも、ここまでくればさすがに分かる。
私は、好かれていない。
「マリアンヌ様、ご無理なさらないでください。気を遣ってくださらなくても大丈夫です。私にはやらなければならないことがたくさんあります。ですから、」
どうぞ、放っておいてくださいまし。
ひどく冷たく響いた言葉が、胸を刺す。呼吸を置いて、ふわりと上品にほほ笑んだ令嬢が「それでは、ごきげんよう」と優雅に膝を折って別れを告げるのに、反応できなかった。踵を返した彼女の肩に、編み込まれた髪の一部が零れて落ちる。その残像が目に焼き付いた。
真っすぐに伸びた後ろ姿にかける言葉はない。何が起こったのかさえ分からなかった。私はイリアの機嫌を損ねたのだろうか。それとも、嫌われた? そんなに言葉を交わしたわけでもないのに?
苦しい。何だか、とても。
なんでだろう。
どうして。
*
*
「違います、マリアンヌ様。イリア様は怒ったわけではなく、傷ついたのでしょう」
イリアとの邂逅の後。明らかに気落ちしていたのだろう。何があったのかルビーに問い詰められた。初めは言うつもりなどなかったけれど「マリアンヌ様のお気持ちは周囲に伝播します。皆、そわそわしていますよ」と、暗に己の態度についての苦言を呈されてしまえば弁明の余地はなく。仕方なく事情を話せば、彼女は僅かに言い淀んだ後、こう告げた。
「マリアンヌ様はご存じなかったのでしょうけど、先日の講堂での演奏。奏者として名前があがっていたのは、二人だったと聞いています」