檸檬の香り
檸檬の香りがした。
夕立に背中を追い立てられながら、徐々に見えなくなる我が子の顔とボール。
ボスっといい音を立てる野球グローブに収まったボールを持ち上げながら、私は少しため息をついた。
「達夫、もう帰ろう。寒くなってきたし、私も疲れた」
コンビニに寄るくらいの軽さで始めたそのキャッチボールは、もう1時間ほど続いていた。
しかし息子はぶんぶんと首を振り、かけた歯をにっかりと見せる。
「やーだ! 母さんが呼ぶまではやるの!」
「その頃には、まっくらだぞ。家に帰ろう」
しかし達夫は私の話を聞く様子はない。
「父さんがキャッチボールに付き合ってくれることなんて中々ないんだもん! まだやる!」
その顔は暗闇でもわかるくらいに満面の笑みだった。
「付き合ってられん、帰るぞ」
「えー」
「付き合ってやったんだ。家帰ったら勉強しろよ」
「えー」
「約束だろ?」
「父さんいつもそればっかり」
「お前のためだ」
その記憶が、達夫が笑っている顔を見た一番鮮明な記憶だったことに気づくのは随分あとのことだった。
――――
「そういえば今日さ、1組の奴がさ――」
達夫ももう高校3年生までに成長していた。
私の家庭は食事中あまりしゃべらないのだが、達夫だけが少し気を使ったように、話し続けている。
母さんは、その達夫を見ないふりするように、唐揚げに添えられた檸檬を私と達夫の分にもかけていく。
達夫の頬についた殴りあとを見ながら私はため息をつく。
どうせ遊んでばかりで質の悪い仲間と遊んでばかりなのだろう。
我が息子ながら情けない。
「今回の模試、どうだったんだ」
私はくだらない話を続ける達夫にそう聞いた。
「あーえっと……まだ返ってきてないよ。ほらそれよりその1組の奴がさ――」
「嘘をつけ、会社の同僚から最近返ってきたって話を聞いた。見せなさい」
「……はーい」
少し不貞腐れながら、カバンの中を探す達夫を見ながらはぁとため息をつく。
地頭は悪くないはずなのに、どうも怠け癖がある。
こうやって定期的に見てやらないと、すぐ成績を落とすんだから困ったものである。
社会で生きさせるために、もっと勉強させなくては。
達夫が差し出した模試の結果を奪い取るように見ると、その判定はすべてEだった。
偏差値なんて、50を超えているものが1つもない。
それを見るだけで頭に血がのぼってきた。
「お前! よくこんなふざけた点数が取れたな! そんなんじゃ、まともな大学なんていけんぞ!」
「……」
達夫は黙ったまま、俯いている。
まったく、こうして怒られるのが分かっているのに、どうして努力できない。
私がこいつぐらいの頃は、ダメな自分を変えたくて、食事の間すら惜しんで勉強していたと言うのに。
私のいう通りに生きれば間違いないと言うのに、どうしてか達夫にはそれがわからないようだった。
「そんなに勉強したくないなら、塾なんてやめてしまえ。お前なんかに金を使っているのがバカバカしいわ」
「それは……!」
「いいや、部活がいかんのかもしれんな、部活もやめるといい! 部費もださんからな!」
「……」
達夫の顔が絶望したような顔に変わる。
私だってしたくてこんなことをしているわけではない。
この社会で馬鹿は淘汰されるだけだ。
なにしろここまで育ててきたのだ。
優秀に育ってほしいと思うのは、親なら当然だろう。
「ご、ごめんなさい。でも俺今正直勉強どころじゃ――」
「俺の親戚は勉強しなかったせいで、今ホームレスをしているそうだ、どっかの誰かさんの未来かな」
「ごめん、体調が悪くて――」
「そうやってまた言い訳して! 金を返せ! お前に使ったムダ金!」
いつもならそれで黙って部屋に行くはずの達夫は、その日は違った。
急に感情が抜け落ちたような顔をして、視線が定まらなくなった。
ふぅっと息を吐いて、スッと私から視線を離す。
「なんだ⁉ なにか言いたいことがあるなら言ってみろ!」
私はこの時、達夫は不貞腐れたのだと思っていたのだ。
何を言っても正論で押し返してやろうと思っていた。
「いつも父さんって俺の話聞かないよな、そんなに家族との会話が楽しくないかよ」
苛立ちがこもった、ドスの効いた声だった。
達夫のそんな声は、初めて聞いた。
「別に、そういうわけじゃない」
うろたえてしまい、私は曖昧な返事をしてしまう。
「でも父さんいつも俺の話まともに聞いてないじゃないか、さっき俺が話した話、覚えてるのかよ!」
ふと達夫との会話を思い出してみる。しかし湧いてくるのは模試の結果だけだった。
あれ、達夫とちゃんとプライベートな話をしたのはいつだったか。
達夫は野球が好きだ、なら野球の話をしていたに違いない。
「さぁ……野球の話だったか?」
すると達夫ははぁと顔を覆った。
「違うよ、他クラスの奴の話をしてたんだよ」
「そうだったか? あんまりちゃんと聞いていなかったのかもしれんな」
「違うだろ!」
達夫が今まで出したことのないような怒声をあげた。
ピクッと母さんが怯えたように肩を揺らし、達夫を心配そうに見つめた。
「野球の話なんてしたのはもう10年前の話だ、父さんに野球の話をすると必ず否定されるから話してないんだよ! それにすら気づいてなかったのかよ!」
だんだん嗚咽をはらんだような声になった達夫は、その言葉を吐き出し終わると、目元を手で覆った。
私はそんな剣幕で怒る達夫を呆然と見つめていた。
しょうがないだろう、私だって仕事で忙しいのだ。達夫のくだらない話なんて覚えていられるわけがない。
ふと気づいた。
達夫はきっと叱られたことに逆ギレしているのだ。
問題をすり替えて私に逆ギレしている達夫に腹が立ち、ダンと机を叩いた。
ここは親としてガツンと言ってやらねば。
「問題をすり替えるんじゃない! お前が勉強していないのが悪いんだろう!」
「だからそれどころじゃねぇんだよ!」
「うるさい! 子供のくせに!」
言うことを聞かない達夫を思いっきり叩いた。
よろめいた達夫が机に手をつく。
するとその拍子に食器がひとつ、机からこぼれ落ちた。
「あっ」
ハッとして、達夫はそれを拾い上げようとするが、落ちた皿はガシャンと音を立てて床で砕け散った。
檸檬の皮が私の服に飛び、絞り損ねた汁が服に染み込んだ。
割れた皿を呆然と見つめる達夫。
気がそれた今ならと、私は達夫に口を開いた。
甘えてばかりのこいつに、いい説得のチャンスだ。
「一時の欲望に身を任せるな、今は勉強のことだけ考えろ。私はお前が立派になってくれるのを願ってるぞ、今日は部屋に戻れ」
その時は話をきれいにまとめたつもりだった。
自分でも中々いいことを言ったと思った。
達夫にこれ以上話しても、勉強する気にはならない。
なら一旦落ち着かせるのが得策だと思ったのだ。
「……もういい」
達夫はうなだれたまま割れた破片を少しまとめて、自分の部屋へと戻っていった。
シュンとしたあいつを見ると苛立っていた胸がスッとした。
やはり私はいつも正しいのだ。
あいつもいつか私に感謝する日がくることだろう。
まったく、いつまでも手がかかる子だ。
私は母さんに破片の始末を任せ、その日は気分直しにワインを一杯飲んでから寝た。
その夜、達夫は家出していたなんて気づかずに。
――――
「もう達夫が家を出て行ってから10年か」
ふと病室で思いだしたのは、親不孝者の顔だった。
母さんは数年前がんで亡くなり、私の命もそのがんで消えようとしている。
あのあと、達夫はどうなったのか。
どうせ泣いて帰ってくると高を括っていた。
1日が経ち、1か月が経ち、1年が経ち――。
気づけば私は、死の淵に立っている。
母さんとは定期的に連絡を取り合っていたようだったが、達夫は一度も私と顔を合わせようとはしなかった。
別に謝れば許してやらなくもないのに。
あいつも若かったのだ、それを許してやらない私ではない。
せいぜい私の言うことを聞かなかったことを一生をかけて後悔すればいい。
ガラガラと扉が開いた。
ハッとして扉を振り返る。
「東さんー検査のお時間ですよー」
入ってきたのは看護師だった。
私はすぐに興味を失い、はぁと小さくため息をついた。
私は見えていなかったが、看護師もそんな私を見て、小さくため息をついた。
あいつ、死ぬ間際まで会いに来ないつもりか、一応俺が危篤だってことは母さんの実家から知ってるはずなんだが。
あいつがどうして家出できたのか、それは母さんの実家に転がり込んでいたからだったらしい。
母さんが死ぬ間際に教えてくれた。
――あなたたちは似てるのに、振り返る道は違うのね。
そう言って母さんは病室のベッドで事切れた。
あいつと私が似ている?
勉強から逃げ出したあの出来損ないと?
母さんのあの言葉に苛立った。
しかし苛立っても死期は着々とやってきている。
自分の体だ、もう限界だと体が訴えている。
きっと今夜にはお迎えが来るだろう。
「親不孝者が」
私はそう死に際に呟いて、この世を去ったのだった。
――
「――あっけなかったな、葬式」
東と書かれた墓の前に、20代後半ほどの男が手を合わせていた。
「結局最後まで話せなかったな」
そう呟くと、彼は立ち上がる。
「父さん俺さ、あの時言えなかったけどいじめられてたんだ。正直勉強どころじゃなかった」
まるで懺悔するように男が言うが、返事がかえってくるわけはない。
男はフッと切なげに笑いながら一筋の涙を流した。
「俺怖かったんだ、父さんにこのことを打ち明けたらそれより勉強って言われるのが……」
嗚咽交じりになってきた声を落ち着ける様に一呼吸おく。
「そんなこと言われたら俺は絶対壊れると思ったんだ。でも――」
男の一筋だったはずの涙は、ぼろぼろと流れだす。
「俺が話してたら……まだ父さんと仲良くなれてたのかなぁ、俺がもっと頭良かったなら、俺のくだらない話も聞いてくれてたのかなぁ、父さんを裏切って、俺の中で悪者にしたのは……合ってたのかなぁ」
話せば話すほど溢れてくる涙にどうしようもなくなって、男はそこに膝をついた。
「達夫!」
ふと女性の声が後ろから聞こえた。
達夫と呼ばれた彼が振り返るとそこには彼の愛する妻がいた。
高校の頃に荒んでいた彼を何度も慰め、側にいてくれた、達夫のこの世界で一番大事な存在。
達夫はその泣き顔のまま、駆け寄ってきた彼女にされるがまま、抱きしめられる。
その温もりを感じながら、達夫は彼女を抱きしめ返した。
しばらくそうして、達夫は決心したように墓に向き直った。
「父さんが言ってた幸せになる条件、いい大学も、いい成績もとれなかったけどさ、俺今幸せだよ」
達夫はさらに彼女を強く抱いた。
「俺、幸せになるよ。父さん、悪者にしてごめん。だけど、俺は俺が正しかったって信じ続けるよ。俺に期待してくれたあなたに敬意を払いながら、一生恨んでいくよ」
呼吸を一つ。
「ごめん、こんな親不孝者で」
しかし後ろ向きな言葉とは裏腹に、達夫の顔は複雑な色をにじませながらも、晴れ晴れとしていた。
「行こう」
そう言って達夫は彼女をエスコートしながら、墓の前をあとにした。
檸檬の香りは、もう薄くなっていた。
檸檬――外国では欠陥品などの出来損ないのものに檸檬と言う。




