第9話 診ることから癒す
その日、“びょういん”に一人の男が運び込まれたのは、朝の霧がまだ晴れぬ頃だった。
農夫と思われる男の身体は火照り、腕や首元には、まるで鱗のような白い発疹が浮かび上がっていた。
「これって……」
リーナは思わず声を漏らした。
白い発疹は規則的でもなく、皮膚がひび割れたように剥がれている箇所もある。痒みではなく、ひどい疼きと火照りを訴えていた。
「毒……にしてはおかしい。発疹の広がり方も、痙攣もないし……」
レインも、傍らで汗を拭う男の様子を見ながら、額にしわを寄せる。
「とりあえず、青魔法で……!」
そう言ってレインが魔力を込めかけたその時だった。
──癒術暴走。
リーナの脳裏に、あの言葉が鋭く閃いた。
「待って、先生!」
彼の腕を、リーナがとっさに掴んだ。
「これは、まだ病気の正体がわかっていません。もし“癒術暴走”が起きたら、この人の命が……!」
レインの手が止まる。
目の前の患者は息を荒げ、額から汗を滴らせながら呻き続けていた。
魔法で癒せる可能性はある──だが、それが毒かどうかも、どの臓器に影響を与えているのかも、わからない。青魔法は、患部を選ばず全身に魔力を巡らせてしまう。二人はソワンの真実を知ってしまったばかりに治療に二の足を踏んでいた。
“無闇な癒し”は、時に命を削る。
レインとリーナは顔を見合わせた。
時間がない。だが、誤った判断は取り返しがつかない。
「先生、村長のところへ行きましょう。ハクガクさんなら、この病を知っているかも!」
レインは力強く頷くと、患者をそっと背負い上げた。
「リーナ、頼む。扉を開けてくれ」
“びょういん”の木製の扉がきしみを上げて開く。
外はまだ霧が残り、湿った風が二人の頬を打った。
道を駆けるたびに、患者の呼吸はさらに乱れ、背中から熱が伝わってくる。
「しっかりしろ……あと少しで着くからな」
レインの声に、患者は微かに呻きで応えた。
──村長、ハクガク。
古くからこの村に住まう白髪の隠者は、薬草と病の知識に長けた唯一の識者だった。
「先生、あの丘の家です!」
リーナが先導するように駆け、やがて小高い丘の上にある木の門をくぐった。
奥の古びた家には、まだ灯りが灯っていた。
「ハクガクさん、いますか! 緊急です!」
リーナの声に、静かに扉が開かれる。
現れたのは、ハクガクとは似ても似つかぬ青年だった。
「”祖父”に何か御用ですか。」
目は細く、漆黒の髪を左右非対称に整え、群青の民族衣装らしき衣を纏う男。扉からちらと姿を見せ、落ち着いた声で応答した。
「私たち、この村で”びょういん”を営んでいる者なのですが、ひどい状態の患者さんがいて……ハクガクさんなら何か知ってるかもと思って」
息も切れ切れでリーナが説明を行う。表情には焦りの色が強く見える。
「あいにくですが……祖父は王都で会合です。」
焦燥感と患者を救いたいという使命感から落ち着きがなかった二人だが、この一言を聞き、落胆と絶望の表情へと変化していった。患者の容態はますます悪化しており、レインの背でぐったりとうなだれている。
しかし、そのような中、扉越しの男は患者を見るなり──。
「その方、龍鱗病、ですか」
静かだが確かな声だった。
レインとリーナが同時に顔を上げ、扉越しに立つ青年を見つめる。黒髪を片側に流した青年──メルキオルは、すっと視線を患者に向けたまま言葉を継いだ。
「白い発疹と火照り、呼吸の荒れ、そして……目の充血。間違いありません」
「あなた……この病を知ってるんですか?」
リーナの声には、半ば祈りにも似た響きがあった。
「ええ。祖父の持つ書物を読み込んでいますので。申し遅れました。私の名はメルキオル。祖父ハクガクの孫です。中へどうぞ。外気はこの病にはよくない」
メルキオルの案内で家に入ると、レインは急いで患者を寝台に横たえた。
室内は整理され、壁一面に薬草や書物が並ぶ──まるで診療所のようだった。
メルキオルは手早く患者の瞼を開き、舌の色を確認し、首筋を指で押した。
そして頷く。
「やはり、龍鱗病です」
「……龍鱗?」
レインが聞き返すと、メルキオルは棚から一冊の分厚い書物を抜き取り、開いたページを二人に見せた。
「『龍鱗病』は、この辺では見たことがない稀な疾患です。毒による病状と思われがちですが、人間の細胞に感染する小さな小さな生物が原因、つまり"病気"です。」
「解毒だけじゃ治らないってこと……?」
「そうです。解毒すべき対象ではありません。どちらにせよ、アンティア教会が支配するこの世では"祈り"の対象です。」
「そんな……じゃあ、どうすれば」
リーナが顔を歪める。
「馬鹿げた世の中ですよね。」
レインとリーナは思いがけない言葉にメルキオルに視線を集めた。メルキオルは続けた。
「私たちが生きる世は祈りで全てが解決されます。龍鱗病もしかりですが、祈ることで治ると、そう信じられているんです。しかし、どうでしょうか。そこに真実の回復なんてないんです。祈りによって病状が改善されたと謳われているのは単純に患者の自然治癒力が高かったからなんです。」
「メルキオルさん?」
「私も祖父もこの世を憂いているんです。人々を騙し"祈る"ことで真理から目を背けているこの世を。」
メルキオルは目を見開き、レインに視線を合わせた。
「レイン先生。今の貴方は解毒しかできないかもしれないが、この方を救えるはずです。ソワンの血を受け継ぐ貴方なら──
」
沈黙と共に真剣な表情でメルキオルを見つめるレインとリーナ、そして引き続き書物に目をやるメルキオル。彼の目は次の一手を模索する熱意に満ちていた。