第16話 神の剣
夜の森に、規則的な足音が紛れ込む。
――それは、獲物を追う狩人の歩調だった。
「……感じたわ、間違いなく。“魔”の波動……しかも、さっきより鮮明」
月明かりに照らされたルキウス=サルヴァリスの瞳が、冷たく輝いた。彼の指先が空をなぞるように動くと、淡く青白い魔力の残滓が、夜気に浮かぶ幻のように現れる。風が運ぶその揺らぎは、まっすぐ北東の森の奥――すなわち祭殿跡を指していた。
「ディート、マリオ!距離はない。先行して包囲を。絶対に取り逃がさないこと」
「了解」「了解しました」
二人の部下が音もなく木立の間を抜け、闇の中へと散る。その様子を見届けると、ルキウスはゆっくりと微笑みを浮かべた。
「……いよいよね、ショータイムよ!」
* * *
――その頃、祭殿跡。
微かな風の乱れに、レインが目を見開いた。
「来た……」
「……え?」
薪の火に手を伸ばしていたリーナが振り返る。メルキオルも一瞬で気配を読み取り、背中の荷物を抱え直した。
「囲まれる。火を消して、荷物をまとめて――すぐに離れるぞ」
レインの声に、リーナは驚きながらも頷いた。火に砂をかけ、草葉で煙を払う。食料を袋に押し込み、三人は暗い礼拝室を駆け抜ける。
だが――間に合わなかった。
「止まりなさい、“癒しの魔術”を使う者たち」
鋭い声が、夜気を裂いた。
礼拝室の入り口。朽ちかけたアーチの向こうに、ルキウスが立っていた。手には漆黒の剣。その左右には、剣を抜いた部下たちが控える。
「っ……!」
「走れ!」
レインがリーナの手を引いた。その瞬間、マリオの剣が雷鳴のごとく振り下ろされる。
「逃がすかッ!」
火花。石床を裂く音。その重さは殺意そのものだった。二人は祭壇までかけあがり襲撃者との距離をとった。
なんとかマリオの剣撃から逃れたと思った次の瞬間、レインには逆方向から現れたディートがリーナに対し剣を振りかぶっていたのが見えた。
とっさにリーナ押し倒す形で身を投げ出し、ディートの太刀筋から命からがら救い出した。ディートは勢い余って剣を振るってしまい、身体ごと祭壇に対して突っ込んでしまった。
鈍く、石の砕ける音が夜の静寂を破った。
ディートの剣が、祭壇の側壁を深々と斬り裂き、そのまま彼の体が勢いのままぶつかる。経年で脆くなっていた石造りの祭壇が、鈍い呻き声のような音と共に崩れ始めた。
「なっ……! バカッ、やめ――!」
メルキオルの叫びも虚しく、床下から不自然な風が吹き上がった。地面が脈打つように震える。空気が急に重く、濁った魔力が這い上がってくる。光も熱も吸い込まれていくような、禍々しい気配。
――“封印”が、壊れた。
「……嘘、でしょ」
リーナが崩れかけた祭壇を見つめながら呟く。
その中心に、真紅の亀裂が走っていた。そこから黒い羽が一枚、ひらりと浮かび上がった。
直後だった。
「グアアアアアアアアアアアッ!!」
耳をつんざく咆哮が、森を裂いた。
吹き上がる魔風。石片と灰を巻き上げて、巨大な黒い影が現れる。
翼は十尺を超え、全身を覆う黒鱗は夜のように光を吸い込んでいた。四肢は虎のように力強く、尾は鞭のようにしなり、眼光は赤く燃えていた。
――ジル=サルハ。古の怪鳥が、封印から目覚めた。
「全員下がりなさいッ!!」
ルキウスが叫んだ瞬間、ジル=サルハはその巨躯を弾丸のように跳ね上げ、翼の一撃で礼拝室の柱をなぎ倒した。飛び散る瓦礫。部下のマリオが間一髪で飛び退き、左腕を裂かれながらも後方へ転がる。
「チィ……! 予定外にも程があるわ……!」
だが、ルキウスはすぐさま剣を掲げた。その刃は青白く光を帯び、空気を切り裂くように魔術の輪が浮かび上がる。
「――《深淵を穿つ剣よ、我が意に応じて縛鎖となれ――ヴァルムンク・カデンツァ!》」
詠唱と同時に、空中から無数の鎖が召喚され、ジル=サルハの四肢を縛ろうと襲いかかる。
しかし怪鳥は空を蹴って飛び上がると、翼を一閃。鎖の半分が焼き切れ、衝撃波がルキウスたちを襲った。レインがリーナを抱えるようにして後方に転がり、メルキオルは転がった柱を防壁にして衝撃を防ぐ。
「ルキウス様! このままでは……!」
「あまちゃんは下がっていなさい!こいつは……あたしがやるわ!!」
ルキウスは凛として立ち、剣を構えなおした。額からは一筋の血が流れていたが、その瞳は炎のように燃えていた。
礼拝堂の天井が崩れ落ち、夜の空が剥き出しになる中、ルキウスはただ一人、ジル=サルハの正面に立ちはだかっていた。
巨鳥は翼を広げ、天を仰ぐように咆哮を上げる。腐敗した魔の瘴気が周囲に吹き荒れ、木々が枯れ落ちるほどの凶悪な毒気が広がっていた。
だが、ルキウスは一歩も退かない。
彼の足元に魔術陣が浮かぶ。剣に宿る魔力が、今までにないほど鋭く、高く震え始めた。
「――終わりにしてあげるわ、お化け鳥。」
その声と共に、ルキウスの体が閃光のように駆け出す。
地を蹴り、瓦礫を踏み越え、光速のごとくジル=サルハの懐に飛び込むと、渾身の一撃を――怪鳥の胸部へと突き刺した。
「これが、神の剣の――誇りよッ!!」
剣が肉を裂き、骨を砕き、魔核へと到達する。断末魔の悲鳴と共に、ジル=サルハの巨体がのけ反った。
空が震えた。地面がうねるように揺れ、黒い瘴気が大気中に弾け飛ぶ。
次の瞬間、ジル=サルハの爪が――最後の抵抗のように、ルキウスの脇腹を切り裂いた。
「――ッ!!」
ルキウスの体が宙を舞い、石畳の上に無防備に叩きつけられた。
腹部から迸る鮮血。それだけではない。皮膚の内側を這うような痛み、痺れ、息を詰まらせる苦しみ――それが、ジル=サルハの“猛毒”の証だった。
「……うっ、毒……まで……っ」
ルキウスが唇を噛む。意識がにじみ、視界がぼやけていく。だが、彼はまだ剣を握っていた。魔核は砕いた。怪鳥は倒れた。だが――体が言うことを利かない。
ジル=サルハの巨体が、ゆっくりと、崩れ落ちる。
轟音と共に、古の怪物が息絶えた。
それを見届けた瞬間、ルキウスの膝が崩れた。
(毒が、回ってる……! このままでは……!)
レインはルキウスに駆け寄った。その瞳には、彼に向ける敵意はなかった。代わりにあったのは――
「死ぬなよ……いや、まだ死なせないからな」
彼は迷いなく、二人を振り返る。
「リーナ、メル、手を貸してくれ! この毒を癒す……!」
二人は一瞬戸惑った。つい先ほどまで、自分たちを追い詰めていた敵。それでも――
「……わかりました!」
リーナはレインの隣に膝をつき、そっとルキウスの顔をのぞきこみ、メルキオルは傷口の具合を看立てる。
夜は、まだ深い闇の中にあった。
だが、その中心で、癒しと赦しの光が小さく灯りはじめていた。




