第11話 癒す者として
朝日がゆっくりと地平を照らし始めても、三人は作業の手を止めなかった。
レインは静かに床に座し、目を閉じていた。周囲には、リーナが書き写した《法術憲章》の該当部分と、メルキオルの見つけた緑術の文献が丁寧に並べられている。
メルキオルは患者の容態を注視しながら、時折レインに声をかけ、身体の変化を記録している。
一方、リーナは筆を走らせ、魔術構文を一つ一つ古語から現代語に置き換えていた。
その中心で、レインは深く呼吸を整えていた。
(“緑”とは、大地の循環。命の修復。それは“癒し”の根源……)
彼の掌には、小さく描かれた“再生の紋”が刻まれている。
それは、ソワン族が古代より受け継いできた治癒の構文。その一筆一筆には、大地と水の力を導くための意味があった。
「自然界の力を吸収し、患者へと流し込む……そして、病巣を見定め、その箇所へ直接魔力を送り込むこと……」
レインは幾度も繰り返されたその文言を、自らの中に染み込ませるように呟いた。
掌に集中する。外気、草の香り、微かに感じる土の熱。それらが魔力の流れとして皮膚を通じ、体内に取り込まれるのを感じ取ろうとする。
──だが、魔力は留まらず、すぐに霧のように抜けていく。
レインは息を吐いた。
「……駄目だ。流れが定まらない」
「焦らないでください。魔力の流れは“感覚”の術だそうです。最初は思うようにいかなくても当然だと思います。」
リーナが背後から声をかける。彼女の手元には、緑魔法の概念図とともに、精神集中の訓練法が記されたページが開かれていた。
メルキオルも口を開く。
「自然から力を得ることは、"奪う"ことではありません。自分がただの通り道だと思うのはどうでしょう。」
「通り道……」
レインは再び目を閉じた。呼吸を整え、力を抜く。自らの身体を器にするように意識を向けていく。その瞬間──
足元の土の温もり、草の湿り気、わずかに差し込む光の粒子。それらすべてが、自分の中へと、緩やかに染み込んでいく感覚があった。
(……来た)
レインの掌に、今度はしっかりとした“力”が集まり始めた。
目に見えない、しかし確かな、命の連なりのような気配。
それは青魔法で感じる冷たい“毒の気配”とは真逆の、温かく優しい鼓動だった。
「……感じた。今度は、いける」
彼は立ち上がり、患者の枕元に歩み寄る。
白い鱗状の発疹が浮かぶ腕へと、静かに手をかざす。
次に必要なのは、病巣を「視る」こと。
龍鱗病は、皮膚だけでなく血液と呼吸器にまで影響を及ぼす──その中心を、彼は魔力の感覚で探る。
(……肺だ。肺の奥に、病が淀んでいる)
そこへ、掌から流すように“緑”の魔力を送り込む。
魔力は流れ、緩やかに、確かに、病巣に辿り着いていく。
しかし──
びりっ。
「……っ!」
魔力の流れが急激に乱れ、レインは小さく咳き込んだ。
魔力が跳ね返されたのだ。
病巣の深さと強さが、それだけの力を持っている証でもあった。
「……まだ、足りない」
レインは再び膝をついた。呼吸は荒いが、瞳の奥には消えない熱があった。
「でも、届きそうだった……あと少しだ」
リーナとメルキオルは、黙ってレインの背を見守っていた。
これは試練だ。しかし、確実に一歩前進している。
次の挑戦が、きっと“命”をつなぐ希望になる──。
レインは魔力の代償に深い眠りについてしまった。
そして、夜は再び更けていく。
***
レインが目を覚ましたとき、窓の外では陽がすでに傾いていた。
部屋の中は静かで、暖かな光が差し込んでいる。隣ではリーナが机に突っ伏して眠っていた。
メルキオルの姿は見えなかったが、診察記録の紙束が几帳面に整理されていることから、どこかへ薬草の調合にでも出かけたのだろうと察せられた。
(……半日も、眠っていたのか)
脳の奥がずんと重い。魔力を使いすぎた証だ。
それでも、思い出すのはあのとき掌に集まった温かな力。そして、病巣に届きかけた感覚。
(届きかけた……でも、あのままじゃ足りない)
レインは立ち上がり、ふらつく足で患者の傍らへと戻る。
男の呼吸は浅く、肌の色も悪い。
皮膚に浮かぶ白い鱗状の発疹は広がり、息をするたび苦しげに胸が上下していた。
「……時間がない」
レインは震える手を伸ばし、魔力を集める。
精神の深部にある“緑”の構文を呼び起こし、無理やり魔力を引き出す。
だが──
魔力は霧のように乱れ、力を持たずに空気中へと消えていく。
「……なんでだ。さっきは届いたのに……!」
もう一度。
力を込める。
指先に意識を集中し、魔力を叩きつけるように流し込む──
しかし、病巣は応じなかった。むしろ魔力の暴走が患者の体を苦しめる結果となった。
「くそっ……!」
苛立ちに任せて机を叩いたその音で、リーナが目を覚ます。
「……先生?」
「時間がないんだ、リーナ……このままだと、この人は──」
レインの言葉は荒く、声も震えていた。
焦りが、怒りと混じって噴き出している。
リーナは静かに立ち上がり、彼の前に立って言った。
「先生、落ち着いてください」
「落ち着いてなんかいられるか! このままじゃ──!」
「私たちが冷静でいなければ、患者が死んでしまう!」
その言葉は、深く、まっすぐにレインの胸に突き刺さった。
彼は言葉を失ったまま、リーナの顔を見た。
その瞳には、決意と信頼が宿っていた。
感情に流されず、ただ患者を想い、共に戦おうとする意思が。
──ソワン族の力を使う者として。
──“びょういん”を目指す者として。
「……すまない。焦ってた」
レインは目を閉じ、深く息を吐いた。
荒ぶる魔力を鎮めるように、自分自身の内を静めていく。
(自分は器……大地の力を導くただの通り道)
そう意識すると、掌に緑の光が再び集まり始める。
今度は、焦らず、丁寧に。
患者の胸へと掌をかざし、魔力の流れを緩やかに送り出していく。
病巣へと魔力が向かう。
さきほどとは違う、しなやかで穏やかな流れ。
そして──
ふと、病巣の奥で、重く淀んでいた気配がほどけるような感触を、レインは確かに感じた。
「……届いた。魔術が……届いてる」
患者の呼吸が少しだけ楽になり、胸の動きが安定してきた。
肌の色にも、ほんのわずかながら血の気が戻りつつある。
リーナが微笑む。
「……先生、今のは間違いなく、効果が出てましたよっ!」
レインは静かに頷いた。
焦燥と怒りの渦の中で見失いかけていたもの。
“癒す”ということの意味が、ようやく掌の中に戻ってきたように感じた。
彼はそっと患者の手を握り、心の中で誓う。
この命を、決してあきらめない。




