1.望外
瞼を開けると、どこまでも広大に続くありふれた草原だった。風が吹き、俺の髪を揺らす。なんだか前居た所より空気が美味しい。
無感情に立ち尽くした。だって特にやることがない。
俺は死んだような気がする。死んだ経緯や死因を追憶したが、思い当たる節がなかった。普通に忘れたみたいだ。いや、もしかすると死んでいないのかもしれない。
不意におぞましい咆哮が耳をつんざいた。脊髄反射で耳を塞いだおかげか、耳が少し痛くなるだけで済んだ。
「な……」
恐怖で一音しか出なかった。というのも、障害物のないこの草原で俺より遥かに大きい影が俺の影を覆っている。
息を整えて恐る恐る振り返る。
「は……」
再び一音しか出なかった。
そこには未知の生命体が威嚇するように俺を覗いていた。
「人の子よ……」
「え?喋るの?……」
てっきり人語の話せない怪物かと思った。
「お前が黒魔法使いか?」
「え……?」
目を泳がせていると、眼前の怪物の爪に焦点がいった。俺の身長ほどある強靭な爪は今すぐにでも俺を引き裂いてしまいそうだ。
「黒魔法……?なんだよそれ!」
必死に首を振って否定した。
「間違えたか……」
「はい……?」
先刻まで畏怖を抱いていた強靭な爪が、空へ振り上げられた。確実に俺を狙っている。振り下ろされれば、俺は何分割されるのだろうか。人の形を保てなくなるのは理解した。
ここで気がついた。夢寐の世界か黄泉の世界と想定していたこの世界は、異世界なのだと。
異世界転生──いや、声が変わっていないことから転移だろうか?
俺もついに身を呈して流行に乗れたのだろうか。
──まぁ、すぐ死ぬらしいけど……
『漆黒剣』
どこからか聞こえた謎の厨二病気質な言葉に、怪物は動きを止めた。息すら飲み込んでいたように見える。
「お前!お前が!やはり人の子、なぜ──」
怪物は突如として現れた少女の邪気を纏った漆黒の剣で切り裂かれ、苦悶の声を上げ倒れると、微動だにしなくなった。
「人語を話せる魔族がこんな所まで来てるなんて…」
美麗で腰くらいまでのふんわりした金髪。そして、真っ赤な瞳を持つ美少女がいた。短い魔法の杖を持ち、青と白を基調とした高貴な服装を身にまとっている。
「怪我はない?」
その美少女が不格好な俺を見た。
「あっ、うん……」
「よかった」
風が吹けば、美麗な金髪がこれまた美しく靡く。俺は目と口を開けっ放しで唖然と眺めた。彼女は本当に人間だろうか。
「あの……出来ればさっき使った魔法のこと、他言しないでくれないかしら?」
「えっ、どうして……」
「人助けはしたくて。お礼はいらないから、この魔法のこと絶対誰にも言わないで」
「あ、わかりました」
本当に俺という風采の上がらない男は辟易する。風貌だけでなく、言葉遣いも不格好だ。
「ありがとう!私が救った命大事にしてね。じゃあ」
陶然としている間に金髪の美少女は立ち去っていた。
「あっ……」こんな時でも出る発言が「あ」とは恥ずかしい。「名前、聞けなかった」
それから数日間は金髪の美少女の名前が聞けなかったことに絶望する憐憫たる日々を過ごしたが、半年も経てば平凡で充実した生活を送っていた。
あの後途方もなく歩き、その先にあった村で温和なツアルトという老婆に遭逢した。今はツアルト婆ちゃんの家に居候させてもらい、平和に暮らしている。
「婆ちゃん!今日の野菜、昨日のよりさらに美味そう!」
「そうかい、リアト。その作業が終わったらおやつがあるから少し休みなさい」
「まじか!!今日のおやつなんだろ〜な〜!」
俺は観月李亜斗。リアトでこの村では通っている。多分異世界転移したと思うんだけど、その実感が今のところほぼない。通じない言葉は多少あるものの、日本語が使えるのだ。
この異世界のことについて俺が恐怖心を抱かないのは、ツアルト婆ちゃんのお陰でもあるが、日本で生きていた頃の記憶が曖昧なせいだった。
18歳という年齢も、風采の上がらない凡人の容姿をしていることも覚えている。だが、日本で何をしていたか全く分からない。年齢的には高校生をしていたと思うが…
両親のことも友人のことも思い出せない。俺という人間が日本に存在していたのかも怪しいほどに記憶には何も無かった。
ということで、考えても無駄だと判断した俺は異世界の生活を存分に楽しむことにした。日本での俺がいなかったのなら、この異世界で居場所を作ればいい。ツアルト婆ちゃんは俺に居場所をくれた大切な人だ。
農作業を一段落させ、家に入ると美味そうなパンケーキがテーブルの上に置いてあった。ハチミツが皿に落ちる瞬間を見て唾液を飲む。
席に着こうと椅子を引いたところで、玄関の扉が乱暴に開かれた。婆ちゃんも肩を浮かせる。
怪訝に思って確認しに行くと、黒と赤の禍々しくも高貴そうな服装を纏う少女が息も絶え絶えでいた。
東雲色の髪をしていて、毛先が外跳ねのツインテール。そして、翡翠の瞳を持っていた。身長は150cmくらいだろうか、170cmほどある俺と比べてもかなり小さく見える。
「あの……大丈夫ですか?」
俺は恐る恐る話しかける。
「水……水くれる?」
高貴な服を着た少女の瞳は疲弊しきっていた。
「水を与えてやりなさい、リアト」
「え、うん!」
ツアルト婆ちゃんの神妙な面持ちに圧倒されて小走りで台所に向かった。この世界には水道がないが、井戸から運んだ水を備蓄している。
コップで水を掬い、再び小走りで戻った。そのせいで少しコップから水が漏れてしまった。
「どうして帝国魔道士様がこのような辺境に来られたのですか?」
「それは……」
「水持ってきた!」
婆ちゃんの丁寧な言葉遣いに驚愕しながらもコップを少女に渡した。少女は一気に飲み干し、枯れた植物が再生するかのごとく表情を明るくする。
「ありがとう。助かった。私は"帝国魔道士"。いつか必ずこの恩は返すよ」
「帝国……」
「あんた、一緒に来てくれる?」
唐突に手を引っ張られ、彼女の思うがままに連れていかれた。というか抵抗しても意味がなく引っ張られる。ものすごい力だ。
「あの、ねえ、なんで俺連れてかれてんの?!」
「助けて欲しいから!」
「はあ??!」
意味がわからなすぎて、頭が上手く回らない。俺を引っ張る少女の声や態度から溢れる焦燥は嘘偽りないように思えた。ただ農作業の手伝いをしていた凡夫の俺が人を救うなんてことが出来るのか。
「いたぞ!イヴィアナ様を逃がすな!」
この声を皮切りに数人の鎧をきた兵士や長杖を持った魔道士が現れ、容赦なく攻撃を放つ。
「どういうことだよ!?」
どうやら彼女は逃亡活動中らしい。俺はもしや国際的な犯罪者に手を掴まれているのか?
「ちっ、ほんっとしつこい!」
帝国魔道士と自称していた少女は前触れもなく急停止した。俺が転けそうになったほどの急停止だったが、腕を振り回して転倒は回避した。
「帝国の人間なら、この程度は耐えてくれなきゃ困るよ」
帝国魔道士と自称していた彼女は冷たい声で言う。
「な、なにする気……?」
「捕まっちゃ困るの。少し追い払うだけ」
左手は俺の手を固く握り、右手には黄金の装飾が施された長い魔法の杖を持っていた。杖の頭部には燦然と輝く宝石のようなものが埋め込まれている。素人の俺でさえその宝石が高価な代物だと分かる。
『火炎を起こす(フラン)』
彼女が詠唱すると、杖の先端から火炎が舞い出た。この程度と言いつつ破壊力の高そうな魔法だ。
「いくよ!」
疾走が再開し、喘鳴音をあげながら弛まず走り続けた。ひとまず追っ手からは逃れられたらしく、川の水で水分補給して休憩を取った。俺が半年間過ごした村を一望できるほどの遠くに来てしまった。
いやいや、俺は元から彼女の仲間のような態度でいるが、名も素性も知らない人だ!訝しんで見つめていると向こうから口火を切った。
「ごめんってば。急いでたの。まずちゃんと自己紹介だね」乱れた髪を少し整えて咳払いをした。「私はイヴィアナ・フレイン。さっき言ったようにヘズ帝国の帝国魔道士」
「ヘズ…帝国……?」
──なんだ?その強そうな国は。
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