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ああ、そういえば……決して嫌らしい気持ちはなく、仁は、半裸の悠を思い返す――
傷――消えたんだな。
今思えば、見て見ぬ振りなど、できるはずもなかったのだ。高校一年の、水泳の授業のときの事。悠の露出した腕や脚は、痣や擦り傷に覆われていた。夏の盛りの白日の下、それらは手術室の無影灯に暴かれた病巣のようにも見えた。滝川悠は――確かにいじめに遭っていた。彼女を幼い頃から知るクラスメートが言うに、彼女は、幼稚園でも小学校でも中学校でも、いじめられっ子の身の上だったという。一貫して、いじめられっ子の身の上だったという。しかし、その変人っぷりを見ていると、憐憫の情は埋め立てられ、思わず納得してしまう。出る杭は、打たれる物。いじめられる奴は、何処に行ってもいじめられる。道義上、納得してはいけない事で、加害者どころか傍観者にさえなってはいけないのに、周囲はそれを、容易く許してしまう。それを許しているかのように――滝川悠は笑っていた。頭が足らないから、あんなに無邪気に笑っていられるのだろう。だったら平気だへっちゃらだ。本気で悪ふざけだと思っているのだろうから、いじめはいじりにしかなりえない。加害者も傍観者も、鎮座して動かない意思の下、ダンゴ虫が丸くなって眠るかのように、自分で自分に言い聞かせた。しかし、見て見ぬ振りなど、やはりできるはずもないことだった。痣や擦り傷がなかったとしても、その肌は青白く、その身体は痩せていた。そして弱々しいその息は、ぼんやり眺める花瓶の白花を撫でるばかり。初対面の転校生にだってすぐわかる。その顔は笑っていても――その心は泣いているのだと。真っ二つに叩き割られた黒板に、教師もクラスメートも、己が悪心を見出した。そこまで派手に見せ付けられて、最早受け入れずにはいられなかった。そして、いじめの主な原因である彼女の奇行さえも、一つの個性として受け入れた。仁としては、秀一もまたそうなのだろうが、あんな傍迷惑な個性に限っては、没してしまえばいいのにと思うのだが……。
「入っていいぜ」
ふいにドアが、秀一の声をもって呼び掛けた。それきりドアは沈黙する。夫婦漫才の旋風は、どうやら過ぎ去ったようだった。仁は再び、室内へ。
大きく脚を投げ出して床に座り、煙草を吹かす秀一。そしてその横に、ダブルアイスのようなたんこぶを頂いた悠が、ちゃんとした制服姿で、ちんとした正座を見せていた。
「仁ちゃんに言うべきことは?」
「只今不適切な映像が流れました……しばらくこのままごめんなさい」
「…………」
悠が、額を畳に落下させる。『日本人の社交術』なんていう教本があるのなら、是非とも記載を薦めたいと思える程の、実に堂に入った土下座だった。しかし、まだ躾が緩かったらしく、悠は額を床につけたまま、荷崩れを起こしたかのように、ブフッと笑いを吹き出した。当然秀一の怒りを買い、後頭部を踵で蹴られ、シメられた。
ドッグフードよりも味のない延長戦は捨て置き、仁は、初めて入った女子の部屋を見回した――見回さずには、いられなかった。人生さえもそこに投棄されていそうな、ものの見事な汚部屋がここにはある。部屋の中央には縁の欠けたちゃぶ台、隅には煤けた万年床、カップ麺やコンビニ弁当の脂ぎった容器が所狭しと散乱し、それらの隙間から覗く畳は擦り切れささくれ立っている。初見殺しとはこのことだ。己が幻想とゴミを蹴飛ばして、動物園の臭いが蟠るその部屋に、不承不承ながらも腰を下ろす。




