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「うん! 平気平気、大丈夫!」
滝川悠は――ずれた丸眼鏡を直しもせず、真っ白い歯を剥き出して、無邪気な笑顔を咲かせて見せた。そして、差し伸べられた手に気付かなかったように、跳ね上がって立ち上がり、秀一を撥ねたスキー板と一緒に、ブーツを蹴るように脱ぎ捨てた。仁は、筋肉痛に加え、頭痛さえも感じ出した。そんな彼を見上げながら、悠はエヘエヘエヘエヘ笑っている。そんな二人の背後の引き戸が、みしりと気配を煙らせた――
「こンの……クソロリ脳足りんがよおおお……」
引き戸を支えに立ち上がった秀一が――ブルドッグよろしく、しわくちゃの顔で牙を剥き、そんな唸り声を響かせる。嗚呼、額から血が……。
「いきなりイナバウアーをさせてくれやがって! 技も喧嘩も押し売りか!? いい度胸してんじゃねぇか! 素っ裸にひん剥いて、リボンで綺麗に飾り立て、特殊な性癖の野郎共に売っ払ってやんぜ――っ!!」
秀一は、悠の胸倉を掴み上げた。ランドセルが似合いそうな身体が、いとも容易く吊るされる。
「まあ待て秀一、落ち着けよ」
「止めんな仁ちゃん! こいつみてぇな馬鹿は、痛みなしには躾けられねぇんだよ!」
仁が仲裁に入るも、秀一の怒りは治まらない。そんなことはないだろうと、仁は思う。いくら悠がお馬鹿でも、馬や鹿と同類に扱うのは、さすがに失礼というものだ。秀一から引き離そうと、悠に再び手を差し伸べる。
「わおわおわあわあ」
が、その手をゆっくりと下ろした――高い高いをされているかのように、悠はその笑顔を南中させていた。さすがに失礼というものだ。馬や鹿に、失礼というものだ。
馬だってレースに出走するだろうし、鹿だって煎餅屋を不可侵の領域とするだろう。しかし人間というものは、個体によっては痛みをもってしても躾けることができない生き物なのだと、今更ながらに悟りを開く。加護江市に住む者なら、誰もが彼女を知っていた。滝川悠は――そんな超ド級の変人だった。ペーパーテストでは『ミスったドーナツ』の異名をとり、ラジオ体操中に酸欠に陥り、修学旅行や入学式までをもボイコットする程の、勉強駄目・運動駄目・社会適合能力駄目の、駄目人間の特待生。そんな奴が、一応進学校として名の知れている平馬高校に在籍しているのだから、裏口入学などという噂さえある程だ。かと言って、現代の仙人よろしく、俗界を離れて部屋に引き籠ろうとする質でもない。行方不明になった犬を捜索した末に自分に捜索願いが出されていたり、深夜の学校に侵入し意味不明の落書きをしたうえ花火を打ち上げたり。消極的ではなく、むしろ積極的。積極的に、傍迷惑な奇行を繰り返す変人だった。
自分に劣る人間など道具か玩具ぐらいにしか考えていなさそうな秀一が、あのようにムキになるのだから、変人としては、保証書つきの人物だろう。そんな変人の家にわざわざ上がり込むメリットなんて、本来あろうはずがない。むしろ、デメリットが予想される。今度は自分が、スノーボードで喉笛を搔っ切られでもしたら堪らない。仁は、一刻も早く、この棲家から脱出したかった。しかし、それはできない。虎穴に入らずんば虎児を得ず――いや、虎穴に入らずんば虎を得ず。悠が千尋の親友で、千尋が自分の惚れた女である以上、今更この任務を放棄するわけにはいかない。虎児に噛みつかれるデメリットくらいは、覚悟しなければならなかった。




