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皮肉を含んだ笑みを浮かべる秀一に、仁は鼻を高らかに鳴らしてやった。
不貞腐れているのではなく――嘲笑の音を忍ばせて。
いつもと変わらず、相手は恋を乞うだけの卑しん坊。いつもと変わらず、そんなネタに縋るだなんて、周囲が恐れる頭脳とやらも、天井が知れたというものだ。だがしかし、それは仕方がないことだ。今の自分は、天井を突き破ったその上――天から人智の及ばない幸運を与えられた、そんな存在なのだから。ここに至って、初恋の成就について、悩むことなどあるものか。どちらかと言えば、地の底から与えられたもので、幸運か不運かは結果を見るまでわからないと思うのだが、この男は、相沢仁は、鬼から授かった指輪が、まるで浮き輪であるかのように身を任せ、精神のプライベートビーチに漂いほくそ笑む。彼は思う。なぁ悪友、勝者の笑みを浮かべたいのなら、お前も宝くじの一つでも当ててみろ。
だがそれでも、他にも小さいことながら、食事を疎かにしてしまうぐらいの悩みはあった。それは当然、ブラックリングのことに他ならない――
身体中に――筋肉痛が居座っていた。鏡に映った自分の肉体にうっとりする性癖はないが、それでも仁は、自分の肉体には少なからぬ自信があった。首も腕も脚も丸太のように太く、腹筋も八つに割れている。日常生活はもちろん、体育祭などがあろうとも、こんな鉄の処女に抱かれたような苦痛を感じたことはない。ここ数年、筋肉痛などという現象が人体に存在することさえ忘れていたために、思わず不安になり、父に診てもらったくらいである。しかし原因は、自ずと知れた。今日は11月の13日。ブラックリングを手に入れてから約半月、仁の生活は、劇的に変化していた。生活に、一つの選択肢が付与された。それは、暴力という名の、原始的だが効果的な選択肢であった。これまでは、街で受け入れ難い男達に絡まれても、高いところにある頭をおっことし、受け入れることしかできなかったが、今や拳ひとつで撥ね付けられる。昨晩も、ストリートファイトを挑んできた男から、賞金を頂戴したばかりである。そんなバイオレンスなライフの只中で、一つの道理を知ったのだ。それは――ブラックリングの能力行使に付き纏うリスクである。リングにより前世の記憶を甦らせ、得られた戦闘技術を伝承し、核戦争により荒廃した世紀末に降臨した救世主を気取っていたわけだが、どうやら頭では理解していても、いざ体現する肉体が、悲鳴を上げているようだった。並の天才の偽物ごときに、極められるような拳ではない。この技術でもって毎日人を打ちのめし、それでも酒や博打にも打ち込んでいた伝説の極道さんは、余程すさまじい肉体を持っていたらしい。生まれ変わりの自分は箸を持つのも億劫になっているというのに、全くもって御健勝なことである。とっくの昔の、故人ではあるのだが……。
しかし、どんなに悩んでも、そんな痛みなど、やはり所詮は小さな、針のようなリスクである。むしろ、自分を待ち望んでいるハイ過ぎるリターンを思えば、まさに針治療のように、心地良いリスクと言っても過言でない。人間は、幸せになるべくして生まれてくる。たとえばそう、夢の叶わない不幸など、根治されて当然なのだ。仁は、千尋とお熱く絡み合う、そんな健やかな日々を想像する。ブラックリングの所有者は、この加護江市内に住んでいる。この勝手知ったる地元にだ。5つだろうが7つだろうが、手中にしたも同然だ――人の夢は、どうにかなる。相沢仁は、そう思う。そんなリスクマネージメントのベッドの上に、ごろりと寝っ転がってそう思う。身体中を包む心地良さに、顔中の筋肉が弛み切り、特にその口からは、一筋涎が垂れ落ちた。当然のことながら、藪をつついて蚊を出したとでも言いた気な、そんな悪友の表情なんて見えやしない。秀一は、燻してやりたい気分を噛み殺すようにして、食後の煙草ではなく、ニコレットガムを噛み始める。




