休息の日々
色々とあったけれど、私はついに、カンパニュラとお部屋でだらだら出来るようになった。
場所はザシャさんの家というか、お城だ。ラインフェルデン城。堀に囲まれ、尖塔がいくつもある古城に私はいる。騒ぎが収まるまで身を隠す必要があるからだ。
ザシャさんとヴィルヘルムさんには、なるべく出かけないでくれと頼まれた。事後処理は二人がやってくれるので、言われた通りに私は大人しくしている。
部屋は歩き回るだけでちょっとした運動になるくらい広いし、天井もすごく高くて解放感があり、ずっとここにいても私は全く苦ではなかった。
朝は遅くまで寝ていられるし、豪華なご飯は運ばれてくる。ザシャさんが仕事から早く帰れたら夕食を一緒にするという、完全な穀潰し生活である。ヴィルヘルムさんは、王都の皇帝陛下に何やら報告に行った。
私は大きく広いベッドで、大きな雪豹の姿をしたカンパニュラと寝そべって、ただひたすらに怠惰なときを過ごす。
「カンパニュラの肉球はぷよぷよして気持ちいい」
『そうだろう。地面を歩いてるように見えて、少し浮いているからな。まあこの部屋は絨毯だが』
「気づかなかった、浮いてたんだ」
カンパニュラは元は大地の精霊なのに、大地に足を着けないという。精霊は謎が多い。けど、気持ち良ければ何でもいい。黒くて大きな肉球は、しっとりして、弾力があり、隙間から伸びている毛すら愛しい。
「はあ……最高……」
『そうか』
クールを装っているカンパニュラだけど、喉がゴロゴロ鳴っているのは誤魔化せない。
『これは、デイジーが喜ぶと思って鳴らしてやってるんだ』
「うんうん、喜ぶから鳴らして」
私が考えいることはカンパニュラに筒抜けだけど、喧嘩なんてあり得ない。私とカンパニュラは最高の相性で愛し合っている。
『……』
カンパニュラはちょっとだけ身震いした。辺りに小さな光の珠が、いくつも浮かび上がる。これは精霊の幼体だ。また新しい精霊が生まれて、とてもおめでたい。
「お父さんになった気分よ」
こうして大精霊であるカンパニュラといちゃいちゃしているだけで、精霊の女王の仕事は果たせているのだ。まあ、ろくに働いてないからお父さんとしてはダメな部類だけど。女王であり、お父さんであり――
『変なことは考えなくていいんだぞ』
小さな光は、部屋の中をぐるぐる回って、何処かへと飛んでいった。彼らは、これから光、水、風、大地の精霊へと分化して世界中を駆け巡る。長生き出来た個体は好みの人間を見つけ、契約して、愛を手に入れる。
でもほとんどはそうならない。肉体を持たず精神だけで存在する精霊は、ちょっとしたことで自分が何なのかわからなくなって、溶け消えてしまうのだ。
「元気でね、いい人見つけてね」
『全く同じ気持ちだ』
我が子を見つめるカンパニュラの青い瞳は、心なしか潤んでいた。儚い精霊の命に対して、祈ることしか出来ない。
私はカンパニュラのお腹に顔を埋め、柔らかな毛並みに陶酔した。眠くなってきてしまった。このまま寝ちゃおうかな――そう思ったとき、コツコツと扉が叩かれた。
「ディートリンデ様、お目覚めでいらっしゃいますか?」
私の新しい名前を呼ぶのは、私の専任になってくれた侍女、エルケだ。
「はい、どうぞ」
少し遅めの時間にいつも来てくれる。私はエルケにされるがまま温かいタオルで顔を拭われ、着替え、髪を整えられる。元の金髪は念のため染めてある。この国で一番ありふれた栗色となった髪は、きれいに編んだ上でまとめられた。
「今日もどこにも出かけないから、そこまでしなくてもいいと思うんですけど」
「慣れが大事なのですよ。ディートリンデ様は元々お行儀の良い方でしたが、よりお嬢様らしくしていきましょうね」
エルケは有能な侍女らしく、とても上手に結い上げ、化粧まで施してくれる。化粧台の鏡に映る私の姿は、確かにほぼ別人だなあと思う。そもそも貴族のご令嬢を見たことがないけれど、雰囲気だけはそれらしくなった。
「あとで奥様が、ディートリンデ様をお茶にお誘いになるそうです」
「わかりました」
奥様とは、ザシャさんのお母様だ。愛情溢れる人で、女の子が欲しかったからと私もかわいがってくれている。
「それから、ディートリンデさまに本が届いておりました」
エルケは化粧道具などを載せてきたワゴンの下の段から、分厚い本を取り出す。私がここにいると知っているのは、製薬研究所の一部の人だけだが、その本を見て差出人がわかった。
手紙もなしに、本をそのまま送ってくるような人物はオスカーしかいない。背表紙には『有機合成の基礎』とある。
「それでは、ごゆっくりお過ごし下さい。ご用命の際はベルを鳴らして頂ければすぐに参ります」
本を抱えてため息をつく私を尻目に、エルケは静かに退室した。
「はあ……ひとりでこんなの読んでもわからないんだけど」
オスカーと喋りながら難問に挑戦するのが楽しかっただけで、ひとりではどうにも気が進まない。それでも一応開いてみると、あちこちにオスカーの解説が書き込まれていた。
「ふむふむ、ナトルビスとは、すなわちセンヌトロキタン及びエリエスポロンである……って全然わかんないんだけど?!」
『怠けてばかりでは頭が呆ける。がんばりなさい』
「だってわかんないよ?!」
カンパニュラは気楽に応援してくれるけど、すでに頭が痛い。単語の読み方が合ってるのかも謎だ。
「ううっ……何なのこれ。怪文書?」
部屋にあるソファに座り、とりあえず真面目に本と向き合ってはみるものの目が滑って全然意味が理解できない。なぜなら単語の意味がわからないからだ。私は飛ばし飛ばし、ページをめくった。オスカーの書き込みはあちこちにある。これがオスカーなりの親切なんだろうけど、いつもどこかズレているのだ。
時間はたっぶりあるので、根性で最後の方までめくって、私は巻末に用語の注釈がまとめられているのに気がついた。
「何だ、一般人向けの解説があるじゃない。オスカーの説明はわかりにくいんだから……うん?」
この部分にも、オスカーの書き込みがあった。しかも限りなく小さい字で書かれている。そこにはこうあった。
『こんなところまで目を通したということは、君なりに理解しようとしたのだろう。その努力は認める』
めちゃくちゃ上から目線だ。オスカーはこの分野の天才だし、上からでも間違ってはいないけど。書き込みはまだ続いていた。
『しかし、ひとりではやはり理解出来ないだろう。早くこちらに戻るよう願う。僕は今までずっと平気だったのに、ひとりでは食事が進まない』
「オスカーって……」
ダメな人だなあとため息をつく。ほかに書くべきことはいっぱいあるだろうに、これだ。
ダメすぎて、何とかしてあげなきゃいけないと思ってしまう。あんなに大食いのオスカーの食が進まないなんて、ガリガリになっちゃうかもしれない。
私は大きな窓から外を見る。この城はユーゲンベルク市街地の離れにあり、更に堀に囲まれているので、人影は見当たらない。ただ日程的には、そろそろ戦争が終結するはずである。トムが最後の戦いに出立してから、38日が経った。
戦争が終わったら、皆は受かれて大地の精霊士の噂話なんて忘却の彼方になる。そうしたら戻る予定だ。
確かあと一ヶ所、敵国にとって重要な拠点を占領するだけ。そうしたら、敵国は降伏するだろうと聞いている。
数日後の夜遅く、ザシャさんは若干青ざめて私の部屋に来た。
「落ち着いて聞いてくれるかな……」
「はい」
夜着にガウンを羽織った私は、良くなさそうな気配に胸をおさえた。何の話だろう。
「戦争は終わった。我が国の完全勝利だ。だが、全作戦終了後に、トム・ブレヒトが姿を消したそうだ。それこそ、風のように」
笑えない冗談に反応すら出来なかった。風の精霊士であるトムが姿を消すなんて、容易なことだ。風に乗ってどこへでも行ける。
どうでもいい話ですが、オスカーのモデルは友人の猫ちゃんです。名前も拝借しました。