9 ダ・カーポ
暑い。揺蕩う熱気は湿気を孕んでじっとりと肌に絡みつく。朝だというのに、道の先には陽炎が揺らめいている。課外の為の道のり。それは途方もなく思えた。隣の無月も暑そうで、顔の前で手をぱたぱたさせている。
「よし、今日はサボろう」
「えっ」
突然の提案。驚いているうちにも、無月は踵を返して歩き出した。慌てて後を追う。
「ま、待ってよ、どこ行くの」
「駅」
「駅!?なんで」
「いいからいいから。たまには息抜きしないと頭おかしくなっちゃうよ」
駅に着くと、無月はバス停の時刻表とにらめっこを始めた。今の時間帯の部分を横になぞる。行き先は……海岸のようだった。
「もうすぐ来るみたい、ちょうどいいね」
「海に行くの?」
「うん、暑いからね」
「ほ、本当にいいのかなぁ……」
「大丈夫だよ。授業じゃないんだし、一日くらいね」
「うーん……」
罪悪感というか、背徳感というか。そんなものに苛まれ続けること数分、目の前にバスが到着した。躊躇いつつも整理券を取って乗り込むと、冷房の風が私達を迎えてくれる。一番後ろの席を選んで、二人並んで座る。
平日の朝早く、海行きのバスには人が乗っていない。貸切状態のまま、バスは出発した。もう後戻りできないからこれでいいんだと、離れていく駅舎を眺めながら自分に言い聞かせる。
見慣れた景色を通り越して、広大な海が現れる。空の青さと太陽の光を盗んだ水面がきらきらと揺れる。その光景に目を奪われ、目的のバス停に着いたことにも気づかなかった。慌てて小銭を用意して運賃箱に投入したら、海岸側の歩道に降り立つ。
無月は迷わず海岸に歩みを進める。丸い石がごろごろ転がる海辺に足を踏み入れて足元を見れば、貝殻やシーグラスが転がっている。昔よく拾って集めたっけ。懐かしくなって、水色のシーグラスを手に取って太陽に透かしてみる。
「行くよ、春海」
「えっ、待って」
言われて無月の方を見ると、無月はもう靴下まで脱いで海に向かっていた。私も躊躇いながら、急いで靴を脱ぐ。後先を考えてはいけない。
無月に手招かれ、海水にそっと足を浸す。この気温だ。さすがに水温もぬるい。抜けるような平行の青二つが眼前に広がる。海風が制服の中を通り抜けた。
「えいっ」
「わ、やったな」
無月が水面を蹴る。上がる飛沫。私も負けじと海面を蹴り上げた。はしゃいで笑う無月。青の空間を背景に踊るその姿は、見惚れてしまうくらいに綺麗だった。
はしゃぎ疲れて海辺に座る。もう制服が汚れることなんて考えるのも野暮だ。シーグラスを拾い上げて手のひらの上で転がす無月が、おもむろに口を開く。
「海はね、始まりの場所なんだよ」
「始まりの場所?」
「生命の祖先は海から生まれているからね。だから始まりの場所」
「そうか。確かにそうだね」
「うん。……私ね、始まりと終わりは同じだと思うの。私達は海で生まれたから、きっと海に還る、そう思うの」
「……そうかもしれないね」
シーグラスを地面に転がして、無月は海に目を向けた。幾度となく見た端正な横顔。その唇が動く。
「私、還るなら春の海がいいな」
「どうして?」
「言わせないでよ。意地悪だね」
「えっ?……あ、」
「分かった?」
「うん……意地悪は無月の方だよ」
無月は意地悪だ。そうやってまた私を惑わせるんだから。そしてその度に、無月のことが大切で仕方ない気持ちが肥大する。友達、親友、そんな言葉で処理していいのか分からないほど大きな気持ち。なんだか圧迫されて苦しいような、包まれて心地いいような。これを分かってやっているなら、無月は相当たちが悪い。
さざ波の音を聞きながら、私は海には目もくれず、ただ無月の横顔を眺めていた。