第一話 種を蒔く者
のちに「祖」と呼ばれることになる青年は、この時まだ、自分の名前さえ持っていなかった。
青い光を纏ったその一粒は、地平線まで丈の低い草に覆われた野のただ中に降り立った。
(さて、どんな色にしようか)
見渡す限り、淡い若草色の草原が風にそよいでいる。
ところどころに、名も知らぬ白い小花と、ぽつりぽつりと孤独に生える灌木が影を落とすばかりで、木陰と呼べるほどの茂みはどこにもない。
空だけが妙に高く、薄い水色に晴れ渡っている。
白皙の肌。
緑の瞳。
後ろで一つに束ねた銀灰色の髪が、草を撫でる風に揺れている。
彼がここへ降りてくるまでに、世界のほうにも順番があった。
まだ何も、色を持たない世界があった。
名前もなく、上も下もなく、ただ一つの巨大な星だけが、漆黒の中で気の遠くなるほど長い間、独り回っていた。
回り続けるうちに、星は自分自身の重さに耐えかねたのだろう。
ある日、内側から静かに壊れた。
爆発というより、長く長く止めていた息を、ようやく吐き出したような壊れ方だった。
弾けた瞬間だけ、闇は目もくらむような白光に染まり、そしてまた何もない暗さへと戻っていった。
そのため息から、二つの気配が生まれた。
一方はかたちを欲しがり、法則を欲しがり、物事に順序をつけたがった。
もう一方はかたちを厭い、法則を厭い、際限なく崩れ続けることだけを望んだ。
名づけるなら秩序と混沌――そう呼ぶしかない二つの力は、争うでもなく溶け合うでもなく、擦れ違うたびに小さな火花のような"ゆらぎ"だけを散らした。
その火花は、まだ誰の目にも映らない色――白でも黒でもない、名前を持たない透明な光だった。
ゆらぎは降り積もった。
降り積もって、いつしか「理」と呼ばれる薄い膜のようなものが、世界をそっと包み始めた。
理はまだ何も裁いていない。
善悪も、勝敗も、正しさも、この時点ではどこにも存在しなかった。
ただ、物事が起こる順番だけが、少しずつ決まっていった。
世界というのは存外、律儀な性格から始まるものらしい。
その順番が整った頃、無数の光の粒が種のように降ってきた。
神々に仕える「使徒」たちだった。
降り注ぐ光は一つひとつ違う色を纏っていた――赤く燃えるもの、白く澄んだもの、深緑に沈むもの、そして誰よりも静かな青。
彼らはそれぞれ好きな場所に降り立ち、授かった力で、この白紙の世界に色を挿していく仕事に取りかかった――やることは山ほどあるのに、誰一人として急いだ様子はなかった。
降りる途中、隣を落ちていく赤が、こちらの手のあたりを覗き込んできた。
「一色か」
「一色です」
「混ぜたほうがいい。緋を足せば力が乗るし、白を足せば束ねるほうが利く。足したぶんだけ隙が減るんだ。私は三色にした。三色にした子は、たぶん誰にも負けない。……負けなければ、こちらは数えずに済む。幾つ生んで幾つ残ったかを、あとから数える羽目にならない。それは、ずいぶん楽なことだよ」
「楽ですか」
「楽だ。あんたも一度、足してみるといい」
「……数えないで済むのと、数えなくてよくなるのとは、違う気がします」
「同じだよ」
「そうですか」
赤は返事を待たずに、先へ抜けていった。
抜けていく側の光のほうが、こちらより明るい。
いちばん静かな青が、いま、この草原にいる。
彼は両膝をつき、手を組んで、長いこと祈っていた。
草原には彼以外、動くものが何もない。
祈りを聞く相手すら、本当にいるのかどうか怪しいくらいの静けさだった。
それでも祈りは届いたらしい。
指先に、深い青が滲み出してきた。
迷いのない、けれど底の見えない青――知識の神から授かった「命の水」だった。
組んだ手の隙間から漏れる光だけが、風にそよぐ若草色の中で、そこだけ夜明け前の湖面のように静かに揺れていた。
さっきの赤の言い分は、理屈としては通っている。
欲張れば欲張るほど、生まれてくる子は隙のない完成形に近づいていく――そういうことに、たしかになっている。
青年は器の中の青をしばらく見つめたまま、動かなかった。
器の表面には、彼自身の顔が映り込んでいる。
緑の瞳が、迷うように揺れていた。
(余計なものを、混ぜたくないな)
理由を訊かれても、うまく説明できなかっただろう。
ただ、澄んだ知恵だけを注いだ子どもたちを見てみたい――使命感と呼ぶには、いささか個人的すぎる願いが、彼の中にあった。
なぜかそう思った、それだけだった。
彼はそれ以上、理由を探すのをやめた。
魂の器に、青い水だけを注ぐ。
混ざりけのない色は器の底で静かに渦を巻き、内側からぼんやりと光り始めた。
草原全体が、一瞬だけ深い藍色に染まる――昼と夜のあわいに一度だけ空が見せる、あの短い群青の時間によく似た色だった。
パン、と乾いた音を立てて、器が弾けた。
生まれたのは、青みがかった白い肌の子どもたちだった。
剣も振れそうにない、炎も呼べそうにない、ひどく華奢な体。
指先まで透けるような薄い肌の下に、藍色の血管がうっすらと透けて見える。
それでいて、瞳の奥にはこの世に降り立ったばかりとは思えないほど澄んだ光が宿っていた――藍青色の、よく研がれた刃のような瞳。
その中の一人が、生まれてまだ数秒だというのに、青年の顔をまじまじと見上げた。
歓声も、産声すらも上げない。
ただ、値踏みでもするような静かな目で、じっと見つめてくる。
生まれたばかりの生き物が浮かべる表情としては、いささか値切り交渉じみていた。
「……」
青年は、目元だけでかすかに笑った。
歓迎の言葉より先に観察が来るとは、なかなか大した子だ。
この分だと、これから先も一筋縄ではいかなそうだった。
「僕はヴェルド」
初めて、自分の名を声に出した。
誰に教わったわけでもない名前が、なぜか迷いなく口をついて出た。
子どもは瞬きだけを返した。
まだ声にはならないが、確かに何かを理解した顔だった。
細い指がヴェルドの袖をきつく掴んだ――器用な握力とはとても言えない、頼りない力だった。
それでも離す気配はなかった。
名前とは、案外こんな瞬間に、乞われもしないのに勝手に居着くものらしい。
「これから、ずっと一緒だよ」
ヴェルドは子どもを抱き上げた。
想像していたよりずっと軽い。
軽すぎて、少し不安になるくらいに。
腕の中に収まる重みが、まだ何一つ定まっていない小さな命の、ほとんど全部だった。
「怖くないよ。僕がいるから」
風が強く吹いて、草の匂いを乗せた空気が二人を包んだ。
子どもは声も上げずに、ただヴェルドの胸に顔を埋めた。
指先の冷たさと、皮膚越しに伝わる小さな鼓動――それだけが、この草原で唯一確かなものだった。
しばらくの間、どちらも動かなかった。
風の音だけが、二人の間を通り過ぎていく。
ヴェルドはその仕草に、声には出さない誓いを一つ立てた。
――この子たちを、二度と一人にはしない。
まだ何の根拠もない誓いだった。
何と戦うでもなく、何から守るでもない。
ただ、腕の中の重みが軽すぎることに対する、ごく個人的な決意表明のようなものだった。
それでも彼は、その誓いを軽々しいものだとは思わなかった。
同じ空の下、遠く離れた場所でも、数えきれないほどの光が次々と降りていた。
地鳴りが先に届いた場所もあった。
赤黒く濁った混沌の色をした水がそのまま注がれ、地を揺らして群れをなす者たちが生まれた――後にオークやゴブリンと呼ばれる者たちである。
彼らは生まれた瞬間から声が大きく、器の外にまで赤茶けた泥が飛び散るような、賑やかな誕生だった。
静けさという概念そのものを知らずに生を受けたと言ってよかった。
燃えるような緋色を色濃く混ぜられた場所では、山がそのまま人の形をとったような巨躯が立ち上がった。
地響きが一つ鳴って、それで自己紹介は終わりだった。
多くを語らない性分は、生まれた瞬間から定まっていた。
隊列を組んで現れた者たちもいた。
白銀と緋色を注がれ、整然と、あるいは静かな威厳を纏って生まれ落ちた面々である。
鎧のように滑らかな肌の光沢が、朝焼けの色を弾いていた。
彼らがいずれ何と呼ばれることになるのか、この日はまだ、名づけられていない。
黒鉄の色を宿し槌を握るように生まれ落ちた者、藍緑の波間で鱗を光らせる者、褐色の樹皮のような肌で大地と語らうように根を張る者、掌に乗るほど小さな、淡い金の光を宿す者、琥珀色の毛並みを風になびかせて駆け出していく者――色とりどりの生が、申し合わせたわけでもないのに、ほぼ同時多発的に世界のあちこちで芽吹いていた。
まったく統率が取れていないという点でだけ、彼らは奇妙に一致していた。
後にこの同じ星を分け合うことになるとは、まだ誰も想像していない。
遠くの喧騒と産声が、風に乗って微かに届く。
「ずいぶん、にぎやかだな」
腕の中へ向けて言ったが、返事はない。
返ってこないと分かっていて言ったので、それはそれで構わなかった。
腕の中の子の重みと、草原に満ちる青草の匂いだけが、今の彼のすべてだった。
まだ何色にも染まっていない世界が、地平線の向こうまで広がっている。
若草色の草原、名も知らぬ白い小花、薄い水色の空――そのどれもが淡く優しい色をしていたが、まだ物語と呼べるほどの濃さは持っていなかった。
この先どこかに、もっと深い緑が待っているのだとしても、今のヴェルドが知る由もない。
ヴェルドはその淡さを見渡して、しばらくの間、ただ立ち尽くしていた。
腕の中では、藍青色の瞳がまだじっと彼を見上げている。
値踏みは、まだ終わっていないらしい。
――この静けさが、いつまで続くのか。
今はまだ、誰も知らない。




