第5話 古海くんはホットケーキが焼けない
それからというもの、私の学校生活はだいぶ変わった。
まあ、古海くんと一緒に登校したからといって、幽霊が急に消えたりはしないんだけど。
でも、古海くんがあの幽霊を投げ飛ばした日から、何故か「それら」が怯えているような気が、する。なんなら、幽霊が電柱の陰に隠れているところを初めて見て、思わずじっと見つめてしまったくらいだ。良くないのに。
もちろん、まだそういうのは少数派だ。たまに向かいから笑顔で走ってくる全裸の男とかはやっぱりいるし(幽霊なのか変質者なのか、すぐには分からなくて本当に怖い)、でもそういうものは古海くんが容赦なく投げ飛ばしてしまうので、私が襲われることはやっぱり格段に減ったのだ。
「琥珀、最近あんた、なんか楽しそうだね」
朝ご飯の途中でお母さんに言われて、少しだけぎくっとした。慌てて口の中の卵かけご飯を飲みこむ。
「そ、そう?」
「そうだよ。何、例の転校生の子? 隣の席なんだってね。その調子だと、仲良くやってるんだ?」
お母さんはにやにやしながら、自分の分の納豆ご飯をかきこんでいる。私はちょっと頬をふくらませた。
当たり前だけど、お母さんは隣の席の転校生が男の子だって知ってるし、今のは完全にからかってる目だ。
「仲はいいけど……古海くんとは、そういうんじゃないからね」
「分かってる分かってる。あんた、男女関係なく仲良くなるタイプだもんね」
そんなことないけどな、と思う。男女関係なくどころか、もう六年生だっていうのに、仲がいい友達なんてゆかりちゃんくらいだ。そりゃ、古海くんとは一緒に登下校してるけど……
声に出そうになって、慌てて口の中に卵かけご飯をつっこむ。ここ数日、古海くんと登下校していることは、なんとなくお母さんにも言えないでいた。
お母さんは豪快に麦茶をコップ一杯飲み干すと、目を伏せて静かに呟く。
「琥珀には、その目のことで苦労かけてるからね……琥珀のこと、怖がらない友達が増えたなら、あたしは嬉しいよ」
「心配しすぎだよ、お母さん」
お母さんは、私が幽霊を見てしまうのが、自分からの遺伝だと思っているらしい。私が幽霊に怯えたり、そのせいで周りの人に避けられたりするたびに、多分、こっそり傷ついている。
だから、私が外で遊ぶことも、友達の家に行くことだってちょっとしぶるのだ。古海くんとも、学校で仲良くすることは喜んでくれるけど、一緒に登下校してるって言ったら、もしかしたら心配させてしまうかもしれない。
だから、秘密にしておかないといけないのだ。
「それはそうと琥珀、彼氏とかできたりした? 転校生の男の子とは友達なのは分かってるけど、にしては話題に出す回数が多……」
「ごちそうさま! 行ってきます!」
「あ、ちょっと! もうちょっと話聞かせてくれたっていいでしょうよ!」
「朝読書に遅れちゃうからー!」
嘘だ。最近はめちゃくちゃ時間に余裕を持って家を出ている。
お母さんもそれをわかっているはずだけど「忘れ物しないようにしなよー!」とだけ玄関口で叫んで、それきり、私が家を飛び出す様子を見送ってくれた。
やや曇った空の下を、一気に通りの向こうまで走り抜ける。そのまま角を曲がって、家が見えなくなったところで、大きく息を吐いた。
電柱のそばに立って私を待ってくれていた古海くんが、ぱたんと本を閉じる。
「賑やかだね、神崎さんの家」
「うそ、き、聞こえてた?」
家から出て最初の角を曲がってすぐの場所とはいえ、やっぱりお母さんは声がちょっと大きいのかもしれない。
私は両膝に手を当てて息を整えながら、顔だけ上げて古海くんを見た。
「ごめん、お待たせ、古海くん」
「待ってないよ、待ち合わせ時間から二分も経ってないし」
「いつもぎりぎりなのが良くないんだよ……ごめんね……」
どうしても朝は苦手だ。陽の光は眩しすぎて毛布でガードしちゃうし、目覚まし時計は止めるまで二度寝のことしか考えられない。もちろん止めたら二度寝する。土日は三度寝とかもする。古海くんとの待ち合わせがあるから、最近はなんとか起きれているのだ。
「古海くんはすごいね、毎日ちゃんと起きれてて……」
「いや、僕も朝は苦手だよ。朝に殴る用のクッションを部屋に置いてるし」
「朝に殴る用のクッション」
思わずオウム返ししてしまった。使い道が限定されすぎてる気がする。古海くんは真面目な顔で頷いた。
「目覚まし時計を中に仕込んでて、上手く殴らないと音が止まらないようにしてるんだよ」
「予想以上にありえない起き方してる」
「上手く殴れなかったら手が変なところに当たってものすごく痛いから、すぐ目が覚めるよ」
「もしかしておすすめされてる!?」
絶対に無理すぎる起き方だ。痛いのも嫌だし、私はクッションを殴りたいわけじゃない。
「なんか、すごいね、古海くん……」
「何が?」
彼はきょとんとしていた。本当に自覚がないんだなあと思いながら、学校に向かって歩き出そうとする。
「あ、神崎さん、ちょっと待って」
何? と振り向こうとした私の肩が後ろから掴まれる。おかげで首だけ振り返るような体勢になった。
古海くんが、何やら片足をまっすぐ上に持ち上げている……え、何?
頭の中にハテナマークが浮かんだ私の後ろで、古海くんは思いっきり、その片足を地面に叩きつけた。
だぁん! みたいな音と共に「ギィアッ!」という聞くに絶えない悲鳴が聞こえた。私は一瞬で硬直する。
古海くんは平然とした顔で、そのままぐりぐりと足裏を地面に擦りつけた。おそるおそる視線を下げても、そこには何もない。
「うん、もういいよ」
「待って絶対そこに何かいたよね!?」
「うん」
「うん!?」
それが何か? みたいな顔をしないでほしい。切実に。
「な、何がいたの!? さっきの何!? 何の声!?」
「地面に人間の顔があった。神崎さんのスカートの中、覗こうとしてたよ」
「最悪すぎる!」
ぎゃん、と私は喚いた。聞かなきゃよかったかもしれない。タイツ履いてきて本当に良かった。
普通に考えたら、幽霊だからといって人間の顔を踏みつぶすのはあまりに容赦がなさすぎるんだけど、そういうのは今後ともぜひ踏みつぶしてもらいたい。
「こういうの、最近は減ってきたと思ってたのに……!」
「うん、なんか今日、割と多いね」
「待って古海くん、もしかしてさっきから向こうの道路の端っこで、ずっと『こんにちはぁ』って言ってる男の人って……」
「ああ、首折れてるね」
「し、死んでる!」
道理でなんかめちゃくちゃ首傾げてるなあと思った! 私もそこそこ視力は高いはずだけど、それ以上に古海くんは目がいいということが分かった。
でも正直ちょっとそれどころじゃない。
「目つぶって歩いていい!?」
「いいよ。手とか繋ぐ?」
「繋ぐ!!」
叫んだ私の手がぎゅっと握られる。温かくて骨ばった、男の子の手だ。申し訳ないけど今は私の生命線である。
同級生の誰かに出会うまでは何があっても離さない、という意志をこめ、強く握り返した。古海くんは恥ずかしがるでもなく、平然と私の手を引いて歩き出す。頼もしい。できれば毎日お願いしたい。言えないけど。
道の曲がり角でずっと「こんにちはぁ」と言っている男の人については、そばを通りすぎたときに変なうめき声と、倒れる音がした。
多分、古海くんが殴った。もうそれでいいや、と私は投げやりに思った。
◇◇◇
「ねえ琥珀、あんた本当に大丈夫なの?」
家庭科の調理実習の時間に、ゆかりちゃんがこそっと話しかけてきた。別の班なのにどうしたんだろう、と思いながら、私は手元のボウルを見る。
「うーん、あんま大丈夫じゃないかも。メレンゲ全然できない。泡立てが足りないのかな……」
「え、琥珀、もしかしてその泡立て器で作ろうとしてる? メレンゲなんて手動で作れるわけ……じゃなくて!」
ゆかりちゃんはずい、と顔を寄せてきて、私は思わず少しのけぞった。結った髪の先がボウルに入りそうになって、慌ててボウルをずらす。
目を白黒させた私の前で、ゆかりちゃんは真剣な顔をした。怒っているみたいだ。眉がつり上がって、小さく口が開かれる。
「古海蓮のことに決まってるでしょ!」
ひっそりと叫ぶという、割と難易度の高いことをしたゆかりちゃんは、私の向こうでフライパンに火をつけている古海くんを見た。彼の手元には、既に液体と化したホットケーキミックスがある。
「あんた最近は古海蓮と学校来てるし一緒に帰ってるでしょ! 何事なわけ!? あたしを差し置いてなんで琥珀とあのボクネンジンが帰ってるのよ!」
「ぼ……」
ボクネンジンとは……? と思ったけど、多分悪口だと思う。なんなら古海くんのこと、呼び捨てになってるし。
「ゆ、ゆかりちゃん、落ち着いて。料理中だから。普通に危ないから」
「ホットケーキ焼くだけなんて何も危なくないでしょ。先生ももっと難しいやつ作らしてくれてもいいのに」
「みんながみんな、ゆかりちゃんみたいに兄弟の晩ご飯作れちゃうような人じゃないからね」
「ま、確かに。現にそこのボクネンジンは焦がしてるみたいね」
「えっ!?」
私は思わず振り返る。何をどうしたらそうなるのかというくらい、古海くんの手元のフライパンからは煙が上がっていた。




