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第4話 助けは求めたほうがいい




 いつの間にか、あんなに降っていた雨はやんでいた。良かった。これ以上変なものを見なくて済む。

 そこで、はたと気づいた。落ちた傘と、自分たちの体を交互に見る。


「……古海くん、めっちゃ濡れてる、私たち」

「濡れてるね」

「なんでそんな冷静……ていうか古海くん、自分の傘は?」


 彼はふと動きを止め、何かを思い出したように「ああ」と道の向こうを見た。


「走るのに邪魔だから置いてきた。神崎さんが変なものにまとわりつかれてるのが見えたから」

「へ、変なもの?」

「さっきの男と、そこの女」


 古海くんが私を――いや、私の背中にすがりつく女を指さす。


 私は息を止めた。

 ああ、気づかない振りをしてたのに。


 さっきまでずっと私にへばりついていた、髪の長い女が唸《うな》る。歯をガチガチと鳴らして威嚇《いかく》している。


「うゔ……ゔぅぅゔゔゔゔぅぅぅぅ……!!」

「黙って」


 古海くんがぴしゃりと言う。女は嘘みたいに唸るのをやめた。


 彼は音を立てながら近寄ってきて、私の腕をぐいと引いた。同時に私の背中から女をべりっと引き剥《は》がす。


「これ以上まとわりつくなら、怒る」

「ゔ、ゔぁ……」

「帰れ」


 怒りの滲《にじ》む声だった。女は悔しそうに唇を強く噛むと、私たちに背を向けて、ゆらゆらと通りの向こうに去っていく。何度か立ち止まってこっちを振り向こうとしたけど、古海くんが瞬きもせずにじっと見ているので、諦めたみたいだった。


「こ、古海くん……」

「見えてるなら分かると思うけど、もう何もいないよ。大丈夫」


 大丈夫、と、私は半分くらい呆然《ぼうぜん》としながら繰り返した。古海くんはそんな私を見て、本当に何もいないことを証明するかのように、私の背をぽんぽんと撫でた。同時に、もう片方の手で私の手をぎゅっと握る。


「大丈夫だよ、神崎さん」


 重ねて言われる。さすられた背が、握られた手が、温かい。


 それは確かに人の体温だった。幽霊っていうのは、何故か分からないけれど本当に冷たいのだ。さっきの女が背中に張りついていたときも、雪をそのまま背中にすり込まれているみたいだった。

 あったかい。人の手の感触がする。

 もう大丈夫なのだ、と、染み込むように理解した。


「神崎さん? どうかした?」

「だい……」


 じょうぶ、と答えようとした私の目から、ぼろっと雫が落ちた。

 幽霊たちはもういない。でも、それと大丈夫かどうかは別の話だった。張《は》り詰めていた糸が唐突に切れてしまって、涙が止まらない。

 古海くんがぎょっと目を見張った。幽霊を二人も目の前にしたときは何も動じていなかったのに、私が泣いた瞬間、おろおろと手を伸ばしたり引っ込めたりしている。


「か、神崎さん、こっち」


 彼は私の手を引いて、家の中に入るように促《うなが》した。私は言われるままに鍵を出して、震える手でロックを外す。

 ずびずびと泣きながら手を引かれ、「タオルどこ?」「着替えある?」という彼の声に従って顔を拭き、どうにか着替える。古海くんもびしょ濡れだったから、私はなんとか余っていたジャージを渡して、着替えてもらった。後から考えると、ぐしゃぐしゃに泣きながらよくそんな気遣《きづか》いができたなと思う。


 顔を洗って、着替えて、リビングで一瞬ぼうっとしたところで、私は唐突《とうとつ》に「お客さんが来てるんだから、おもてなししなきゃ」と思った。もしかしたら現実逃避に近かったのかもしれない。

 台所に行って、棚からココアの粉と、マグカップを二つ取る。


「古海くん、ココア、飲める?」


 ずびずびの声で言ったからか、古海くんはちょっと驚いた顔で私とココアを見た。一拍《いっぱく》の間が空いて、頷きが返ってくる。


「手伝うよ」

「ありがとう……ちょっと待って、牛乳沸かすから……」


 私は鍋を手に取って、冷蔵庫から取り出した牛乳を流し込んだ。そのまま火をつけながら、ココアの粉を用意する。

 沸いた牛乳を、ココアを入れたマグカップの中に少しだけ入れる。古海くんが心得《こころえ》たように、さっとスプーンを差し出してくれた。


「神崎さんの家でもそうやって作るんだ」

「うん、先に少しだけ粉を溶かして、練ると美味しいんだよね」

「牛乳ないときはお湯でもやるけど、牛乳のほうが美味しいよね」

「わかる……」


 意外なところに仲間がいて嬉しい。ココアくらいどの家でも作るけど、意外と、家によって作り方も違うのだ。

 たとえばゆかりちゃんの家では、お菓子でも料理でも早く作って兄弟たちに渡さないと喧嘩になるとかで、ココアの粉に直接熱湯を大量に入れるやり方が定番だ。なんなら、ココアに水を投入してレンジでチンとかもするらしい。初めて知ったときは衝撃だった。

 そんなこんなで粉と牛乳を練った後に、さらに牛乳を入れて、できあがったココアを見る。ふと思った。


「古海くん、クッキー乗せる?」

「えっ」


 古海くんの目が見開かれる。一瞬で瞳孔《どうこう》がぎゅんっと小さくなって、私のほうがびっくりした。彰人くんや幽霊たちに襲われたときとは違う、本当に驚いたときの顔だ。だって口まで開いているし。


「あっごめん、クッキー、苦手だった? えっと、薄くて、お湯に浮くクッキーがあって、ココアに乗せるとおいしくて……お母さんがたまに、やってくれるんだけど……」


 わたわたと説明しながら冷や汗をかく。もしかして、古海くんの家ではありえない文化なのかも。ココアにマシュマロを入れることはあるけど、クッキーは乗せたことないって友だち、多かったし。

 けれど、彼はゆるゆると首を横に振った。


「ううん、僕も、よくやるから……同じ人がいると思ってなくて」

「えっ、本当!?」


 頬が熱くなるのを感じた。急いで冷蔵庫からクッキーを取り出す。

 お母さんがよく買ってきてくれる銘柄のクッキーだ。少しだけざらめがついていて、すごく薄くて、クッキーっていうよりクラッカーに近い。私はそれを、古海くんと私のココアの上にそれぞれ乗せた。

 古海くんはマグカップの中をまじまじと見て、ちょっと嬉しそうに笑った。私も嬉しかった。同じ感覚を持っているだけで、同じ形のココアが好きってだけで、私はもう、すっかり安心しきっていた。


 ココアを飲んでようやく落ち着いた私を見て、古海くんもほっと息を吐く。そして、少しそわそわとした表情で言った。


「あのさ、神崎さん……」


 ちょっと口ごもりながら、何かを言おうとして、でも結局、ちびちびとココアを飲み始める。私がぼろぼろ泣いちゃったから、多分、慰《なぐさめ》めようとしてくれたんだろう。

 けど、古海くんはあんまり雑談が得意じゃないので、結局、さっきの幽霊の話に戻ったようだった。


「君のお母さんは、君の目のこと……君が、ああいう奴らを見れるってこと、知ってるの?」

「知ってる……ていうか、お母さんも、同じなんだよ。見える人なの」

「そっか、良かった」


 良かった? と首を傾《かし》げる私の前で、古海くんは既《すで》に勝手知ったる様子でおかわりのココアを入れ始めている。


「見えない人にとっては、見える人は理解不能な人間でしかないこともあるから」


 数秒かけて、彼の言葉を噛み砕《くだ》く。

 ああ、心配してくれてるんだ。

 やっぱり古海くんは優しい人だ。幽霊を殴るのはちょぅと、いやかなり変だけど……


「……お母さんは、見える人だけど……見えなかったとしても、私を信じてくれる、と思う……」

「いいお母さんだね」


 へら、と笑う。そうなのだ。私のお母さんは、仕事で忙しくていつも夜まで帰ってこないけれど、私の話をきちんと聞いてくれる。

 私が怖い思いをしたことを馬鹿にしないし、嘘をついているとも思っていないし、風邪を引いたときや怪我をしたときと同じくらい心配してくれるのだ。


「古海くんの親……お父さん? は、見える人なの?」

「見えないけど、殴《なぐ》れる人だよ」

「殴《なぐ》れるんだ……」

「見えてるんだったら殴《なぐ》ってみたらいいんじゃないかって言ってくれた人だよ」

「お父さんからの入れ知恵なんだ……」


 話を聞く限り、古海くんのお父さんもかなり変な人なんじゃないかと思う。幽霊が見える人にするアドバイスは、どう考えても「殴ってみたら?」ではない。


「神崎さんは、ああいう奴らに好《す》かれやすいのかもね」

「え、分かるの?」

「見れば分かるよ。異常《いじょう》だからね」

「異常なんだ、私……」

「帰れって言っても帰らない奴らは執着《しゅうちゃく》が強いから。さっきの二人、どっちもちょっと反発したでしょ。ああいうことはあんまりない。二連続っていうのも、ちょっと珍しい」


 古海くんは私をまっすぐ見て、少し身を乗り出した。そうして私の肩にぽんと手を置く。


「――あれもそう」


 彼は私の後ろを見ていた。


 ――ぺたり、と、音がする。

 ぺたり、ぺた、ぺた、ぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺた。


「お前も帰れ。神崎さんの家に近《ちか》寄《よ》るな」


 ぴたり。

 背後で聞こえていた音が一瞬止む。でもすぐに、怒ったように、ばん! と何かを叩きつける音がした。


「振り返らないでね、神崎さん」


 小声で付け足されて、私はどうにか頷《うなず》く。言われなくても、振り返ったりしない。極力《きょくりょく》見ない、聞かない、触《ふ》れない、気づかない。そうするのが一番いいのだから。

 古海くんはじっと、私の背中越(ご)しに向こうを見ている。

 懇願《こんがん》するように、ぺた、ぺた、という音がして、でも古海くんがきっぱり「ダメだ、帰れ」と言う。しばらく睨《にら》み合っていたようだったけれど、ややあって、音はふっつりと途絶《とだ》えた。


 私はゆっくりと息を吐《は》く。

 やっぱり何かいたんだ。あれかなあ、と思うものならある。夜中に目を覚ますと、何故か子供がぺたぺたと窓を這《は》いずり回っていることがあるのだ。

 重力なんて完全に無視しているんだけど、そもそもああいう奴らが物理《ぶつり》法則《ほうそく》を守っていたことなんてない。


「やっぱり神崎さん、すごく好かれるタイプなんだね。普通はこんな短時間に、こんなに押し寄せることないよ」

「そうなんだ……やっぱりこれって多すぎるんだ……」

「多すぎるね」


 きっぱり言われてしまい、苦笑するしかない。何せ小さいころからずっとこうなので、普通が何かも分からないのだ。

 それにしても、古海くんはすごい。私は、幽霊が出たときにあんなにはっきり目を合わせて「帰れ」とか言えない。言って、逆ギレされたらと思うと怖すぎる。


 古海くんはそんな私をじっと見て、こくりとココアを飲んだ。そして、一言。


「ねえ神崎さん。学校、一緒に行く?」

「え?」

「帰りも一緒に帰れるよ。神崎さんの家、僕の帰り道の途中にあるから」


 一瞬思考が止まって、思わず声が裏返《うらがえ》った。


「えっ……い、いいの? 迷惑《めいわく》じゃない? ああいうの、しょっちゅう出るよ」

「殴るから大丈夫だよ」


 それは全然大丈夫じゃない気がする。

 そんなにぽんと解決策が出てくると思わなくて、私はぽかんと口を開けた。不意《ふい》に目の前で空がまっさらに晴れて、広すぎる青が見えたときみたいに、何も言えなくなってしまう。


「神崎さん?」

「え? あ……」


 ハッとして、こくりと唾《つば》を飲む。どうしよう、迷っていたら気を使われてしまう。気を使われて、やっぱりいいやとか言われたら、困る。

 だって、こんなに周《まわ》りが静かなのも、視界に何もちらつかないのも、背中がぞわぞわしないのも、初めてなのだ。これを、どうしても逃したくないと、思ってしまう。


 でもそれじゃ、古海くんを利用しているみたいじゃない?


 気づけば、口の中がからからに乾《かわ》いていた。ぐるぐる、ぐるぐる、考える。もう訳の分からないものにまとわりつかれるのも、目の前の存在が生きているかどうかに怯《おび》えるのも、本当に嫌なのだ。

 でも残念ながら、この現象が解決したことはない。だから、助けを求めるやり方が分からない。


「神崎さん」

「あ……」

「僕は言ってもらわないと分からないから、聞くね」


 古海くんの互《たが》い違いの瞳が、まっすぐに私を見ていた。


「僕と学校に行くのは嫌?」

「い……嫌じゃない」


 反射的に首を横に振る。古海くんは一つ頷《うなず》いて、次の質問をした。


「あいつらにまとわりつかれるのを我慢《がまん》できる? 無視できる?」

「たぶん……で、きる……いつもなら……」

「熱が出ているときは? 疲れているときは? 落ち込んでるときは?」

「え……」

「自分の体や心が疲れて重くて、思い通りにならないときに、あいつらのことをきちんと判別《はんべつ》して、無視できる?」


 こくりと、喉《のど》が鳴った。できるだろうか? 今日みたいに「間違えた」ときに、咄嗟《とっさ》に知らないふりをして、何も見えてないふりをして、何も知らない人の、ふりをすることが……


「で……できない、かも……」

「うん、じゃあ、一緒に学校に行こう」


 はくり、と喉を震《ふる》わせた。いいの? と頭の中で自分の声がする。いいの? そんなこと、してもらってもいいの?

 私の視線が下がるのと同時に、古海くんは少し身をかがめて、私と無理やりにでも目を合わせた。


「神崎さん」

「あ……」

「人は、助けてって言えないと、困るんだって」

「……」

「あ、ちょっと違うかも……古海さんが言うには、助けてって言えなくても助けてもらえることはあるけど、助けてって叫べる人のほうが、生存確率が上がる、って」


 古海くんのお父さんって、本当に、どういう人なんだろう。

 私は心臓がばくばく鳴っていたのも忘れて、ちょっと気の抜けたことを考えてしまった。


「でも、僕は思うんだ。人は、助けを求めるのにも練習が必要なんだって」

「……」

「だから、助けてって言う練習、したほうがいいよ。人って、糸をいつもぴんと張りながら生きてはいけないから。いつか糸が切れたら、助けてって言えなくなるよ」


 私の手を取って、古海くんは言った。


「どうしたい、神崎さん?」


 私はずいぶんと悩んだ。言っていいのか分からない。だって、迷惑じゃない? 私は何も返せないのに。


「大丈夫」


 また、同じ声で、同じ言葉が降ってくる。

 古海くんの言葉が降ってくる。


「言えるよ、神崎さんなら。大丈夫」


 どうにか、本当にどうにか、口を開いた。


「……た、助けて、ほしい……」

「うん」

「幽霊、殴るのは、あんまりよくないと思うけど……でも、ああいうのに出会ったら、私、今度こそ動けなくなっちゃうかもしれないから……」

「うん」

「そうなったときに、助けてほしい……」

「うん、分かった」


 なんでもないことのように頷《うなず》いて、彼は私の両手をぎゅっと握った。約束だよ、と言うように、上下に何回か、軽く振る。

 こわばった筋肉がほどけていくみたいで、私はほっと息を吐いた。

 助けてって、言っていいんだ。お母さん以外にも、言える人がいるんだ。


 そう思ったら、ゆっくり大きなお風呂に全身を浸からせたときみたいに、私の体がじんわり温かくなっていった。ココアはもう、飲まなくても良かった。


「じゃあ、また明日。七時半に迎えに来るね」


 古海くんはココアを飲み終えると、なんでもないことみたいにそう言って、自分の家に帰っていった。

 そして私はその日、ほとんど初めてと言っていいくらいに静かな夜を過ごした。夜中に一度も目が覚めなかったのも、金縛りに遭《あ》わなかったのも初めてで、後からちょっとだけ泣いてしまったのは、古海くんにも秘密だ。


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