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第3話 幽霊は殴れる



 晴れた日はまだましだ。カラカラした空気が嫌なのか、人が元気になるからなのか、幽霊が出たとしてもそれなりに大人しい。逆に、梅雨つゆの時期とかは最悪だ。どこにだって出る。

 玄関を開けたら目の前に立っているし、落とした消しゴムを拾おうとしたら机の下にちぢこまってこちらをのぞくし、ありえない場所から体の一部だけが見える。

 だから、本当に雨の日は嫌いだ。早く、早く家に帰らないと……


「おーい」


 びくっ、と肩が揺れた。

 思わず足を止めて、もう数十メートル先に見える自分の家を見つめる。


「おーい、おかえり〜!」


 雨が途切とぎれることなく降る中で、聞き覚えのある高い声が聞こえた。溌剌はつらつとした動きで、こちらに向かって手が振られている。ひとつにまとめたポニーテールが揺れて、私はあっと声を上げた。

 お母さんだ。

 まだちょっと遠くて影しか見えないけど、玄関の入口に立っていて、私に向かって手を振っているのが見えた。


 今日は早く帰って来れる日だったんだ、と思って、口が思わずゆるむ。私が雨嫌いだって知ってるから、心配して、早く仕事を終わらせてくれたのかもしれない。


「おかあさ――」


 声を上げて、手を振り返そうとして、そして。

 その人の唇が耳まで裂けて、口の中が絵の具でりつぶしたかのように真っ黒になっていることに気づいた。


 ひゅっ、と喉が鳴った。

 あ、これ、ダメなやつだ。


 私は咄嗟とっさに手を下げて、自分の足元を見た。耳の奥で、心臓の音がどくどくと鳴っているのが嫌に大きく聞こえる。


 まずい。あれは違う(・・)

 違うのに、見てしまった。というか、手まで振ってしまった。


 おおーい、という声がもう一度聞こえて、肩がびくっと震えた。高い声だった、ように、思う。お母さんが、私を呼ぶときの、少し高くて、優しい……あれ?

 あの「お母さん」は、私のことを、名前で呼んだだろうか?


「おい、聞こえてるんだろ」


 急にどす黒い声がして、咄嗟とっさにぎゃっと声を上げそうになる。まるで機械を通したようにざらついた、男の人の声だ。こんなのお母さんじゃない。お母さんなわけがない!

 必死で悲鳴を噛み殺して、耳をふさぐ。確かにふさいだのに、四方八方から、くぐもった声で「おい」「おおーい」という声が聞こえる。涙がにじんで、私はその場に立ちすくんだ。


 ああもう、馬鹿だなあ。お母さんがこんな時間に帰ってくるわけないのに。なんのために、鍵を持たされていると思っているんだろう。

 雨の日だからって、お母さんが仕事を切り上げて帰ってきてくれたことは一度もない。そんなこと、分かっていたはずなのに。私を育てるために、働かなくちゃいけないんだから。


「なあ」

「聞こえてるんだろ、なあ」

「おい、おおぉぅい……」


 自分を呼ぶ声がどんどん低く、大きくなる。どういう仕組みなのか、その声が、壊れたスピーカーを通したみたいに大きくなったり、小さくなったりする。

 だから嫌なの、と私は心の中で叫んだ。

 雨の日は声が上手く通りづらくて、視界も悪くて、だから、こういう風に「間違えてしまう」ことが多くて。

 せめて学校に行くときと帰るときは止んでくれたらいいのに、天気が思い通りになったことなんかちっともない。

 

 どうしよう、と思う。もう聞こえないフリは意味がないし、見えないフリだってバレてる。その証拠に、お母さんじゃない何かは、ゆらゆらと体を揺らしながら、確かに私を見て、大きく一歩を踏み出した。

 今まで気づかなかったけれど、異様に背が高い。私の五歩ぶんくらいを一歩で歩いている。こんな距離、ないようなものだ。

 合わせて声が耳の奥で反響する。


「おおーい、なあ、おぅーい」

「聞こえてるよなあ、なああああああああああ」


 あと三歩。

 声がずっと耳の奥で鳴っている。私はずっと動けない。だって家の前にはアレがいる。なんならもうすぐ目の前にまで来る。ああもう、なんであれをお母さんだなんて思ったんだろう? よく見たら顔なんか全然違うし、なんなら女の人ですらない。猫背で、傷だらけの、男の幽霊。唇はナイフでズタズタにされたみたいに裂けているし、歯は全部ないし、口の中は血まみれだ。だからさっき、口の中が真っ黒に見えたんだろう。


 あと二歩。

 逃げたい。どこに? だって家はすぐそこだ。幽霊の真後ろ。帰れるわけがない。家に入れない。家に入ったって、すぐそばからこの声がしたら?


「なあ、そっち、行くからなあああああああ」


 どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう!


「一緒に、行こうなああああああああ」


 泣き出しそうなのに、目からは涙の一滴も出ない。叫んでしまいたいのに、喉はからからに乾いていて、悲鳴のひとつも出ない。

 ああ、あと一歩だ。

 心臓がばくばくと鳴っている。もうダメだ、と思ったときだった。


「神崎さん、こっち」


 悲鳴を上げるひまもなかった。片腕をぐんと真後ろに引かれて、思わずたたらを踏む。私の頭をわしづかみにするはずだった幽霊の腕はくうを切った。

 私はいつの間にか、誰かの背に隠されるようにして、かばわれていた。


「警告する」


 聞いたことのないくらい硬く、低い声で、目の前に立つ古海こかいくんが言った。


「今すぐ帰れ。神崎かんざきさんには何もするな。ここから消えろ」


 気づけば傘も落ちていて、あたりにはものすごく激しい雨が降っている。古海くんも傘をさしていなくて、ずぶ濡れのままそこに立っていた。


「帰れ!」


 古海くんの怒りに共鳴でもしたみたいに、びかりと雷が光った。私は思わず悲鳴をあげる。少しして、やや離れたところでどおんと地面を震わせる音がする。

 男は少しだけ迷ったようだった。古海くんが、にらみつけながら重ねて言う。


「警告を聞かないなら――怒る」

「……お、ぅ、おぅ、おおぉぅーい」


 壊れた機械みたいな声を響かせて、男の腕が伸ばされた。だめだよ、と私は思った。そういうやつは、私たちの話なんか聞かないんだよ。私たちの言葉なんか届かないんだよ。そう言いたかったけれど、喉に言葉が張り付いて、ろくに音も出せない。

 逃げて、古海くん。

 かろうじて、それだけが、私の喉からこぼれおちた。


 古海くんが私を一瞥いちべつして、すぐに男へ視線を戻した。ゆっくりと、互い違いの瞳を細める。


「警告はした」


 低く、うなるように言って、彼は躊躇ちゅうちょなく男の手を掴む。


 そしてそのまま、家のへいに叩きつけるようにして、幽霊をひと思いにぶん投げた。


「え」


 ばごん! みたいな音がして、男が塀にぶつかる。そのまま地面にべちゃりと倒れて、大きく水飛沫が上がった。

 古海くんは止まらなかった。流れるようにそちらへ向かうと、何故か男の体に馬乗りになる。


「え、ちょ、古海く……」


 そしてなんの躊躇ためらいもなく、男の顔を殴りつけた。


「古海くん!?」


 べこんっ! みたいな音が聞こえた。なんだかよく分からないけど、絶対に人体から聞こえないはずの音だ。いや、幽霊なんだからいいのかもしれない……え、いいの?

 私は一瞬いっしゅん混乱こんらんしていた。古海くんは握りこぶしを真っ直ぐ振り下ろして、男の顔を正確に殴りつける。なんかちょっと殴り慣れてるのが怖い。下半身が全くぶれていない。普通そういうのって、体のじくとか足とか、ぶれぶれになるものなんじゃないの?


 べきっ、ばきっ、べごっ、みたいな、到底とうてい、人を殴っているとは思えない音がして(人じゃないのだけれど)、私は思わず息を詰めていた。

 古海くんはずっと無表情だったけれど、その目は、彰人くんの拳を止めたときと同じで、限界まで見開かれていた。またたき一つしていない。互い違いの色をした目の奥で、雷鳴のような光がひらめいている。


 私はもう大混乱だった。傘をし直すことも忘れて、ただ呆然と古海くんを見るしかない。

 なんでこんなことになっているんだろう? 正直、今は幽霊よりも、古海くんの方が数倍怖い。無表情で化け物みたいな男を殴っている男の子なんて、怖いに決まっている。


 けれど、古海くんが、私のために怒っていることは分かる。

 怒っているから、許せなかったから、こんなことをしているのだ。


「こ、古海くん」


 呼びかけた途端、古海くんの動きが鈍くなった。私は今だ、と思って、なんとかかんとか、彼を止める言葉をしぼり出した。


「……ゆ、幽霊って、あんまり殴ったりしたらいけないと思う……」


 これ本当に正しい? と冷静な私がツッコミを入れたけれど、冷静じゃないほうの私が「黙ってて!」と叫んだので、冷静な私は引っ込んでしまった。

 古海くんがゆっくりと私を見る。瞳孔どうこうが思いっきり開いている。蛇みたいだ。ひかえめに言ってもそんじょそこらの幽霊より怖い。


「て、ていうか……幽霊って、殴るものじゃない、と思う……」


 冷静な私が「だからそこじゃなくない?」と言ってきた。そして再び、「ガタガタうるさい!」と、冷静じゃない私が一喝いっかつした。


 古海くんは不思議そうに首をかしげる。


「……今、殴れてるよ」

「うん、いや、そういうことじゃなくてね……! ていうかそもそもなんで幽霊を殴ろうとしたのかって話で……!」


 嘘でしょ、全く全然これっぽっちも通じていない。そんなことある?

 焦りまくる私の姿を見て何を思ったか、古海くんはちょっと虚空こくうを見つめて考えた後、唐突に言った。


「神崎さんは目がいいから、こういうモノも見えると思ったんだけど……当たってた?」

「えっ、や、うん、見えるけど……」

「ああ、そうだよね。じゃあ知ってると思うけど、見えるってことは、殴れるってことなんだよね」

「は……え……!?」

「だから、殴ってる」


 やばい。全然知らない価値観すぎる。根底にある倫理観りんりかんと常識が全然違う。

 私は慌てた。もしかしてここで古海くんの間違いを正せるのって私だけ? そんなことある!?


「いやだからその、あのね、そんなもの殴るのは危ないって話をしててね……!」


 私がなんとかねじ曲がった感覚の軌道修正を試みようとしたとき、古海くんの真下で組みせられていた男が、聞くに絶えない叫び声を上げた。獣じみた大絶叫に、私はぎゃっと飛び跳ねて耳をふさぐ。

 男がぎろりと私を見て、そして。


「うるさい、黙れ。神崎さんが怖がってる」


 古海くんの正確無比せいかくむひな裏拳が、男の顔を襲った。

 ぐごっ!? という悲鳴じみた声を漏らした男の首が、べきりと折れ曲がって横倒しになった。私は喉の奥から細く悲鳴を上げる。

 男の目がうつろになって、叫び声もやんだ。そのまま、すうっと透明になって消えていく。


 私はぱちくりと瞬いた。消える幽霊なんて初めて見た。いつのまにかいなくなっていることはあるけれど、目の前で消えたことなんて今までなかった。


「力尽きたんだと思う。僕は専門家じゃないから除霊とかできないけど、多分、しばらくは出てこないよ」


 そうなんだ……

 納得するのも変な話だけれど、私はもうすっかり疲れていて、それならそれでいっか……という気持ちになっていた。


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