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吸血鬼狩人、宿敵と同居する  作者: せいいち
日付不明 三年目以降
104/104

吸血鬼のその後:吸血鬼シャンジュが冥王の城に到り貴腐ワインを得るまでの経緯

 茂みの隙間、腐葉土の山、木の股に空いた洞。

 暁理人の宿敵たる吸血鬼の痕跡はそこで途切れていた。どれだけ探してもそこから先がまったくない。

 吸血鬼は冥府に落ちた。

 頬には人肌の暖気、硫黄にも似た己の臭い、聞こえるのは己の耳鳴り、夜目も効くはずなのに何も見えない。すべてが己を跳ね返す、五感は全く頼りにならない真っ暗闇。死の世界とは夜ではないが、夜に近く、吸血鬼にも親しい。

 どうやら俺は死んだらしい、と吸血鬼は直感する。

 あいつの手にもかからずに? この俺がただ野垂れ死んだと?

 悩みながらも目覚めたまま、辺りを何かいないかとさまよう。

 次第に感覚が明瞭になる。死の世界に己が馴染んでいき、解像度が上がっていく。高い山の上にいるように、魂が冷えていく。同種の臭いに導かれ、吸血鬼は硫黄の臭いが満ちた荒野を行く。びゅうびゅうと吹き荒ぶ風、悲鳴に似た風鳴りの音。星の一つも見えない夜空に、生き物の死骸の山。

 そして見上げると、城が見えた。

 たぶんあれは冥府の王が住まう城だろう、と吸血鬼は直感する。

 俺はあの城に座す冥府の王にご挨拶を差し上げなければならないのだろう。死んだままここで暮らしていくにはとりあえず挨拶だ。それが早いに越したことはない。偉いうえに自分を殺せるようなやつに礼を失するのは良くないし。いや二度殺されることは無いだろう。同種なら必死に嘆願すれば食客として扱ってくれるかも、もしかしたらペットとして飼ってくれるかもしれない。

 どっちもごめんだ。

「やあ。こんにちは、シャンジュ」

 冥府では振り返ってはいけない気がして、吸血鬼は声が自分に追いつくのを待つ。

 見かけた顔には見覚えがある。ケーキを焼いている最中にクラッカーを鳴らし、クリスマスの昼をジャンクフードで過ごした。いい思い出とは言えない。

「あー、確か理人の知り合いの……」

「君にはミハエルと名乗ったね」

「そうそう、ミハエル。天使が地獄で何してんだ」

 天使はかつて見た冬の装いと確か同じような格好で、彼の隣を歩いていた。茶色のダッフルコートに赤緑の大判マフラーで、下半身にはいたジーンズとスニーカーを見なければ、まるで季節感がない。もう春だぞ。

 思い返せばこちらも季節感もへったくれもない恰好をしている。第二の肌、いつものコート。だらけるために着ていたTシャツとステテコはボロボロ。脱いだ方がマシだ。それに理人に買って貰った、初めて自分にぴったり合った運動靴。

 くそっ、と足元を蹴る。火山岩のようにざらざらしていて砂利っぽいが、削られず地続きのままだ。何もかも釈迦の手のひらの上みたいだと、吸血鬼の腹の虫は収まらなかった。

「魂の管理、嚮導。天使の仕事は冥府より始まるものだ。私の仕事は理人を導くこと。そして今は君も」

「何言ってんだお前」

「私に気にせず好きに進み給え。導くまでも無く、君が歩む道は正しい」

 言われずとも歩くさ。吸血鬼は道を行く。

 疲れもせず、吸血鬼は歩き続ける。

 何日も歩き続けたような道程の後、ようやく城にたどり着く。

「ノックとかした方がいい?」

「それなら上にある。ドアノッカーと言って、あのぶら下がった環をドアに打ち付けて使うのだ」

「えーん、届かないよぉ……」

 冥府の城は遠近法で小さく見えていたようだ。吸血鬼は頭上遥か上におそらくあるドアノッカーを仰ぎ見て、身の丈十八メートルの鉄の巨人用の城だ、と嘆く。

「ドアの隙間も君なら十分通れるだろう」

「えー、それって失礼じゃない? あんたはどうすんだよ」

「私はドアを必要としない。君が行ってから行こう」

「ミハエル、死の世界の王様に俺の失礼をとりなしてくれる?」

「いいや。冥府では生きた人間が謁見をしたいというなら、礼儀は殆ど気にされないよ」

「そんならいっか。でもなんかあった時はちゃんと俺は悪くないって言ってよ」

 大きな扉の隙間を通り、吸血鬼は城に入り込む。

 閻魔帳らしきハードカバーがずらりと並んだ迷宮のような通路を抜け、明らかに何かありそうな天井を調べようとして壮麗に飾り立てただけのシャンデリアに乗りかかって落とし、塔を登り、間違った道を来たらしいことに気付いて引き返し、謎のアスレチックを烏の姿で通り過ぎ、ちょっと疲れたので古のトイレらしい小部屋で休憩する。

「こりゃ大冒険だな、リアルでゲームやってるみたい」

「楽しいか?」

「いいや、全然。あっちこっち行き来しなきゃならないって辛いよ。道中楽しくないし……」

 牧神パンの模様が施された木箱の便器の上に座り、吸血鬼は壁にもたれ掛かる。不潔であるが、疲れのためには気にしていられない。気にする性質は持ち合わせていない。そもそも吸血鬼が清潔不潔を気にするほうがおかしいんだ。ここ二年程で染み付いた価値観に、狼のようにぐるぐると咽喉を鳴らす。

 羽の無い天使は吸血鬼の前に立ち、瞬きもせずにただじっとしている。

「いや、お前がいるんだからお前に聞きゃいいんだよ。この城の主はどこにいる? 吸血鬼様は?」

「私だって何もかも知っているわけじゃないんだ。だが、この城にいる吸血鬼が一日の三分の一以上の時間を過ごす場所は知っている。地下だ」

「真逆じゃねえかクソッ!」

 怒りのままに立ち上がり、吸血鬼は先導しろ、と天使に指差す。

「この城は観光するに素晴らしいと思っていたが、一緒に巡る人がいなくってね。楽しかったよ」

「そんな勝手に付き合わされてたの!?」

「私に何も聞かずに城を歩き始めたのは君のほうだろう。恨まれる筋合いはまるでない」

 しらじらしく手をひらひらと振る天使に観光と道案内をさせつつ、吸血鬼の王がいるという地下に向かう。

 カビ好みの薄暗くじめじめした通用路を行った先、気を付けて探していなければ見逃すほどの暗い洞穴にはベッドルームがあった。吸血鬼のベッドとはすなわち棺桶である。しかし王の寝室にしては狭すぎる。寝室と言うより仮眠室だ。一人の側仕えもいなければ寝覚めの用意も何もない。

 石造りの棺桶は既に開いていた。痩身の貴公子然とした雰囲気の青年が、生成り色のシャツとパンツ一枚で棺桶の端にぼんやりと座っている。どうやら寝起きらしい。うつらうつらと頭が揺れている。

 烏の濡れ羽の様な髪を俯かせ、毒々しい緑の目をこちらへ向けている。

「……おはようございま~す?」

 小さな声で様子を窺い、ご機嫌麗しゅう、と吸血鬼は声を掛ける。 

「吸血鬼のシャンジュ・ダスクと申します。陛下にひとことご挨拶を申しあげたく」

「臣従するなら勝手にしろ。この城のどこへなりと住むがいい。退け」

「御親切にどうも」

 吸血鬼の王らしき青年が立ち上がり、穴倉から出ていく。吸血鬼は壁に寄って縮こまる。背は己より少しばかり小さく、年齢はわからない。

 目ヤニやら涎の跡やらが消え去り、波打った髪の中に潜んだフケの一つ一つが消え去り、絡みが正され後ろで緩くまとめられる。突如として現れ背を覆った外套の下で、肌着が冥府の支配者に相応しい服に組み変わっていく。一歩歩みを進める度に装束は整い、顔にも溌溂とした精気が宿る。

 ヒエー長生きし過ぎた吸血鬼ってこんなことも出来るのかすげーなぁ、と十代を終えたばかりの吸血鬼はただただ感心する。

 すれ違う瞬間ちらりと合った緑色の目に、吸血鬼はどこかで見た狂気を思い出した。

 とりあえず足音を殺して後ろからついていく。彼がどこに行くのか興味があったし、この広い城の中で見逃すと探すのが大変だ。面倒は避けたい。吸血鬼は長時間の探索で疲れていた。

「話がしたいなら待っておれ。大事な時間だ。朝にはお前との時間が取れるだろうよ」

 下っていく背を追う。吸血鬼は穴倉の入り口のわずかな段差に座り込んだ。さっき言った通りに、あの吸血鬼の王子様は戻ってくるだろう。少なくとも次眠るときには。吸血鬼の眠り、則ち朝には? 吸血鬼は天使にひそひそ聞く。

「冥府に昼とか夜とかあるの?」

「吸血鬼が執心の吸血鬼狩人の、故郷の時間を標準時にしているらしい。人が暮らすには基準が必要だからな」

「人? 冥府に生きてる人がいるの?」

「一人。あの吸血鬼が庇い立てしてなんとか命を繋いでいるようだ」

 ああそういえば、と思い出す。己の宿敵、狩人の義父。冥府に降りたとか何とか言ってたっけ。

「それって理人のお義父様だったり?」

「そのようだ」

「関心ない?」

「関心は必要だろう」

「全然話してくれないじゃないのお前。ミハエル。なんで?」

「君に話せることは養老の滝の如くあるが、全てを語るには時間がない。とりとめもなく無限に語られては困るだろう?」

「困らせたことある?」

 天使ミハエルは下唇を突き出し口を噤む奇妙な微笑みを浮かべ目を反らした。あるんだな。

「それならさ、あの王様が帰って来るまで、俺が知らない理人のこと教えてよ。どう? おしゃべり好きなんだろ?」

「君から、彼から直接話を聞く楽しみを奪いたくはないのだけど。その点どう思っている?」

「あいつ、自分に都合のいい話しかしてないじゃん? あいつが話したがらないようななんか恥ずかしい話してくれよ」

 それから天使は吸血鬼に、恥ずかしいとはどのような基準であるか、どれくらい具体的であるか聞いてから、狩人の話をたっぷり数時間かけてした。

「……ごめん、今あの人の基準で何時ぐらい?」

「あの人とは?」

「あの吸血鬼の王様だよ。やっべ、俺たち何時間くらい話し込んでた?」

「今の時間なら客間だろう。冥府の魔物を統率したり、魂にちょっかいを掛けたりする以外は、夜じゅうあの人間の顔を眺めている」

「なかなかキモい趣味してんのな、あの王様」

 座り過ぎて痺れた尻を叩き、吸血鬼はまたも天使に案内をさせる。あっちこっち同じ場所を行き来するのも飽きるが、待っているのはもっと飽きる。天使の声を聴くのももう、飽きていた。

 思えばこの飽き性でどうして宿敵との面倒ともいえる生活を続けられていたのか。まったく我がことながら不思議だと思い返す。

 天使の案内で行く道には、珍しく人間大の扉しかなかった。あったとしても常時開け放たれていて錆び付いていたり、壊されていたり穴が開いていたり。人間には吸血鬼のように実体を変えることは容易ではない。霧に変身してドアをすり抜けたり、背丈の倍以上ある段差を跳んで進むなど、あまり出来ない。

 お義父様なら生身でもアスレチックを跳んで行くぐらいは出来そうだ。吸血鬼は己のとりとめのない思考を訂正する。

 アパートのように同じようなドアが並んだ廊下にたどり着く。おそらくここが客間なのだろう。薄暗く、ドア同士の間隔はかなり広い。等間隔に火明かりが並ぶ。部屋が広いのかもしれない。壁も分厚いのかも。掃除が大変そうだ。

 天使の人差し指が、他のドアと違う所がぱっと見当たらない一部屋を差す。吸血鬼は一応、ノックをしてからドアを開ける。

「失礼しま~す」

 暗い部屋に、廊下のような明かりはない。戸が開いていなければ外のように永遠の真っ暗闇だろう。首を巡らし中を見渡す。広いベッドがある。

 閉じられた天蓋の奥でぎろりと緑色の目が光っている。

 怒ってる。間髪入れずにドアを開けたのが不味かったかな。

「ここには、私の大切な客人がいる。別の部屋に行け」

 吸血鬼の王がカーテンの隙間から手だけを出し、こちらを指差す。ちりちりと胸の奥が焦げるように痛い。原始的な呪いだ。

 ベッドには誰かが寝ているらしい膨らみがある。大きさからも枕元に置いてある荷物からも、あの親父らしいと推測できる。似た別人かも知れないが。

「……大切な客人に、何をしてたんでしょうね?」

「安眠を守るのも城主の務めだ」

「穴が開く程見られてて、果たして安眠できるんですかね?」

 さっさとドアを閉じてしまえばいいものを。呪いもかけられ、それなのに己はどうして会話してしまっているのか。生来の煽り癖め。

 王様が椅子から立ち、ドアのほうへ歩いて近付く。

 吸血鬼は後退しない。怖れるほどの脳内アラートは鳴っていないし、見上げるほど脅威でもない。正常性バイアスというものが働いているらしい。だから多弁なんだ、畜生。どうしようもない自分。

「大人しく出て行け。彼が起きる前に」

「残念。もう起きてるみたい」

 手のひらの上に余裕が生まれた。吸血鬼は王様の後ろを掌で指す。

 天蓋が開き、靴と脚絆に覆われた脚が床に降りた。

 ちらりと見える姿は一年以上に見たあの時のままだ。冥府に置いて時間は関係ないらしい。ついでに着替えもしないらしい。

「やっぱり! お久しぶりで」

 手を振る吸血鬼の手首を捻り上げ、王様は腕力に任せて廊下へ放り投げる。軽いぬいぐるみのように廊下の端まで吹っ飛ばされた向こうで、再び布団に寝かせようとする王様のいやに穏やかな声が聞こえた。

「僕のことはうろ覚えだったのに、理人の義父は覚えていたのだな」

 天使ミハエルは変わらず無感情な笑顔で、床に背を付けた吸血鬼を見下ろしていた。

「あんな強烈な人間、なかなか忘れられるもんかよ」

「どうしてあの人と顔を合わせようとしたんだ? 吸血鬼の王が執着し囲い込んでいる人間だぞ。怪我をしないわけがないだろう」

「怪我ねえ。俺が死ぬほど怪我したほうがいいんじゃないの?」

「うーむ、うん、まあ。そうだねぇ……」

 吸血鬼は痛む背を擦りながら起き上がり、廊下の向こう、何やら穏やかならぬ調子で話している様子の寝室へと再び歩きはじめた。

「いざとなったら取りなしてくれるって言ったし!」

「いいや。言ってなかったし」

「えー?」

 天使は思っていたより愉快な奴なのかもしれない。今更ながら吸血鬼は考える。ぼりぼり頭を掻きフケを散らかす。代謝があるのを見るところ、時間の経過はあるらしい。思えば吸血鬼の王様の寝起きは、目ヤニや寝癖が付いていた。

「そもそも彼は死の世界の王さまではない。永遠の命を以て冥府に取り入り城を奪った僭称者。冥府はそう認識している」

「そういうの、冥王様って言わない?」

「死を支配しているわけではないからな。住んでるだけだ。王というべき権威は持っているがな」

「じゃなんで冥府の王さまじゃなくてあの吸血鬼のところに案内したわけ?」

 名前の分からない吸血鬼と主人公である吸血鬼、二人いるから地の文がややこしいな、と思いながら吸血鬼は天使に問う。長い廊下の端から端までかなりの距離を吹っ飛ばされたから、のんびり歩いてもいくつか質問する時間はとれる。

「君は確か吸血鬼のところに案内してと言ったな」

「ややこしいやつ!」

 例の部屋のドアは開け放たれており、足元をハンドル付きの鉄製悪魔が守っている。

 吸血鬼が部屋に入ろうとすると、丁度出て行こうとする人間とぶつかった。あのひょろ長い王様の感触ではない。伝統的吸血鬼狩人の逞しい胸板だ。気を抜いていたらまた吹っ飛ばされるところだった。

「失礼」

「いーえ、こちらこそ。お久しぶりです、ええと、お義父様」

 吸血鬼は改めて手を振った。肩越しに見える吸血鬼の王様は緑色の目を光らせている。

 おお、怖い怖いと肩をすくめて、吸血鬼は己が宿敵の義父に向き直る。

「まだ奥様の魂は見つかりませんか?」

「ああ。まだ。君はどうしてここにいる?」

「シャンジュだよ。俺の名前。覚えてない?」

「名前は聞いていなかったな……理人はまだ君を殺せていないようだ」

「元気元気。立ち話もアレだしさ、部屋入っていい?」

「この部屋で誰の血も吸わない、と約束できるなら」

「するする。あんたの血を吸えるほど怖いものなしじゃないよ」

 それを聞いて、老いたる吸血鬼狩人は若い吸血鬼を部屋に招く。

 吸血鬼の王は部屋の中央、テーブルの上の燭台に炎をともしていた。

 丸いテーブルのそばに置かれた椅子は二つきり。誰かが立つことになる。

 老いたる狩人は真っ先にベッドの天蓋を開き、端に座った。普段ならばもう寝る時間なのだろう、心なしか眠そうだった。

「教えてくれ、我が銀の矢。それ、とは、どういう関係だ?」

 問いかける王の無表情を、蝋燭の火が不気味に照らしている。

 吸血鬼は椅子に小さく膝を抱えて座り、もしかしたら多分自分にも義父になるかもしれなかった男の口が開くのを、茶化さずに待っていた。

「我が子の宿敵だ」

 あっさりとした返答だ。吸血鬼ならもう少し長ったらしく説明していたところだ。

「どっちの?」

「二人目だ」

「というとこれはクドラクか。ひょろひょろとしてヤカンの霞のような小僧だ」

「あんたに言われたくない」

 俺に負けず劣らずひょろひょろしていてカイワレ大根みたいだ。吸血鬼はこれを喉元で押しとどめた。

「これを殺せんようでは、お前の息子も程度が知れているな」

「なんだとぉ」

 吸血鬼はレッサーパンダが威嚇するように、諸手を挙げて抗議する。伝統的狩人は神妙な顔をして首を振った。

「確かに」

「そんなぁ」

「なあ。本当にそれだけ? ほかに何かされなかったか?」

 狩人の義父は妙な表情をして口を押さえた。欠伸をかみ殺したらしい。

「何もない。去年の……盆だ。息子の一人がいる日本に帰郷したことがあっただろう。それで会った」

 冥府では時間の経過は曖昧らしい。吸血鬼がこの男と会ったのはアパートに住んでいた時、つまり去年だ。

 吸血鬼の王様が騙しているだけかもしれないが。吸血鬼にしては清廉っぽい見た目や素直っぽい態度よりも、性格は悪辣で狡猾なのかもしれない。

「悪かったね、こんな遅くに来ちゃって。そろそろ出るよ」

 特別何かお喋りしたかったことがあるわけではない。ならば迷惑にならないうちにさっさと出るべきだ。もうなっている? それはいいんだ。かけてしまったものは仕方がない。吸血鬼は椅子から足を下ろした。行儀を考えればもとから上げるべきではなかった。

「最後に」

 吸血鬼の王様の緑色の目が見ていた。伝統的吸血鬼狩人の鋼色の目が、吸血鬼を射るように見ていた。

「最後に聞きたい。理人は元気にしているか?」

「してるよ。俺を殺せるほどじゃないけど。おやすみなさい」

 吐きそうなほどの緊張感を振りほどいて、吸血鬼は部屋を出た。

 大きなため息をついて、壁際に背を預け崩れ落ちる。

「どうだった? 俺。理人の宿敵に相応しいって思ってもらえたかな?」

「どうも何も、君から理人の話は出なかったようだが。ポイント稼ぎは出来なかったな」

「そんなー……何のポイントだよ」

 熱くなった頬を手のひらで冷やす。さながら恋が出来る真人間のようだ。二年も同居に付き合い恋人の真似をしておいて今更照れる余地があったのか、と嘆息する。

「理人……」

「君と理人の関係は宿敵だったはずだが」

「そう言っただろ。それ以外の何に見えるんだよ」

「これまで二年間の君たちの素行はどう見ても……つがいだった」

「ごめーん、理人に言ってやって♡ あいつ俺にべた惚れなんだぁ」

「君のほうは惚れてないのか?」

「あ?」

 しばらく部屋の中で声があり、ドアが開いて閉じる。横を見れば吸血鬼の王様が縮こまった吸血鬼を見下ろす。天使のほうは一瞥もしない。完全に存在しないものとして扱っているかのようだ。

「やっぱり、こっそり、見てたんだ」

「朝になれば話ができると言ったはずだが」

「冥界ってずっと真っ暗でいつが朝なのかわかりませんし。陛下に置かれましては知る手段を持っていらっしゃるみたいですが」

「朝と夜には鐘が鳴る。朝は三度、夜は四度。一時間おき」

「朝三暮四かぁ」

 さて、と吸血鬼の王は手を振り、一瞬だけ吸血鬼の刺客を遮る。

 その一瞬にして景色が変わる。絢爛な客間の内廊下から、窓のない灰色の応接間のソファの上へ。どうやら我々は移動したらしい。吸血鬼の常識にとらわれた脳は、状況をを理解するのに時間がかかる。

 認識が終わる前に、吸血鬼の王は口を開く。一人掛けのソファの肘掛け、破裂した泡のような彫刻を指で撫でる。

 サメのように端麗な牙が並んでいた。

「三つ、聞くべきことがある」

「はい、何でしょう」

 吸血鬼は状況の認識を諦めて、ただ柔らかいソファの上で姿勢を正す。ふにゃふにゃの座面の上でそれをするのは容易なことではなかった。

「お前にも聞きたい。あの吸血鬼狩人とお前の関係は、何だ?」

「宿敵の義父です」

「それだけか」

「はい」

「本当に?」

「あの人が一昨年のお盆に帰ってきて、知り合っただけです」

 緑色の目がじっと見据える。真実だけを伝えているのだから、吸血鬼は堂々にっこりと笑う。

「異常なのはお前と宿敵の関係だけか」

「そ~っすね~~っ」

 王様にまで異常と言われてしまった。照れ臭く灰色のソファの下でジタバタ足を動かす。低いテーブル越しに見咎められたが、吸血鬼は気付かない。

 小さな嘆息を聞き逃されたが、王様は気にせず話の続きをする。

「二つ目。何が望みだ。簡潔に言え」

「俺も城が欲しい。出来ればここより小さくて暮らしやすい城がいい」

「そうか」

 王様はまったく目を合わせてくれない。右手の上で粘土をこねるような動作をして、ポンと机の上に投げるふりをする。

 そのような妙な動作をした後に机の中央に現れたのは、顔より一回りの大きさをした、濃淡のある灰色の球形である。表面の三分の一ほどには幼児向けパズルのような形をした、様々な色の透き通ったピースが張りついている。よく見れば球形にはわずかな凹凸がありごつごつしていて、ところどころ先端に丸や三角が付いたピンが刺さっている。

「何ですかこれ」

「地図。この場所を貸し与えよう」

 吸血鬼の王はピンを中心に球の表面を爪の先で引っ掻く。凹凸に任せて爪を向かわせ、いびつな線が描かれる。

「やったー! 陛下、太っ腹!」

 貸し与えると言われたこの土地がどういう場所なのか、そもそも地図とはどこの地図なのか。わからないが吸血鬼はとりあえず褒め立てる。

「貸し与える代わりに、やってもらうこともある」

 低い声で独り言ちるように、王様は息を吐く。憂鬱気質が姿をとったような男だ。本当に男なのか? 肉付きからも骨格からもわからないが、確実に吸血鬼ではある。

「三つ目の質問だ。小さな吸血鬼よ。お前は宿敵に本気で勝つつもりがあるのか?」

「あるに決まってるでしょ」

 食い気味に吸血鬼は応える。あたりがしんと静まり返る。

「あるに決まってるでしょ」

「ちゃんと聞いている。これまでの一年でいい、血はどのくらい飲んだ?」

 吸血鬼は食べた数を指折り数える。いちいち食事の内容を覚えてはいない。それでも数えるほどである。田舎ではあまり目立てないから、人の血はあまり啜れない。ただ一つの例外は宿敵だが、毒を飲まされたように酔っぱらうから調子のいい時に限って飲むしかない。山の獣の血はたまに。だが決して腹一杯にはならない。腹を膨らすには同族食いが一番だ。理由はいまいちわからないが。

「……あんまり」

「経験からくる体感だが、吸血鬼の強さは呑んだ血の量によって決まる。勝ちたいならその身にまともな肉を付けるのだな」

 言い方が悪い。吸血鬼は半分笑って返す。

「あんたはどうなんですか。俺より痩せっぽっち」

「予の力は父上から受け継いだものだ。予自らが蓄えたものは何一つとしてない」

 王様はむっとしたように口をとがらせる。何か気に障ったらしいが、怯え切って逃げ出さなければならないほど怒ってもいない。

「だからこの痩身はただの怠慢だ」

「ふふっ。お父上は今どちらに?」

「死んだ」

 ぎょっとする間もないほどあっけらかんに言った。血縁の死をあまり気にしていないらしい。話を元の筋に戻す。

「お前に仕事を与える。冥府にうっかり落ちて来た人間を全て殺せ。人間でなくてもいい。全ての家畜、全ての生あるもの、うっかり迷い込んだすべてだ。肉体を停止させ、人であるならその血を全て啜れ」

 こつこつ、とひっかき傷を付けた内側、新しく灰色の球形に張り付いたピースを叩く。

「仕事はお前に貸し与えた土地の中で行え。他の場所でやる場合は……取り合い、小競り合いは好きにするといい。他の問題は起こり次第伝えろ。いいな、死神」

「はい、もちろん」

 今日初めて吸血鬼の王様は天使に意識を向けた。吸血鬼が座るソファの後ろに立っていたらしい。気にも留めていなかった。

「冥府に於いては、距離はあまり関係がない。何か困ったことがあったら来るといい」

 吸血鬼の王様は立ち上がり、灰色の粘土細工の球形を手に取って吸血鬼の頭に被せた。表面だけ乾いた紙粘土細工のように表面が軽く弾け、ねっとりしたものが頭部に纏わりつく。

 頭を押さえ付けられてはいない。息苦しさに慌てて粘土細工を引き剥がすと、またも景色が変わっていた。見渡す限りの灰色の平原、腹立ち紛れに頭にくっついた球を放り投げ、振り返ればあの巨大で壮麗な城と比べれば慎ましやかな城が見える。

「めちゃくちゃだなぁ」

「めちゃくちゃなのだ。あれの父親が認識を張り付けてから、冥府の前庭はこの形に定まってしまった。もともと肉体のあるものには自由でない世界だったが、常識がすり替わってしまった」

 天使ミハエルは徹底して吸血鬼に付いてくるものらしい。城の前で会った時からずっと張り付いたままだ。

「そんなめちゃくちゃやるお方はどうやって死んだの? 吸血鬼が寿命とか?」

「いいや、殺された。やったのは理人の義父親だ」

 己の宿敵の義父はやっぱり素晴らしい吸血鬼狩人なのだ。あのおっさんが宿敵でなくてよかった、と心の底から思う。どういうわけか吸血鬼とは共存しているようだし。そもそもあのお義父様の冥界下りの目的は何だったか? 先の王は何故殺されたのか? それよりなにより疑問に思う点があった。

「陛下は自分の親を殺した人間に懸想を?」

「人の心は謎だよなあ。それより仕事の説明とか、新居の案内とか、したいことが色々とあるのだけど」

「あんたに出来るの? この家の施工者?」

「まずは君の新居を見ていこう。ワクワクするな」

 あちらがなんだとかここは何だとか、かの王城に劣らず壮麗な装飾がごちゃついた建築を一巡りする。吸血鬼には具体的にどこのどういう年代の建築であるとは断定できないが、とにかく豪華で装飾夥多であることはわかる。この装飾がかなりの割合で生活には不便になってくる。階段の手すりを支える悪魔なんかはかなりの割合で蹴っ飛ばすことになりそうだ、かわいそうに。

「あの吸血鬼はここで実際に暮らしたことはない。だから生活の上で何かと不便なこともあるだろう。気に入らないところがあれば、君がいた肉体の世界よりも容易に変えられる」

「トイレをただの穴ボコから洋式に変えたり?」

「最新のものにするがいい」

「あの辺にいるガーゴイル全部クビにしたり」

「中に雨どいが無いから、ガーゴイルではなくただの像だ。ロボットにして家事や仕事の手伝いを任せてもいい」

「いいねぇ」

 虚飾で満ち満ちたお屋敷の中でも、台所にはあまり華美な装飾はない。作り変える前はしばらく、お気に入りの場所になりそうだ。

「俺の仕事、吸血鬼の食事はしなきゃならないんだけど、いいの? 天使とか死神的に」

 厨房と言ってもいいんじゃなかろうかというほど大規模な場所に、「背もたれの無い丸椅子あれ」と作り出す。最初の創造だ。吸血鬼がかつて住んでいたアパートにもあったが、長い時間いるであろう場所には椅子を置いておくべきだ。この丸椅子は一巡りしたときには存在しなかったもので、自分好みに作り変える第一歩だ。

「全く構わない。我々は肉には手出しが出来ないから、むしろ君が血を啜るのはこちらにも都合がいいんだ」

「……あの吸血鬼が王様になる前はどうしてた?」

「こちらでやっていた。あるいは時間が殺すことを待っていた。手を下す方法は天使の内、一部のルール破りが出来るものが担っていた」

「そのルール破り天使は今何してる?」

「君の目の前にいる」

 天使ミハエルは首を下げた。小麦色の髪が目を隠す。

「君の狩りを導くものとして、これを示そう。魂は光、生命の愚かさの光だ。これが前庭に於いてはいい目印になる。生命の密度が疎であるから、この光はよく目立つ」

 煌々と光る、天使らしい白い後輪が現れる。恒星のように眩しい光だ。吸血鬼は目を細める。

「あんたは生き物なのか?」

「定義による。肉体が存在しないから、身体の損耗による寿命はない。だから生命とはいえない。魂だけで活動している。活動することが生きることなら、生き物と言える……わからないことだ」

「……哲学の領分だな。この話止めよう。腹減ったな。この家なんかあるかなぁ……」

「それなら早速、仕事にかかった方がいいんじゃないか? この家は見ての通り空っぽだ」

「冷蔵庫もない」

「あっちの部屋が氷室になっている。何か入れたいと思わないか?」

「思う。でも血と肉ばっかじゃなぁ……」

「それなら君が仕事をする間、私は地上で何か見繕って来よう。新居への引っ越し祝いに。どちらが早く帰るか、競争だ」

 そうして天使ミハエルは後輪を溶かし、姿を消した。

 吸血鬼も新居を出て、早速仕事に取り掛かることにした。

 最初の獲物は小さなうりぼうだった。山もすっかり春模様だろう。何もかも天ぷらが美味しい季節だ。

 追い詰めて首からつまみ食いをすると、天使が魂だけをとっていった。これの血を啜った後は、肉はもちろん食うとして、皮はなめしてどうしようか、骨はスープにでもしてやろうか、と考える。あとは、屋敷の庭にでも埋めてやろう。いずれ得たものの残りかすでいっぱいになるのだから、共用墓地を作っておくべきか。やることがいっぱいだ。しばらく暇はしなさそうだ。

 腹いっぱいになりたい。もうちょっと欲しいと、吸血鬼は少し遠くへ行く。王様が彼に与えた土地、球形に張り付いたピースの外で、毛の生え変わりかけた兎を一匹。

 誰も文句を言いに飛んでこなかったし、何もなかったとみていいだろう。問題があれば後で謝ればいい。今はゆっくり眠れるくらい、腹を満たしたい。

 どれだけ目を凝らしたところで人は見つからなかったので、吸血鬼は仕方なしに帰ることにした。今はこれで腹が膨れる。家に戻れば天使が何かをとってくると言っていたから、食べられる何かしらがあるだろう。

 冥府には距離は関係ない。気泡塗れの地面を一蹴りで、新居までひとっ飛び。便利な空間だ。もう浮世には戻れないかもしれない。

 戻ると既に天使はいた。広々した台所で調理台にもたれ掛かり、うっとりした顔で酒瓶を眺めていた。

「酒だよ」

「酒」

 吸血鬼は顎から獲物をとり落した。死んだ兎がぐったり落ちる。

 天使は酒瓶を振り振り、中身をちゃぷちゃぷ鳴らす。もう既に一杯飲んでいるらしい、透明なタンブラーグラスに金色の露が見える。

「極甘口の白ワインだ。とてもいい品だ」

「天使が良いのかよ、酒なんて飲んで」

「天使のわけまえというだろう。人が天使に酒をやるのだから、その厚意には預からなければ」

「天使のわけまえって、瓶ごと持って来るやつじゃないよな?」

「うん、まあ、それは、いいじゃないか。地上における相応の対価は支払っているのだから。君も腹を膨らませたら飲み給え。腹を減らして飲むと体調を崩しやすい」

「俺二十歳になったばっかりなんだよ。他に何か無いの?」

「おめでとう。パンと魚、それから塩少々」

「キリストみたいなラインナップだな」

 天使が先に言ったものの他に、机の上には見覚えがあるパッケージに入った調味料が片手で数えられない程あった。醤油やら胡椒やら二人で慎ましく使えば一年は過ごせるほど、砂糖に至っては塩より量が多い。袋を漁り中を見分しながら、持ってきていただいたものではあるが吸血鬼は文句を言う。そうせずにはいられない性質だ。

「どうなってんだ。全然少々じゃねえよ」

「多い分にはよかろう。謙虚は美徳だ」

「謙虚じゃなくて過少報告だろ」

 厨房の奥の食糧庫は冷蔵庫のように冷たい。場所によっては冷凍庫のように寒い。とりあえずそちらにパンと生魚を持って行く。一日で食べきれる量ではない。

「使うことを考えろ。お前もしかして白い粉は全部塩だと思ってるんじゃないだろうな」

「とりあえず塩と言っておけば間違いないだろう?」

「お前のようなやつが唐辛子を胡椒の仲間だと言い張るんだ」

「唐辛子と胡椒は違うのか? どっちも辛いだろう」

「お前……」

 理人の守護天使なだけはある。食への認識はなお悪いかもしれない。

 吸血鬼は血を吸いつつ肉を捌くことにした。こうして捌いたことはない。見様見真似でワタを抜きぶつ切りにする。

「行儀が悪いな」

「うるせえ、不良天使」

 天使は新品の足つきグラスに黄金色のワインを一口二口程度注ぐ。

「飲むか」

「そこ置いといて。今手ェ塞がってるから」

「冷めないうちに呑むといい」

「うん」

 厨房のタイル張りの床は唾液やら獲物の血やらで汚れていく。天使は気にせず自分のタンブラーにどぼどぼと品なく注ぐ。

「もうちょっとサボったら私は別の場所に行くよ」

「おまえ堂々と不真面目な……。理人のところか?」

「うん」

「じゃあこの酒ちょっと残して、持って行ってよ。あいつのはじめて知らないところで持っていかれるの嫌だ」

「直接会いに持って行ってやればいいのに。きっと理人も喜ぶ」

「……やだ。理人のほうからこっち来たいって言ったら、連れてきて」

「そうしよう」

「あともうちょっとワイン入れて。ケチのやり方だろ」

「口に合うかわからなかったからな。君が飲める口かどうかもわからない。一口飲んでからにしたまえ。ほら、あーん」

「やめろ。そこ置いとけっての。一晩くらいここでサボってりゃいいだろ」

「ふふん、そう言われちゃ、ここに留まっておくほかあるまい。わはは、乾杯!」

 天使も酔っぱらうのだな。吸血鬼は毛まみれの手でグラスの脚を掴み、ワインを一口口に含んだ。

「おいしい」

「だろう」

 甘美な酩酊が彼を襲った。

狩人のこの語の話がいくつかありますので、書け次第お出しする予定です。

吸血鬼のこの後はほとんどエッチな話になるため、ここでは出ません。

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