女房の手蹟
「え」
さらりとすごいことを言われた気がするが。
女房は、にやりとしか形容できない笑みを浮かべる。
「では、お文を遣わして参りますわ」
固まった少将の横をすり抜け、さらさらと衣擦れの音が遠ざかっていく。
明くる日。少将の文には姫からの返歌はなく、形式ばった女房代筆の詫び状が届いたのみだった。
「わたくしが適切に処理しておきますから」
と自信満々に言い、女房は局で文机に向かってああでもないこうでもないと歌を書き散らしている。
「わたくし、歌には自信がありますのよ」
「へえ……って、何だこれは!」
手近な紙に書かれた上の句に目を通した少将は、思わず声を荒げる。
「あら、お気に召されませんでした?」
「お気に召すわけないだろう! これではきっぱりと終わりにする気がないことになるじゃないか」
「山路にて 迷わず君を まつ虫の」
女房は上の句を読み上げて、意味ありげに笑みを作った。
「実はこの上の句……右大臣さまのお書きになったものですの。でも意地悪な方。後はわたくしの仕事ですって」
「あの狸親父っ」
この期に及んで左大臣の姫との縁を繋ぎとめておこうとは。しかも、昵懇の女房を利用して。如何にも父右大臣が考えそうな策ではある。
しかし、と少将はその書きぶりをまじまじと眺めた。これが父の手蹟か。やはりあの三枚目の呪符の手蹟とはまるで違うように見える。女の文字に見えるように腐心して書いているとしても、似ても似つかないようだ。
「そなた、大納言の姫君を諦めるなと言ってくれたのではなかったのか」
それなのに、父に加担するのか。
「諦めるな、と申した覚えはありませぬ」
「そんなことを言うなら、私が文を書く。先方の文を渡してくれ」
「何を仰います」
「そなたにはとてもじゃないが任せられない」
少将は、文机の上にあった文も反故紙も、全て掻き集めた。
「持ってゆくぞ」
女房は深くため息を吐く。
「……仕方ありませんわね」
「父上には黙っておいてくれよ」
「……さて、どういたしましょう?」
彼女は肩を竦め、さらさらと文字をしたためた。先程の「山路にて」の歌である。
「せっかく素敵な上の句ですのに」
彼女はこの上の句に自分を重ねているのかもしれない、と思うと少将も少し胸の奥がつんとしてしまった。
女房の局に入り浸る柄ではないのですぐに暇を告げる。早々に辞去し自室に引き上げる時、入れ替わりに次兄が局に入っていくのが見えた。やはりまだ本調子ではないような、おぼつかない足取りだ。
若い娘の忍び笑いが、少将の去った部屋から聞こえてくる。次兄もあの女房と懇意なのだろうか。あまり聞き耳を立てるのも無粋か、と自然足早になった。
冷静になってみると、少将と大納言の姫君との仲を思うからこそ、右大臣の策を明かしたのだと思い至る。
女房には感謝しなければ、と考えながら自室の文机に手に入れた物を並べる。父の歌、先方からの文。そしてあの女房の反故紙。
「……この手蹟……まさか」
少将は文箱をひっくり返して三枚目の呪符を手に取った。
「似ている――」
このことに気づけば、兄上は――。いやな予感が胸に充満し、少将は自室をまろび出た。




