173.
よく見知った、白い天井だ。
それは、ごく普通の一般的な家の天井。6畳程度のスペースの部屋で、中央にシーリングライトの嵌った――所謂、“俺の部屋”の天井だ。
何か、妙な夢を見ていた気がする。朝、目を覚ました俺は、寝そべったままで天井をぼーっと眺めながら、そこにあるはずのものを探すように、記憶を辿る。
――しかし、何も無かった。確かに、何かの夢を見ていた筈なのに。その内容が一切思い出せない。
だが、それはきっと、決して特別な事ではない。生きていれば普通にある事だろう。
見た筈の夢を覚えていない。そんな出来事など、敢えて特筆することも無く起こる事で。僅かなモヤモヤこそ残れど、結局それは、少しすればそんな気持ち悪ささえも、陽炎のように消えてしまうものだ。
――ふと、壁掛けの時計を確認する。
「やべっ……」
時刻は8時13分。急がねば、学校に遅刻する時間だった。
俺は手早く身支度を終える。そして、母の用意してくれた朝食を口の中へと詰め込み、顔だけ洗って家を出る。
――その間にも、何かが頭に引っかかっる。
何故、俺は学校へ行っているのだろう。
いや、それは高校生だからだ。今日は何曜日? 月曜日。高校の名前も思い出せる。辿り着くまでの道も、迷うこと無く辿ることができる。
その間、視界の端に映る家々も知っている。確か、あそこの商店は先日閉店したんだったっけか。理由は確か、店主が高齢で続けるのが難しくなったからだった筈だ。
そういえば最近、通学路の国道沿いにバーガーショップがオープンしたんだったな。誰もがその名を知っている全国チェーン。赤いアフロのピエロのキャラクターが、その店のマスコット。好き嫌いはさておき、知らぬ者などほぼ居ない。
――これらの光景は、当たり前のもの。ごく普通の日常的な光景。前々から見知っていて、しかしごく偶に変化して。そして、その中にある時の流れの変化もまた、そんな毎日の一部。
当たり前の事。当たり前の光景。全てが当たり前で、非日常の介在の無い、普遍的で面白くもつまらなくも無い、わざわざ感想を抱く必要すらない世界。
そんな世界に。ふと、思う。
「(何で、いちいち俺はそんな確認を取っているんだ……?)」
知っているのに、知らない。知っているはずなのにもかかわらず、何故かどれも初邂逅を果たしたような、そんな気分。故に俺は、逐一確認を取ってしまう。
妙な夢を見たからだろうか。――その夢の内容は、結局思い出せないのだが。
そうして思い出せないまま無事学校に着き。友人らと適当に挨拶を交わしてから席について。程なくして、朝学活が始まる。
これも、いつもの変わり映えしない、日常風景。
「そんじゃ、文化祭でうちのクラスが何やるか決めるで」
そこから、そのまま時間続きに1限目の時間を丸々使って、2ヶ月後の文化祭に関してを、クラスの中で話しあう。
今前に立っているのは、このクラスの委員長だ。長い金髪をした碧眼の少女で、そのまま見れば西洋のお嬢様さながらの見た目をしたハーフの女子なのだが、バリバリの関西弁で話し、人柄も親しみやすく、外見に反し意外と話しやすい、そんな人物だ。
「我々のクラスは、他のクラスより遅れている。内容は今日中に決めるように」
そう言うのは、このクラスの担任。教室の端で座って見守っているやたら身長の高い彼は、仏頂面なのも相まって、やや近寄りがたい雰囲気を醸し出している。しかし、その実生徒達の事を一番に考える教師で、皆が信頼を置くのも頷ける、そんな男性だ。
「何でメイド喫茶が優勢なんでごぜぇますか……! 姉さんに見せらんねぇであります……!」
候補が幾らか挙がり、その中で“メイド喫茶(男子もやるように!)”に票数が集まったのを見て、俺の隣の席の男子が頭を抱える。
彼は確か、なかなかのシスコンだったと記憶している。周囲は知っていて、しかも当人は一切それを隠す気も無いため、もはやからかうだの何だのの範囲を超えているのは有名である。
いつもの教室。いつものクラス。
なのに。よくわからない謎の、居心地の悪さ。
まるでここが、自分の居場所ではないかのような――彼らに、何かをしてしまったかのような。そんな気分になって、俺は内心首を横に振る。
なんだかまるで、自分が異物であるかのように、俺は感じていた。誰も彼も、会話の頻度は別にしろ、見知った人物。ここは俺がいつも居る場所。変わらぬ居場所。にもかかわらず感じる、居心地の悪さ。
それはさながら、他の場所から、自分だけが切り取られて貼り付けられたような、そんな気分だった。そんな雑コラのようでいて、何故か違和感無く収まっているような。
「(――それも、少し違うか)」
むしろ、俺だけで無く全ての人物を、どこからか切り貼りして貼り付けたかのような。
ぶっちゃけ、おかしな思考だと、俺は思う。高校生にもなって、厨二病真っ盛りのような考えをしている事に、羞恥を覚えてもいいとさえ思う。
けれども、何故だかそれを、今の俺は否定できないでいた。何故かは分からない。何故かは分からないが、今のこの光景は作られたもので、俺はその理由を知っている気がするのだ。
「(何なんだよ……)」
それはきっと、気にしていなければそれこそ、朝学活の途中で忘れてしまうような、ごく僅かな違和感だったのだろう。――けれども、俺は忘れてしまう事に納得しなかった。
なぜなら、俺はそれを知らねばならないと、いいようのない使命感に襲われたからだった。知らずとも生きていける筈なのに、そうしなければ前に進むことはできないと、何故だか無性にそう思ったからだ。
だから俺は――1限目が終わったところで、学校を飛び出した。
盛大にサボりをかました俺は、電車に乗って、近くの展望タワーへと向かった。急行電車で13分。場所は市内中央の駅周辺で、住宅街が次第にビル群へと変わっていく。
目的の場所で降り、エレベーターで最上階の屋外テラスへ。平日ではあるが、それなりに人が来ている。市内の観光スポットは、年中無休で休む事を許されない。
そんな場所で賑わう人々を、まるで背景のように感じながら。展望タワーの手すりまで行き、俺は空を眺める。
天候は文句の付けようのない晴れ。風は爽やかで、ちぎれ雲が西から東へと、ゆったりと流れていく穏やかな気候。天変地異が起こる前触れという事もなく。永世たる平和そのものを体現したかのような景色が、そこには広がっている。
「…………」
そんな不変の青空を見上げる。雄大な大空だった。世界の中、まるで今居るのは自分一人だけだと錯覚するような、広い青。周囲の喧噪はどこか遠く、周囲とは見えない壁があるように隔絶されているとさえ思うような、広大な天。
何故、俺は学校を抜け出してまでこんな所へ来たのだろうと、今更ながらに思う。この行動は、誰が見ても馬鹿らしい、意味の無い行動だと今更に思う。
しかし俺は、何かを確かめなければならない衝動を覚えた。それに従い、ここまでやってきた。
それが何かは分からない。こんな所へ来ても、未だに自分が何を確かめたかったのか分からない。そして、来た現在もまだ、それを確かめられた気はしない。
自分は今、何の衝動で動いているのか。分からないまま、街並みを眺める。
どこまでも。どこまでも、続く街並み。地平線の彼方で途切れるまで、大地は続く。そしてその果ての向こうにも、きっと世界は続いていることだろう。
そんなもの当たり前なのに。それが知識として知っているのか、実感として知っているのか。その境はとても曖昧だった。知っているという事実は同じ。しかし、その根拠が酷く曖昧で、あまりにも不明瞭だった。
その僅かな違いが、俺を更なる不安にかき立てる。
俺は――……おもむろに、手すりに足をかけた。
展望タワーの屋外テラス。人が転落してしまわないように、硝子張りの壁はとても高い。しかし、頑丈な造りの手すりに乗り、飛び上がればその端に手が届くだろう。
俺は、今からこの場所より飛び降りるつもりだ。
何故か。それは分からない。分からないが、何か行動を起こさねば、この得体の知れない急かされる気持ちの正体が掴めないと思ったからだ。
無論、こんな所から下に落ちれば死ぬだろう。その高さは、17階に相当する。何故か知っている地元知識から得たその階層の上で、頭から落ちればまず間違い無くあの世行きだだと俺は“知っている”。
当然、自殺願望があるわけでは無い。むしろ、俺は死ぬとなったら間違い無く恐怖を覚える側の普通の人間だ。今も、手すりに足をかけただけで足は震え、恐怖が滲んできている。
しかしそれでも、俺は自らの意思を曲げる事はできなかった。何か分からないものを変えるために、高所から飛び降りようと思っている。気が狂ったとした思えない行動だが、今の俺は何故かそれを、とても当たり前のように感じていた。
「――ここは、自殺の名所だそうですよ?」
後ろから、声をかけられた。




