第1話:第6部:血を流す合理性
すべてが液状化し、意味を持たないバグの海へと溶け出していく絶対的な絶望の中。レンの意識が完全に暗転する、まさにそのコンマ数秒前のことだった。
突然、無機質な事務所の淀んだ空気を切り裂くように、鼓膜を劈く異音が鳴り響いた。
「プシュウウウウゥゥッ……!!」
高圧の気体が、細い管から強制的に噴出するような鋭く暴力的な破裂音。同時に、先ほどまでレンの網膜を覆い尽くしていた真紅のアラート画面が、強烈なノイズを伴って激しく明滅し、一瞬だけ動作を停止した。
強制フォーマットの進行が、不可解なエラーによって物理的に「つまずいた」のだ。
ブレて砂嵐状になっていたレンの視界の端に、白い蒸気が立ち上るのが見えた。
音と蒸気の発生源は、薄暗い事務所の最奥のスペース。レンの作業デスクから数メートル離れた、常に分厚い防音ガラスと冷却ユニットで覆われた『生体リンク・ポッド』だった。
物理世界の泥と煤にまみれるレンとは対照的に、ナビゲーターであるサシャの肉体は、普段は常にその無菌状態のゆりかごの中に横たわっている。彼女はCMRSインフラの一部を担う生体端末として、脳神経を基幹システムと直結させたまま、ホログラムを通じてのみ外界とコミュニケーションをとっていた。
その、決して物理的に開くことのないはずの重厚なポッドのハッチが、今はけたたましいエラー音を撒き散らしながら半開きになっていた。
そこから漂ってきたのは、システムの異常過熱を知らせる焦げたプラスチックの臭いではない。もっと生々しく、本能的な恐怖を煽る悪臭――人間のタンパク質が急激に炭化する、肉が焦げるような異臭だった。
「……っ!? サ、シャ……?」
ノイズにまみれた合成音のような声で、レンは自身の透けゆく体を床に横たえたまま、必死に首だけを動かしてそちらを見た。
ポッドの中から上半身を乗り出すようにして、サシャの物理的な肉体がそこにあった。先ほどまで事務所の空中に投影されていた、一切の乱れがない完璧なホログラムではない。
彼女の亜麻色の髪は汗で額にべったりと張り付き、常に清潔に保たれていた制服の襟元は、ドロドロに汚れていた。
彼女はキーボードを叩いてなどいなかった。
物理的なコンソールなど、彼女の戦いには全く意味を成さないからだ。彼女の細く白い項には、基幹システムとダイレクトに接続するための、無骨で巨大なチタン製の量子コネクタが深く埋め込まれている。今、その接続部周辺の人工皮膚が極限の排熱処理に耐えきれず赤黒く焼け焦げ、そこから特殊な冷却液の蒸気が、まるで狂った間欠泉のように激しく噴き出していたのだ。
気化した冷却液の白煙が、サシャの首筋を打ち据え、制服をびしょ濡れにしている。
彼女は、自身の脳の認知資源をダイレクトにCMRSの基幹コードへとパラレルリンクさせ、絶対的な権限を持つシステムの中枢に対して、単独で生体ハッキングを行っていた。
「サシャ……お前、脳を直結させて……!」
レンは、自分が消えかかっている恐怖すら忘れ、戦慄に目を見開いた。
「止めろ……っ! インフラのメインストリームに逆流をかけたら、お前のニューロンが焼き切れる!」
管理官僚『アーキテクト』が統括するシステムは、一個人の脳波など容易く消し飛ばすほどの、巨大で冷酷な情報の濁流だ。そこに生身の脳で割り込みをかける行為は、素手で高圧電流の流れるケーブルを握り潰そうとするに等しい。防御壁を持たない彼女の精神構造は、わずか数秒で完全に破壊され、廃人になる確率が極めて高かった。
「黙って……ッ! 集中、しなさい……レン!」
サシャの口から絞り出された声は、ホログラム越しに聞いていたあの徹頭徹尾、合理的に洗練された冷徹な響きではなかった。
歯牙を食いしばり、喉から血の味が込み上げているのがはっきりと伝わる、泥臭く、必死な人間の声だった。
その瞬間、サシャの右目から、一本の細い筋がツーッと頬を伝って流れ落ちた。
血だった。
眼球の毛細血管が、脳内の異常な血圧上昇と情報処理のオーバーロードに耐えきれず破裂したのだ。真っ白な肌の上を、鮮血が顎のラインへと滴り落ち、彼女の白い制服の襟元に生々しい赤い染みを作っていく。
それでも彼女の視線は、虚空の彼方――拡張視覚のなかで押し寄せてくる巨大な削除プロトコルへと固定されたまま、一切の瞬きすらしなかった。
彼女は今、剥き出しの精神だけで、世界という巨大なシステムの壁を殴りつけているのだ。
「今、あなたの……削除シグナルに……偽の遅延コードを、強引に割り込ませている……ッ!」
サシャの全身が、小刻みに、しかし激しく痙攣し始めた。項から噴出する冷却液の勢いが増し、事務所の気温が異常な速度で低下していく。彼女は呼吸のたびに血の混じった唾液を散らしながら、叫ぶように言葉を繋いだ。
「ポートの維持に……私の、前頭葉の余白を、三十パーセント割いた。あなたの存在確率を、私の脳の処理領域で……一時的に、肩代わりしているのよ!」
前頭葉の余白を割く。
その言葉の意味を理解した瞬間、レンの仮想の心臓が凍りついた。
それは、サシャ自身の「記憶」や「人格を形成する感情の領域」を、文字通りシステムへの生贄として物理的に削り落とし、防壁のブロックとして燃やしているということだ。彼女は、自分自身の存在証明の一部を永遠に失う代償を払って、レンの存在をこの世界に繋ぎ止めようとしている。
「どうして……」
レンの透けかけた唇が、微かに震えた。
常に冷静沈着で、システムの奴隷のように効率だけを求めていたはずの彼女が。少しでも生存コストに見合わない存在は、冷酷に切り捨てるのがこの世界の絶対のルールであるはずなのに。
かつて、過酷な広域記憶障害の清掃現場で、システムのエラーにより崩壊する空間に取り残されたサシャを、レンが危険を冒して強引に引きずり出したことがあった。あの時、サシャはレンの無謀な行動を非難し、「私というインフラ端末の損失を防ぐための、合理的な判断としてのみ評価する」と、自らの感情に冷たい蓋をしていた。
だが、あの言葉は嘘だったのだ。
今、彼女の目から流れ落ちる血の涙と、システムの上位命令を明確に拒絶する脳波の強烈なスパイク。それは、プログラムされた合理性などでは決してない。
ただ一人の不器用な清掃員、レンという唯一のバディへの、純度百パーセントの、剥き出しの執着。人間としての、抑えきれない情動そのものだった。
彼女は、レンが世界から忘れ去られ、消滅してしまうことを、自らの魂と肉体を砕いてでも明確に拒絶していた。
「猶予は……あと、二百秒……ッ!」
サシャの悲痛な叫び声とともに、事務所の空気を埋め尽くしていた真紅の明滅が、不規則なオレンジ色へと後退した。
システムによる「引越し」の強制執行が、サシャの命を削った壁によって、一時的にせき止められたのだ。
レンの指先を侵食していたノイズの砂嵐が、わずかに治まり、不完全ながらも元の肉体の輪郭を取り戻す。すり抜けていた金属の床の冷たさが、再びレンの皮膚に痛いほどリアルに伝わってきた。
彼女が流した血の代償によって、レンは再び重力という楔を一時的に取り戻したのだ。
「二百秒……」
レンは床に這いつくばったまま、項から白煙を上げ、血だらけの顔で荒い息を吐くサシャの姿を、ただただ見つめていた。
彼女が命を懸けて切り開いてくれた、この二百秒という途方もなく重く、短い時間。
その時間が、今、カウントダウンを刻み始めている。




