第1話:第5部:融解する肉体
亀裂が走った、まさにその直後だった。
セピア色の夕暮れと、カンバスを前にした圧倒的な熱量の余韻が、突如として足元からガラスのように砕け散った。
「え……?」
疑問符を脳が形成するよりも早く、世界が裏返る。一時的な位相潜行の強制解除。システムによる無慈悲なタイムアウトだ。
心地よい木の匂いも、柔らかな空気の温度も、すべてが乱暴な力で引き剥がされ、レンの意識は漆黒の真空管の中を猛烈な速度で逆流させられた。バラバラに分解されていた量子データが、物理世界の「元の座標」へと、乱雑に、そして暴力的に押し込まれていく。
「がはっ……! あ、う、ぐぁっ……!」
重い。
意識が肉体という炭素の檻に激突し、再接続された瞬間、レンは事務所の床の上で激しくむせ返った。
全身の骨格に、数トンの鉛を流し込まれたような暴力的な重力がのしかかる。それは彼が先ほどまで愛し、執着していたはずの「物理世界の確かな質量」だったが、純粋な意識体としての軽やかさを知ってしまった今の彼には、ただただ痛みを伴う拘束具でしかなかった。
そして何より、空気が致命的に足りない。
「ひゅっ……は、あ……っ!」
酸素濃度が極端に低下した事務所の、錆と化学物質の混じった淀んだ空気が、急激に肺へと流れ込んでくる。防塵フィルターマスク越しの呼吸は、まるでストローで泥水をすするようなおぞましさがあった。肺胞が汚染された空気を激しく拒絶し、喉の奥でヒューヒューという痙攣した音が鳴り続ける。
胃袋が限界まで収縮し、レンは床に四つん這いになりながら、何も入っていない胃液を金属タイルの上に吐き出した。
(帰って、きた……現実、に……)
ぼやける視界の中で、赤く明滅する端末の警告灯が目に突き刺さる。カタカタと無機質な音を立てて回る換気扇。すべてが、数分前に彼がいたあの灰色の日常のままだ。
だが、何かが決定的に狂い始めていた。
激しい目眩が収まらない。三半規管が麻痺したように世界が回転しているのではない。レンの網膜が捉える「世界の解像度」そのものが、不規則に、そして致命的にノイズを発し始めていたのだ。
「……なんだ、これ……は」
床に突いた自分の両手を、レンは見下ろした。
全身の血の気が引き、心臓が凍りつくような悪寒が背筋を駆け上がった。
彼の指先が、透き通っていた。
いや、ただ透明になっているのではない。煤に汚れ、硬いタコができ、確かに爪というタンパク質の硬度を備えていたはずの指先の輪郭が、まるで古いデジタルテレビの砂嵐のように、細かく、チカチカとブレているのだ。
ピクセル単位に分解された彼の皮膚の隙間から、床に敷かれた金属タイルの格子模様が、はっきりと透けて見えている。
「あ……嘘だろ……」
レンは震える右手を顔の前にかざした。
視線を向けている間にも、その「融解」は恐るべき速度で進行していた。指先から第一関節へ、そして第二関節へと、デジタルノイズの砂嵐が侵食していく。肉体の境界線という、物理世界における最も絶対的なルールが、システムによって強制的に書き換えられようとしているのだ。
それは熱くも、冷たくもなかった。ただ、圧倒的な『無』の感覚が、じわじわと指先から這い上がってくる。
CMRSの強制執行にともなう、物理存在の消去カウントダウンが、最終段階に入っていた。
「社会に不必要な質量」と判定されたレンの肉体は、今この瞬間、現実の物理法則から段階的に切り離され、ただの未定義なデータ群へと解体されようとしているのだ。
「冗談じゃない……俺は、ここにいる! 俺にはまだ、質量がある!」
恐怖が、理性を完全に焼き切った。
レンは本能的なパニックに駆られ、立ち上がろうと身をよじった。すぐ横にある作業デスクの天板に、力任せに左手を叩きつけ、そこを支点にして重い身体を持ち上げようとする。
――スカッ。
何の抵抗もなかった。
摩擦音も、金属を叩く打撃音も、一切発生しなかった。
全体重を乗せたはずのレンの左手は、虚しく空を切り、分厚い鋼鉄製のデスクの天板を、まるで水面をすり抜けるように通過してしまったのだ。
「……え?」
バランスを崩し、レンは再び床に無様に倒れ込んだ。だが、その衝撃すらもが奇妙に軽い。床に打ち付けたはずの肩口の感覚が、分厚いゴム越しに触れられたようにひどく鈍かった。
肩の輪郭までもが、すでに砂嵐状のノイズに変換され始めている。
レンの目は、デスクをすり抜けたままの自分の左手に釘付けになっていた。
手首から先が、完全にデスクの鋼鉄の中に埋没している。いや、違う。物理的に埋まっているのではなく、レンの肉体を構成する分子が、現実世界の物質との「相互作用」を完全に拒絶されているのだ。
質量が失われ、引力が失われ、斥力が失われる。物理世界において、他者に触れることも、物に触れることもできない。それは「存在していない」ことと同義だった。
「嫌だ……」
レンは右手を伸ばし、デスクの上に転がっていた、自分の生命線とも言える『第七世代型・共鳴式位相ブラシ』の柄を掴もうとした。
何百回、何千回と握りしめ、自分の存在を証明し続けてきた重い金属の柄。
しかし、砂嵐のようにブレる彼の指は、金属の表面を空しく通り過ぎるだけだった。掴めない。何度指を曲げても、どれほど力を込めようと念じても、彼の肉体は位相ブラシの質量に一切干渉できない。
世界から、自分が『削除』されていく。
赤い警告灯の光が、レンの透け始めた腕を通り抜け、床に赤い染みを作っている。彼自身の影すらもが、すでにこの部屋から消え失せようとしていた。
「消え……っ! やめろ、俺を消すな!」
喉の奥から絞り出した悲鳴は、もはや人間の声帯が発する音波ではなかった。空気を振動させる物理的な力を失いかけたその声は、電子的なノイズの混じった、不気味で乾いた合成音のように事務所に響いた。
数分前、あの夕暮れの教室で、名もなき美術学生が残した熱量に触れ、恐怖が亀裂を生じたのは事実だ。未知の空白に何かを描き出せるかもしれないという、微かな希望を抱いたのも事実だ。
しかし、いざこうして、自身の肉体がリアルタイムに崩壊し、世界との繋がりが物理的に千切れていく過程を体験することは、そんな淡い希望を容易く吹き飛ばすほどの、根源的で圧倒的な恐怖だった。
頭では理解していても、生物としての本能が狂おしく叫ぶ。
細胞の一つ一つが、因果律から切り離される痛みに――神経を逆撫でされるような、存在そのものの確率がゼロへと収束していく絶対的な絶望に、耐えられずに悲鳴を上げている。
「俺は消えない……っ! 俺はここにいたい! こんな底辺の掃き溜めでもいい! 他人の脳のゴミ箱なんかに、俺を押し込めるな……っ!」
レンは自身の透けゆく両手で、自分の顔を掻き毟ろうとした。だが、右手の指先は左の頬をすり抜け、左手の指先は右の額を通り抜けた。自分自身に触れることすら、もはや許されない。
すべてが液状化し、意味を持たないバグの海へと溶け出していく。
薄暗い事務所の景色が、ぐにゃりと歪む。システムによる強制フォーマットの進行度を示す赤いアラートが、視界の全域を覆い尽くそうとしていた。
彼はただの『未定義のバッファ』となり、誰の記憶にも残らないまま、永遠の忘却の彼方へ突き落とされる。あの父親の空虚な瞳の中にあった、一切の光が届かない絶対の無へ。
もう、なすすべはなかった。
抗うための物理的な手立ては、すでに彼からすべて奪い去られていたのだから。




