2.痛みの向かう先
ある日、アリーシャから衝撃の発言を聞いたわたしは途轍もなく反応に困った。
「あのね、アリス。家族についての本を読んだことがあるの。親は何があっても子どものことを愛しているし、どんな子どもも親のことを必ず愛しているのですのって」
誰だそんな戯言を本に書いたのは。そしてそんなお花畑な本がアリーシャの手の届く範囲に存在したのはなぜだ。
この侯爵家の図書室か? そんな本、あの両親は絶対読まんだろう。と考えたところで、この屋敷の図書室でその本を読むアリーシャの記憶が流れてきた。
ろくでもない親も、どうしようもない子どもも、愛情を理解できない人間も、世の中にはたくさんいる。
この異世界ではそんなことないのだろうかと一瞬思ったが、アリーシャの周りにいる大人達を見ていれば絶対そんなことあるだろうと思う。
「わたくし、お父様とお母様が少し怖いの。でも大好きなの。わたくしは魔力を持たずに生まれた出来損ないだけれど、家族を愛する気持ちは持って生まれることができてよかったわ」
今日も怪我をした体を治癒してやりながら、アリーシャの話を聞き続ける。
「……だから、本に書いてあったことは事実だと思うわ。だからね、だから……わたくしもお父様とお母様にちゃんと愛されていると思うの。最近は前よりも痛いことをされなくなったもの」
暴力が減ったのは父親である侯爵が、侯爵夫人とマクレール夫人を叱ったからだ。
そろそろ六歳になるアリーシャはこれから外出が増えるから体に傷を作らないようにと。それでも奴等は服に隠れた場所を痛めつけてくる。
この世界の貴族は六歳になると、他家へお披露目されたり婚約をするようになったりと、大人への階段を一歩上がるらしい。
世間体しか気にしていない父親と、いたぶり足りないと目で語る母親の、何を見ればそんな希望が持てるのかわからない。
なんて、本当はわかっている。アリーシャの思考や感情は、なぜか自分に流れてくるから。
そう願う気持ちを肯定してほしいと、希望を持たせてほしいと、アリーシャの思いがわたしに告げてくる。
『ああ……わたしもそう思う。アリーシャは世界一可愛いからな』
なぁ、アリーシャ。気づかないほど馬鹿じゃないだろう。
わたしの嘘は、お前の救いになっているのか?
***
アリーシャが日課の散歩で庭園にいるところへ、侯爵夫人がやってきた。
嫌ならずっと避け続ければいいものを、時たまわざと遭遇しに来るのはストレスの捌け口か。
万が一にも、娘の顔を見たいという歪んだ思いがあるのなら、わたしはそんなものを愛情だとは絶対に認めない。
「もうすぐアルノルト殿下との顔合わせね。失礼のないようになさい」
頭を下げて礼を取っていたアリーシャは、初めて聞く話に肩をぴくりと震わせた。
せめて王家が関わることくらいは事前の通達くらいちゃんとしろと苛立ちが募る。
微かな反応を見せただけで「承知いたしました、侯爵夫人」と返したアリーシャはすごいと思う。
「まさかとは思うけれど、アルノルト殿下に愛されるかもしれないなどと考えていないでしょうね。どうせ出来損ないのお前が気に入られるわけがないもの。期待はしないでおくわ。お前のようなものに寵を与えられるのは、国王陛下くらい器の大きい方しかいないでしょう。陛下は膨大な魔力をお持ちだもの。そんな陛下に愛されれば、きっととても深く幸せな愛をいただけるのだわ」
馬鹿なのか。器はともかく魔力量が愛情に関係あるわけないだろう。
異世界人の情緒の仕組みは知らないが、魔力なしでもアリーシャは愛情深いのだからそうに違いない。
しかしこの世界では、魔力量が多い人間は愛情深く幸せにしてくれる、みたいな認識なのだろうか。
侯爵夫人の言葉にまたもぴくりと反応したアリーシャの胸中を思い、わたしは密かに溜め息を吐いた。
反応するな、アリーシャ。
あれは意地汚い罠だ。お前を傷つけたいだけの出まかせだ。
「ふふ……わたくしの言葉の意味をきちんと理解しているの? 陛下がお前を愛してくれるなんてこと、不敬にも考えてしまったのかしら。お前を愛するのは、たしかに陛下ほど優れた人間なら可能かもしれないわね。でも、実際に陛下が出来損ないを愛するなどありえないでしょう? だからお前は、誰にも――きゃあぁっ!!」
突然、侯爵夫人のイヤリングが弾け飛び耳障りな悲鳴が響いた。イヤリングの破片で切れたらしい頬に血が滲む。
「なっ……何なの突然! お前といると本当にろくなことがないわ! 今すぐ消えなさい……!」
侯爵夫人は少し青褪めた顔で足早に去って行った。
ざまあみろと思いつつ、もっと早く止めればよかったと、もはや頭を爆破すればよかったと心底思う。
「……聞いた、アリス? わたくし、国王陛下になら愛してもらえるのかもしれないわ」
そう言ってこちらへ向けた顔は、たしかに笑顔を作っていたが、とめどなく涙が零れ落ちていた。
やめろ、アリーシャ。あんな言葉に縋るな。
今さら傷つく必要なんてどこにもないだろう。
あいつらの言葉に価値があったことなど一度もないだろう。
「それなら、わたくしは陛下に恋をするわ。全てを懸けるほどの恋をして、わたくしの全てを愛に変えて、生涯を陛下に捧げるの。……そっ、そうすれば……わたくし、でも……少しはっ、愛して、もらえるかしらっ……」
後半の言葉は、聞き取りづらいほど震えていた。
ここまでの涙も、これほどの苦痛も、アリーシャが露わにするのは初めてだ。
アリーシャはその場に崩れ落ち、大声で泣きわめき始めた。
――まずい、壊れる。
瞬時にそう感じたほど、大きな痛みと悲しみがアリーシャから流れ込んできた。
壊れるのはわたしか、アリーシャか。
すぐさまアリーシャの周囲に防音の結界を張り、そのまま寝室へ転移させた。
魔術でアリーシャの靴を脱がせ、服を着替えさせ、ベッドに放り込む。
今でも精霊の自覚はあまりないが、こんな時ばかりは魔術が自由に使える精霊で良かったと思う。
自分の体を大きくできるか試してみたら、思いの外簡単にできてびっくりした。
アリーシャをすっぽり包み込める大人サイズがよかったのに、なぜかアリーシャと同じ身長にしかなれなかった。
仕方なくその体でベッドに入り、布団の中で丸まって泣き続けるアリーシャの体を抱きしめた。
ずっと顔を伏せて泣いていたアリーシャも、さすがに他人の体の感触に驚いたらしい。
目を丸くして顔を上げたアリーシャは驚きのあまり一度泣き止んだが、またすぐにぼたぼたと涙を零し始めた。
「アリス、なの……?」
『うん、アリスだよ。今日はずっとこのまま抱きしめてあげる。この体なら一緒に寝てもつぶされずに済む。部屋には誰も入ってこれないようにしてあるし、声も漏れないから、安心していい』
アリーシャはわたしの胸に顔を押し付け、普段からは想像もつかない力で強くしがみついてきた。
ぎゅうぎゅうと締め付けられる感触は、わたしの体よりも心に痛みを与える。
「アリス、アリスっ……」
『うん』
「わたくし、国王陛下に恋するわ……陛下に恋したいの」
『うん』
こんな時まで、なぜ素直に愛されたいと願わないのか。
奇しくも、アリーシャが何かをしたいと言葉にしたのは、これが初めてだった。
今のアリーシャにとってこれが精一杯の「愛されたい」なのか。
心が壊れそうな時まで、遠慮して願いを口に出せないのか。
そう思うと、今すぐにローゼンベルク侯爵家の人間は全員抹殺すべきではないかと感じた。
なぁ、アリーシャ。
わたしはお前の心の痛みも半分にできているのか?
半分減らしてもこの苦しさなのか?
お前といる時はいつも胸が苦しいから、確認のしようがない。
治癒魔術が、心にも効けばいいのに。
そう考え始めた時には、アリーシャはわたしにしがみついたまま眠りに落ちていた。
わたしもなんだか全身がだるいような疲れを感じて、しばらく一緒に眠るかと意識を手放した。
***
酷い悪寒で目覚めてがばっと起き上がった時には、部屋の中が暗かった。
だいぶ眠っていたのか陽はすでに落ちたらしい。
『アリーシャ……!』
隣で眠るアリーシャの寝顔は、少し目が腫れているが相変わらず美しい。
静かな死に顔のように見えて、焦ってアリーシャの呼吸と熱を確認する。
『生きてる……大丈夫、生きてる……』
息はしているし、体は柔らかく温かい。
なのに、どうしてお前の気配がどこにもない。
『アリーシャ、どこに消えた……』
アリーシャの魂とでも呼べそうな何かの気配を、いつもそこに感じていた。
アリーシャの体と同じで、温かく柔らかな気配。側にいると落ち着くあの気配。
それが消えたのは、なぜだ……アリーシャ。
――今のわたしは、お前との繋がりを感じられない。




